第二章 引き上げ
病院を出たその足で、マンションへ行った。二十六日の朝だ。
三年住んだ部屋は、人がいなくなった途端に広く見える。玄関のたたきに砂。ベランダでは、物干し竿の下でサンダルが片方だけ裏返っていた。いつからそうなっていたのか、私は知らない。
業者は、きのうのうちに予約してある。二周目の朝に目を覚まして、私が最初にかけた電話がそこだった。
九時ちょうどに来た。若いほうと、年かさのほうと、二人。
「こちら、全部ですか」
「冷蔵庫、洗濯機、ダイニングテーブルと椅子、ソファ、食器棚、テレビ。あとエアコンも、取り外しをお願いします」
「エアコンは工事になりますけど、いいですか」
「お願いします。取り付けたときの領収書も、うちが持っていますので」
年かさのほうが、軽く頷いた。この人はたぶん、いろんな家を見ている。理由を訊かない人は、だいたい理由を知っている。
運び出す前に、私は部屋ごとに写真を撮った。リビング、寝室、洗面台の下、ベランダ、玄関。引き出しは開けた状態で一枚ずつ。日付が入る設定にしてある。運び出したあとも、同じ角度でもう一度撮った。
壁には、テレビ台の形に日焼けの跡が残った。床には、ソファの脚の凹みが四つ。傷はそれだけだ。壁紙も剥がしていないし、扉も外していない。この部屋で壊れたものは、三年かけて、私のほうだけだった。
誠の机の引き出しは、二段目まで書類で埋まっていた。
几帳面な人ではない。捨てるのが面倒で溜めているだけだ。給与明細と賞与明細が、封を切っただけの状態で年ごとに重なっている。その下に、銀行から届いた振込のお知らせ。毎月同じ日付、同じ金額、同じ振込先。
私は輪ゴムでまとめ、クリアファイルに入れ、自分の鞄に移した。見たのは日付だけにした。数字を確かめるのは、もっと人のいる場所でやると決めている。
ポケットの中でスマートフォンが鳴った。家計簿アプリの通知だった。
――今月の食費が予算を超えています。
三年分のグラフが開く。折れ線が一本しかない。収入の欄に、ずっと私の派遣の手取りだけが並んでいる。十七万円と少し。誠の給料は、この家に一度も入ってきていない。
通知を消して、アプリを閉じた。
通帳をしまっていた引き出しの奥から、クリニックの封筒が出てきた。角が折れている。中身は三年前のままだ。これも鞄に入れた。
保険会社には、昼前に電話をかけた。
「ご主人様のご契約、二件ございます。会社経由のものと、個人でお入りのものと」
「受取人の変更は、ありませんか」
「変更のお手続きは承っておりません。ご契約時のままです」
「では、必要な書類を送ってください」
「かしこまりました。金額のご確認は、ご請求の際に」
「はい。今は結構です」
金額は聞かなかった。聞けば、顔に出る。私は顔に出るほうだ。
郁恵さんからの電話は、十時から途切れていない。十七件目で出た。
「あんた、家で何やってるの」
「引き上げです」
「引き上げって何よ。あの家はあたしの名義なんだよ。勝手に入らないでよ」
「鍵は誠さんの妻として持っています。今日じゅうに出ますので、鍵も郵送でお返しします」
「家具は。冷蔵庫は。テレビは」
「結婚のときに、うちの親が揃えたものです。領収書が全部あります。リフォームの費用も、親が振り込みました。お義母さんがご覧になった見積書、覚えていらっしゃいますか」
「……知らないよ、そんなの」
「では、こちらで控えをお送りします」
「そんな話はしてないの! あたしはね、あんたたちを住まわせてやってたの。家賃も取らずに、三年も。恩を仇で返すんだね」
「結納も、式も、お義母さんが『家を買ったから要らない』とおっしゃいました」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
「うちの誠は、家を買ってもらえるような子だったの。あんたの家が出したのは、冷蔵庫くらいのものでしょ」
冷蔵庫くらいのもの。二百三十万円分の、冷蔵庫くらいのもの。
「お義母さん。通夜の日取りは決まりましたか」
「二十八日だよ。なんであんたに言わなきゃいけないの」
「伺いますので」
「来るなって言ってるでしょ!」
切れた。
かけ直してきたのは、四十分後だった。
「……さっきのリフォームの見積もり、いくらだったの」
「百八十万円です。家電と家具を合わせて、二百三十万円ほど」
「そんなに出したの? あんたの親が?」
「はい」
黙り込む時間が長かった。そろばんを弾く音が、電話ごしに聞こえるようだった。
「じゃあ、それはあたしが払えばいいんでしょ。分割で」
「お引き取りいただければ結構です。もう運び出しました」
「勝手に決めないでよ。あたしはね、誠の母親なんだよ。あの家の名義人なんだよ」
「名義は、そのままお持ちください。誰も欲しいとは申し上げていません」
この言い方が、いちばん効く。三年かけて覚えた。
*
実家に着いたのは、日が落ちてからだった。
玄関を開けると、味噌の匂い。母が台所から出てきて、私の肩を見て、それから手を見た。荷物が少ないことに安心したのか、がっかりしたのか、どちらの顔もしていた。
「ご飯は」
「まだ」
「じゃあ食べなさい」
父は居間でテレビをつけたまま、新聞を広げていた。私が座ると、新聞を畳んだ。畳んだだけで、何も言わない。
「杏」母が味噌汁を置いた。「あんた、平気なの」
「平気だよ」
「旦那さんが、亡くなったのよ」
「うん」
「泣かないの?」
箸を持つ手が、少し止まった。
泣かない理由を説明するには、二周目の話から始めなければいけない。私が跳んだ非常階段の話も、そのあとこの家がどうなったかの話も。言えるわけがない。言えば、この人たちはまた自分のせいにする。
「……お母さん。私ね、恩知らずだと思われることをする。たぶん、来週いっぱいは、いろんな人に言われる」
「杏」
「でも、忘れて恩を返さないんじゃないの。返す相手を間違えないだけ」
母は何か言いかけて、味噌汁の椀を私のほうへ一センチ寄せた。
父が新聞を膝に置いた。
「腹減ってるのか」
「減ってる」
「なら食え」
それだけだった。テレビでは年末の特番が、来年の運勢を占っていた。
食卓の端に、母の薬のケースが出ていた。朝・昼・晩と印字された仕切りの、晩のところが空いている。血圧の薬だ。一周目、この人は同じ薬を飲みながら、うちの娘はそんな子じゃありませんと、毎日誰かに電話で言っていた。二度倒れて、二度とも、私には黙っていた。
私は味噌汁を飲み干した。塩加減が濃い。母の味付けは、疲れている日ほど濃くなる。
「お母さん。明日、うちの領収書のファイル、探すの手伝って」
「領収書?」
「結婚のときの。家具と、工事の」
「あんなの、取ってあるかしら」
「取ってあるよ。お母さんは捨てない人だから」
母は少し笑って、それから笑ったことに戸惑った顔をした。
*
風呂を出たのが十一時過ぎ。
畳んだ洗濯物の上でスマートフォンが光っていた。親族のグループ。三年間、誰も発言しなかったところだ。
通知が三十件を超えていた。四十件になった。
一番上に、郁恵さんが貼りつけたリンクがある。その下に、文字だけが続いている。
これ本当なの。
お通夜どうするの。
あの子、そんな子だったの。
画面をそこまで送ったところで、もう一件増えた。
――杏ちゃん、お義母さんの書いたもの、読んだ?




