第四章 通夜
みどりが丘斎場の駐車場は、白線が引き直されたばかりだった。
年の瀬の斎場は混む。式場が三つ並び、入口の案内板に三つの名字が出ている。真ん中が「高梨家」だった。
受付に、見覚えのない若い男が座っていた。誠の会社の人だろう。記帳の筆ペンがかすれて、二本目が出てきた。
「高梨杏です」
手が止まった。目が上がって、また下がる。名前の欄を見て、関係の欄を見て、もう一度私を見た。
「……失礼ですが、あの」
「妻です」
私は香典を出した。中身は三万円。一周目と同じ額を入れた。あのときは、これがこの月の生活費の全部だった。
式場の後ろの隅に、三脚が一本立っていた。
黒っぽいジャンパーの男がカメラの高さを直している。その横に、コートを腕にかけた女性が立っていた。髪を後ろで結び、手にマイクを持っている。目が合うと、軽く頭を下げてきた。電話の声と同じ顔をしていた。瀬尾千尋という人は、たぶん、電話でも現場でも同じ音量で話す。
私も頭を下げた。
振り返ったところで、正面から来た。
「よく来られたわね」
郁恵さんは喪服の胸元に手を当てて、声を張った。式場じゅうに届く張り方だった。
「お義母さん。このたびは」
「よくもまあ、そんな顔で挨拶ができるね。あんたが殺したんだよ」
椅子に座っていた人たちが、一斉にこちらを向いた。四十人ほどいる。半分は親族、半分は会社の人だ。
「テレビの方、聞いてくださいよ」郁恵さんはマイクのほうへ体を向けた。「この人はね、誠が息をしてるうちに、もう要りませんって言ったんです。それで家をがらんどうにして、あたしには一言もないんです」
瀬尾さんはマイクを下げたままだった。
「お義母様。いま、ご焼香の途中ですので」
「だって本当のことだもの」
「後ほど伺います」
「後ほどって、いつよ。あたしはね、この三日で五キロ痩せたんですよ。ご飯も喉を通らないの。それなのに、あの人は――」
「お義母様」
「息子の写真も飾れない部屋で、あたしは年を越すんです」
郁恵さんの勢いが、半歩だけ落ちた。この人は、自分の声に合わせて音量を上げてくれる相手にしか強く出られない。
「お義母さん。ご焼香だけ、させてください」
「図々しい」
「妻ですので」
「妻だったら、なんで助けなかったのよ。なんで、お金のことばっかり言ったのよ」
親族の列から、声が重なり始めた。
「そうだよ、杏さん。順番ってものがあるでしょう」
「まずは謝るのが筋じゃないの」
「家財道具だって、落ち着いてから話せばよかったのに」
藤井さんが困った顔で私を見ている。昨日、電話をくれた人だ。ここでは何も言わない。言えないのだろう。
誰も、誠が何をしていたかは訊かない。私が何をしたかだけを訊く。死んだ人間はいつでも被害者で、残った人間はいつでも被告になる。
「みなさん」私は列のほうへ向き直った。「お話は、伺います。順番に、全部」
「なんだよ、その言い方は」
「今夜のうちに、と思っています」
ざわめきが少しだけ引いた。引き方が、思ったとおりだった。人は、こちらから差し出された喧嘩を、いつもは買わない。
「杏さん、ちょっとこっち」
腕を取られた。藤井さんの旦那さんだ。取ったというより、引っぱられた。
「いいから。ちょっと表で」
「離してください」
「話を聞くだけだから」
指が、喪服の袖越しに骨まで当たっている。私は動かなかった。
「――いま、みなさんの前で、私の腕を掴みましたね」
声を張らずに言った。張らなくても、静かな部屋では届く。
カメラのレンズが、こちらに向いていた。
手が離れた。離れてから、この人は自分の手を見た。
「……いや、そんなつもりじゃ」
「結構です」
私は袖を直して、前へ進んだ。誰も通せんぼをしなかった。人は、撮られている場所では急に行儀がよくなる。
通路の途中で、名札の男が横に並んだ。会社の人だ。五十代、髪を七三に固めている。
「あの、奥様。営業部の田淵と申します。このたびは、なんと申し上げていいか」
「お世話になりました」
「高梨は、うちの部でもよくやってくれて……その、部の者も、みんなショックを受けております」
「そうですか」
「あの、本日はですね、うちの部から何人か来ておりますが、みんな高梨とは、仕事の関係だけと申しますか」
「どなたの話ですか」
「いえ」田淵さんは手を振った。「一般論です。一般論として」
一般論として手を振る人は、だいたい具体的な誰かの顔を思い浮かべている。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
焼香台の前に立つ。
遺影の誠は、会社の名札をつけて笑っていた。この写真は、去年の社員旅行のものだ。私が撮った写真は一枚も使われていない。
抹香を摘んで、額まで上げずに落とした。
煙がまっすぐ上がる。
菊が一本だけ、首の付け根で折れて下を向いていた。誰も直していない。
手を合わせながら、私は数を数えていた。三年で千九十五日。そのうち、この人が私と夕飯を食べた日は、たぶん百日に足りない。
振り返ると、目が合った。
三列目の端。黒のワンピース。膝の上で揃えた手。まつげが濡れている。
沢井美月。
その隣に、郁恵さんが腰を下ろすところだった。美月の背中に手を置いて、何か言っている。マイクを持った瀬尾さんが、少し離れて立っていた。
「この子はね、誠が会社でいちばんお世話になった子なんですよ」
「そうですか」
「気立てがよくてねえ。今日もいちばんに来てくれて、受付まで手伝ってくれて。うちの誠は、いい人に恵まれたんです」
美月が、小さく首を振っている。とんでもないです、というかたちに口が動いた。
三年間、私はこの人から「気立てがいい」と言われたことがない。一度もない。
私は通路を歩いて、その前に立った。
美月は立ち上がり、両手を前で重ねて、頭を下げた。
「奥様……このたびは」
「沢井さん、でしたね」
「はい。誠さんと同じ部署の、沢井ですぅ」
語尾が、綿菓子みたいに伸びた。
「お忙しいところを、ありがとうございます」
「いえ、そんな……わたし、ただの同僚ですけど、でも、お世話になったので」
うしろで郁恵さんが誰かに何か言っている。美月の肩が、その声のほうへ少しだけ動いた。飼い主を探す動き方だった。
「奥様」美月が声を落とした。「あの、失礼ですけど……延命って、本当におやめになったんですか」
「はい」
「そう、なんですね……」まつげが下がる。「誠さん、かわいそう。わたし、聞いたとき、信じられなくて。誠さん、いつも奥様の話をしてらしたのに」
「私の話を」
「はい。家のこと、全部やってくれてるって。感謝してるって」
美月の指が、私の喪服の袖に触れた。慰めるための触れ方だ。整えられた爪が、黒い布の上で光った。
この指を、私は前にも見ている。一周目、離婚届を出したあとの喫茶店で、この人は同じ手つきで誠の腕を取った。私の目の前で。あのとき私は、何も言えずに席を立った。伝票は私が持って出た。
袖に触れている指を、私は見下ろした。
「沢井さん」
「はい?」
「その手を、どけてください」
「え……」
手のひらが鳴った。沢井美月の顔が横を向いた。誰かが焼香台の角に肘をぶつけた。
式場の音が、全部止まる。
美月の髪が頬に貼りついている。片方の耳のピアスが、さっきまでより下を向いていた。
「なっ……」
「何するんだよ!」郁恵さんの声が飛んできた。「この子は誠の同僚なんだよ、関係ない人なんだよ!」
会社の人たちが立ち上がる。田淵、と書かれた名札の五十代が、何か言いかけて口を閉じた。
カメラは回っている。瀬尾さんはマイクを胸の高さで持ったまま、動かない。
私は手のひらを一度握って、開いた。
顔を上げて、美月を見た。
「殺したのは私じゃなくて、あなたよ」




