第一章 お義母さん、でしたね
病室の引き戸が、レールから外れそうな勢いで開いた。
「あんた、なんてことしてくれたの!」
郁恵さんはコートの前を留めていない。サンダルに靴下、髪は片側だけ寝癖で潰れている。この人が身なりを忘れるのは、よほど慌てているときか、よほど怒っているときだ。今夜は両方らしい。
「お義母さん。ここは病院です」
「静かにできるわけないでしょ。先生から聞いたよ、あんた、延命はいらないって言ったんだってね」
「はい、申し上げました」
「はい、じゃないよ!」
看護師が戸を閉めていった。閉めるとき、私のほうを見る。何かあったら押してくださいね、という目だ。ナースコールのボタンが、枕元で赤く光っている。
「だいたいねえ、昨日の今日で何をそんなに急ぐの。もう少し様子を見ましょうって、普通は言うもんでしょ」
「昨日、様子を見る費用のお話をしたときは、お義母さんは黙って帰られました」
「帰ったって、あたしだって気が動転してたんだよ。母親が息子の事故を聞いて、冷静でいられると思う?」
「思いません。ですから、ご意向を確かめています」
「確かめるって、何を」
私はコートのポケットに手を入れ、四角いアイコンを探した。指の腹が画面の上で一度滑り、二度目で止まった。
録音、開始。
「お義母さん。まだ間に合います」
「……何がよ」
「先生にお願いすれば、処置は続けてもらえます。昇圧剤を増やして、心臓が止まったときは蘇生もしてもらえる」私はベッドの脇の書類を指した。「同意書に、お義母さんが署名してください」
「なんであたしが」
「実のお母様ですから。それから、続けているあいだの費用は、お義母さんが持ってください。入院の個室代も、転院の費用も、目を覚ましてからのリハビリも」
郁恵さんの口が、開いたまま止まった。
数を数えるような間があった。
「――あたしはお金出さないよ」
来た。
「妻でしょ、あんたが決めなさいよ。あたしは年金暮らしなんだから、月に一万や二万の話じゃないんでしょ。そういうのは若い人がなんとかするもんでしょ」
「かしこまりました」
「かしこ……あんた、何それ。その言い方」
「お義母さんのご意向は、承りました、という意味です」
一分二十秒。私はポケットの中で、録音を止めた。
昨日と同じ言葉を、昨日と同じ順番で、この人はもう一度言った。三年前から変わらない。値札を見る顔で、人の命を見る。
……なるほどね。
郁恵さんの手が上がったのは、そのあとだ。
半歩下がると、手は空を叩いて、点滴のスタンドに当たった。金属が鳴り、スタンドが揺れて、ベッド柵に寄りかかって止まった。
「よけるんじゃないよ!」
「よけますよ。お義母さんに手を上げられる理由が、私にはありませんので」
「あんたが誠を殺したんでしょうが! あたしの、たったひとりの息子を」
ベッドの上の誠は、何も言わない。
管と、テープと、乾いた唇。頬がこけて、顎の線が出ている。この人に似ている、と思った。目のあたりではなく、口の形が。
カーテンが空調で揺れた。この揺れ方を、私は前にも見ている。
一周目、誠が目を覚ましたのは六月の終わりだった。リハビリ室の窓から見えるのは、病院の裏の紫陽花。私は毎朝、誠の好きな銘柄の缶コーヒーを買ってから病室に入った。自分の昼食はコンビニのおにぎり一個にして、その差額を借金の利息に回していた。
二週間後、誠はベッドの上で「離婚してほしい」と言った。
人生は短いとわかった、もう自分を抑えたくない、と。抑えていたのは誰か、という話は最後までしなかった。
話し合いのたびに、誠は壁を殴った。壁でなくなったのは三度目からだ。私の左の耳は、いまも高い音の聞こえが悪い。
借金は俺が返す、と誠は書類の前で言った。離婚届を出した翌月には、借りたのはおまえだろ、と言った。名義を見れば確かに私だ。親戚は私の実家に電話をかけた。母は血圧で二度運ばれている。父は郁恵さんのマンションへ押しかけ、親族と揉めて、警察に連れて行かれた。厳重注意で帰された父は、私に何も言わない。何も言わないことが、いちばん堪えた。
その前の年、不妊治療のクリニックで、私は誠の検査結果の封筒を受け取っている。数値の意味がわからなくて、先生に二度説明してもらった。体外受精をすすめられたけれど、郁恵さんが反対した。高い、あんなものは不自然、自然に任せなさい、と。
親族の集まりでは、こう言った。
うちの誠は元気なのよ。畑が痩せてるんじゃないの、と。
離婚から半年で、私は夜に眠れなくなった。心療内科の待合室は、平日の昼でも席が埋まっている。薬の名前が二つ増え、三つ増え、財布の中の診察券だけが新しくなっていった。
母が私に「ごめんね」と言うようになったのは、その頃だ。謝る理由がどこにもない人に謝られるのは、責められるよりずっと効く。
最後の記憶は、非常階段の風の音だ。手すりが冷たかったことと、下の駐車場の白い線が、やけにきれいに引いてあったことを覚えている。
モニターの音が変わった。
連続した電子音。ドアが開き、白衣が二人、続いて三人。心臓マッサージは行われない。そういう取り決めになっている。
「――午前四時十八分。ご臨終です」
医師の声は、低いまま、少しだけ遅くなった。
郁恵さんが崩れた。膝からではなく、上半身から、ベッドの柵に覆いかぶさるように。
「誠ぇ……! なんで死ぬのよ、母さんをひとりにして、どうするのよぉ……」
喉から出る声というより、腹から絞り出す音だった。ベッドが揺れる。看護師が手を添えている。
は、泣くんだ。
息子の命より財布のほうが大事だった人が、ちゃんと、泣くんだ。しかも上手に。
……なるほどね。この人は嘘をついているわけではない。息子も、お金も、どちらも本当に惜しい。それだけの話だ。
泣き声が、ふいに途切れた。
「……ねえ。誠、保険は」
「保険、ですか」
「入ってたでしょ。会社のと、あと個人のも。あの子、ちゃんとした子だから」
看護師の手が、郁恵さんの背中から離れた。
「お義母さん」
「何よ。確かめておくのは当たり前でしょ。葬式だってお金がかかるんだから」
「そうですね。葬儀のことは、また改めて」
郁恵さんは鼻をすすり、それから思い出したように、もう一度ベッドの柵に突っ伏した。二度目の泣き声は、一度目より音程が高かった。
壁際の棚に、誰かが忘れていった老眼鏡のケースが残っている。昨日からそこにある。持ち主は、もう戻ってこないのだろう。
別の看護師が、手順の説明を始めた。お見送りの時間、死亡診断書、葬儀社への連絡。郁恵さんは聞いていない。私は「はい」と「お願いします」を、順番どおりに置いていった。
「あんたのせいだからね」顔を上げた郁恵さんが、涙で濡れた目でこちらを見た。「あんたが殺したんだ。返しなさいよ、誠を、あたしに返しなさいよ」
「お返しできません」
「この、人でなし――」
「お義母さん。通夜と告別式は、どちらでなさいますか」
「……あんたには関係ない」
「喪主はお義母さんで、ということですね」
「当たり前でしょ。あたしが産んだ子だよ」
「かしこまりました。日取りが決まりましたら、お知らせください」
「来るつもり? 来なくていいよ、来ないでよ。あんたの顔なんか、誠が嫌がる」
誠が嫌がる。誠が可哀想。誠のために。この人の文章には、いつも同じ主語が入っている。その主語が、いま白い布をかけられようとしている。
「伺います」
「は?」
「お義母さん」
私は、膝の上の紙袋を持ち直した。腕時計と、財布と、電源を落としたスマートフォンが、底で小さくぶつかる。
「全部、返してもらいます」




