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今世では、延命にサインしません  作者: 空の異変


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第三章 炎上

 二十七日、実家の固定電話が鳴り出したのは、朝の七時前だった。

 父が出て、三秒で切った。また鳴る。また切る。四度目に、父は受話器を外したまま電話台に置いた。ツーツー、という音が居間に流れ続ける。

「非通知?」

「知らん番号だ」

 母が新聞を取りに行って、すぐ戻ってきた。ポストに何も入っていなかったらしい。入っていなくてよかった、と思う。

「杏」父が言った。「何があった」

「お義母さんが、書いた」

「書いたって、どこに」

「インターネット」

 父は新聞をめくる手を止めた。この人は携帯でメールしか使わない。インターネットという言葉が、うちの居間で意味を持ったのは初めてだ。

「読むか」

「読まないほうがいい」

「読む」

 私は渡さなかった。代わりに、台所から母の声が飛んでくる。いいから朝ごはん。二人とも、それきり何も訊かなかった。訊かないことで守ろうとする人たちだ。前も、そうだった。

 私はスマートフォンを開いた。

 郁恵さんの投稿は、昨日の夕方に上がっていた。写真が三枚。何もないリビング。床の凹み。壁の日焼け跡。文章は、思っていたより長かった。

 息子が死にました。二十四日の夜、事故に遭って、二日ももちませんでした。

 嫁は、延命をしないと決めました。母親のあたしには、相談もありませんでした。お金がかかるからです。

 葬儀の話もできないうちに、嫁は家に来て、家具も家電もエアコンまで運び出していきました。あたしが働いて働いて、棺桶に入れるつもりだったお金で買った家です。がらんどうになった部屋で、あたしは息子の写真も飾れません。

 母は、もう、涙も枯れ果てました。

 どうか、この子のことを覚えていてください。

 最後の一行に、誠の写真が貼ってある。会社の名札をつけた、爽やかなほうの顔だ。

 その夜のうちに、投稿はどこかの誰かに切り取られ、画像にされて、X に流れた。今朝には、まとめサイトが見出しをつけている。

 ――【衝撃】夫が事故死した直後、嫁が延命拒否&家財ごと持ち去り。義母が涙の告発。

 コメントは二千件を超えていた。読まない、と決めていたのに、三十件ほど読んでしまった。人間の想像力というのは、悪意に向けて使うとき、いちばん具体的になるらしい。


    *


 ゴミを出しに行ったのは、九時を回ってからだった。

 角の家の奥さんが、集積所の前で立ち話をしていた。私を見て、話し声が止まる。止まったあとで、また始まる。ゴミ袋を置いて、会釈をして、背を向けた。

「……あれでしょ、テレビでやってる」

「知識人のお宅なのにねえ」

 声を落とすつもりがないのか、落としたつもりで落ちていないのか。どちらでもいい。三軒先まで歩いてから、私は袋の口の結び方が甘かったことを思い出した。戻って結び直した。悪い噂の立っている家のゴミが散らかるのは、いちばんつまらない負け方だ。

 昼前に、藤井さんから電話があった。誠の父方の従姉にあたる人で、法事のときに一度か二度、挨拶をしたきりの相手だ。

「杏さん。あのね、今ちょっと大変なことになってて」

「はい」

「郁恵さんがね、書いたものが回ってるの。私のところにも、知らない人からメッセージが来てるのよ。あなた、本当に家具を持っていったの」

「持って帰りました。うちの親が買ったものだけ」

「ああ……そう。うん。あのね、こういうのは、勝ち負けじゃないと思うのよ」

「はい」

「ねえ杏さん、お通夜は来るのよね? 来ないとね、余計に言われちゃうから」

「伺います」

「そう。よかった。……よかった、のかしらね」

 最後の一言が、この人の本音だろう。困っている。ただ困っている。悪い人ではない。悪い人ではない人が四十人集まると、あの部屋ができる。

 電話が鳴ったのは、その日の午後だった。

 今度は携帯で、番号は登録がない。出るかどうか、二回考えて、出た。

「高梨杏さんの携帯でお間違いないでしょうか。番組の瀬尾(せお)と申します」

「番組、といいますと」

「夕方の情報番組です。取材でお電話しました。お答えになりたくなければ、そうおっしゃってください。そのまま切っていただいても構いません」

 落ち着いた声だった。早口ではない。語尾を上げない。

「いくつか、事実の確認をさせてください。ご主人の延命について、ご判断をされたのは高梨杏さんご本人ですか」

「はい」

「お義母様は、相談がなかったとおっしゃっています」

「相談はしました。病室で、ご本人に」

「そのときのご様子を、お話しいただけますか」

「今は、やめておきます」

「わかりました」

 食い下がってこなかった。そこが少し意外だった。

「もう一点、お伝えしておきます。お義母様には、今朝、マンションの前でお話を伺っています。番組の方針として、お顔と音声には処理を入れています。生放送ではありません」

「……はい」

「明日のお通夜にも、取材班で伺うことになりました。喪主のご許可をいただいています。カメラが入ります」

 窓の外で、父が物置の戸を開けたり閉めたりしていた。ここ二日、あの人はずっと物置を片付けている。片付けるものは、もうない。

「瀬尾さん」

「はい」

「お義母さんは、私に来てほしいんでしょうか。それとも、来てほしくないんでしょうか」

 少し間があった。

「……私からは、お答えできません」

「そうですよね。失礼しました」

「高梨さん。お話しになりたくなったら、いつでもご連絡ください」

「瀬尾さん。ひとつだけ、お願いしてもいいですか」

「内容によります」

「明日、私が何かを出したら、それを撮っていただけますか」

「何か、とは」

「紙と、音です」

 三秒ほど、返事がなかった。

「……出所を確認できるものであれば、撮ります。確認できなければ、撮っても使いません」

「それで結構です」

「高梨さん。ひとつ、こちらからも。お通夜の席です。感情的になられると、そこだけが切り取られます」

「ご忠告、ありがとうございます」

 通話のあと、番組の配信を探した。

 三分ほどの動画だった。

 がらんどうのリビングが映る。床の凹み。壁の日焼け跡。それから、マンションの前に立つ郁恵さんが映った。顔にはぼかしが入り、声も加工されている。加工されていても、抑揚でわかる。

 マイクが差し出されている。持っている手は細く、爪は短い。

「……お嫁さんとは、その後、お話はできていますか」

「できません。電話にも出てくれません。あたしは、息子の葬儀の相談がしたいだけなんです」

 嘘だ。私は十七件目で出ているし、二百三十万円の話もした。

 画面が切り替わる。同じ建物の廊下で、住人らしい女性が、やはりぼかし越しに答えている。

「怖いですよねえ。こんな短い間に、全部持っていくなんて。挨拶もね、ないですし」

 三分の動画に、この街の言い分が全部入っていた。

 一周目も、こうだった。

 あのときはテレビではなく、電話だった。朝から晩まで鳴って、出れば金の話で、出なければ実家に回る。親戚の誰かが、私の職場の名前まで調べ出していた。

 私は説明した。順番に、丁寧に、証拠を並べて。誰も最後まで聞かなかった。人は、聞きたい話を聞いている途中で満腹になる。

 そのうち、説明するのをやめた。やめたら、今度は「認めた」ことにされた。

 いちばん堪えたのは、母が電話口で、うちの娘はそんな子じゃありませんと言い続けていたことだ。言い返すのではなく、お願いする口調だった。あの声を、私は一年間、ドアの向こうで聞いている。父は物置を片付けていた。あのときも、片付けるものは何もなかったのに。

 助けてくれた人は、いなかった。ひとりも、いなかったわけではないと思う。ただ、あの頃の私には、味方の顔と敵の顔の区別がつかなくなっていた。

 だから今度は、説明しない。

 並べる。人が見ている場所で、順番に。


    *


 夜、検索窓に言葉を打った。

 配偶者 死亡 相続 割合。

 生命保険 受取人 遺産。

 画面をなぞっていくと、関連した検索語が下に並んだ。そのうちのひとつに、見慣れない語があった。

 姻族(いんぞく)関係終了届。

 指が止まる。開かずに、画面を閉じた。今日のぶんは、ここまででいい。


    *


 二十八日の朝、押し入れの奥から喪服を出した。

 一周目、誠の葬儀で着た服だ。クリーニングのタグがついたままだった。袖を通すと、少しゆるい。この一年で、体重が落ちた覚えはない。落ちたのは、一周目の私だ。

 姿見の前に立つ。

 背中のファスナーに手をかけ、下から上へ、一息で引き上げた。

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