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今世では、延命にサインしません  作者: 空の異変


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プロローグ サインしない

 深夜一時を回った病院は、音が減った分だけ、残った音が長く伸びる。

 自動販売機がコーンと鳴り、取り出し口で缶が転がった。買ったのは私ではない。面談室の前に並んだ丸椅子の脚に、剥がれかけたビニールテープが巻いてある。誰が、いつ、何のために巻いたのか。そういうものが、この廊下にはいくつもある。

 ナースステーションの奥から、若い看護師が紙袋を提げて出てきた。

高梨(たかなし)さん。事故のときのお預かり品です」

「ありがとうございます」

 袋は思ったより軽い。腕時計。二つ折りの財布。右下に蜘蛛の巣めいたひびの入ったスマートフォン。

 財布を開くと、半分に折れた図書館の利用カードが出てきた。誠が本を読んでいるところを、私は三年間で一度も見ていない。

 スマートフォンの電源は落ちていなかった。画面に触れると、四桁を求められる。義母の誕生日。結婚した年に、あの人が得意そうに教えてくれた番号だ。息子の携帯のロックは母親の誕生日にしてあるのよ、と。うちの子はそういう子なの、と。

 私は袋の口を折り、膝の上に置いた。

「あの、警察の方は」

「夕方にお見えになりました。現場の見取り図を置いていかれています。信号のところで、大型のトラックと」

「相手の運転手さんは」

「怪我はないと伺っています」

「……よかった」

 看護師が私の顔を見た。何か言いかけて、やめた。喜ぶ場所が違う、と思われたのだろう。構わない。一周目の私は、相手の運転手さんに謝り続けて、示談の書類の意味も読まずに判を押した。あれも私の八百万円のうちの一枚だ。

 昨日の朝、目が覚めたときのことを、順番に思い出す。

 枕元の目覚ましが六時四十分を指していた。天井のシミの形が、記憶の中のものと同じだった。カレンダーは十二月のまま。前日の二十四日に、赤いボールペンで丸がついている。誠の帰りが遅くなる日には、夕飯の支度を早めるために丸をつける癖が私にはあった。

 台所へ行って、炊飯器の予約を解除した。手が震えていたのは寒さのせいではない。

 七時十二分に、電話が鳴った。

 義母だった。誠が交差点でトラックと、という声を、私は前にも聞いている。同じ言葉、同じ順番、同じ泣き方で。

 だから私は、あのとき言えなかったことを、今度は言わないでおいた。すぐ行きます、とだけ答えて、通帳の入った引き出しを閉めた。

「奥様。先生がお呼びです」


    *


 面談室の蛍光灯は、片側だけ光が弱い。

 医師は椅子を引き、両手を膝で組んでから、書類をこちらへ向けた。四十そこそこ。声が低く、間をきちんと取る人だ。

「事故から丸一日経ちました。脳の腫れが引いていません。自発呼吸は戻らず、血圧も薬で保っている状態です」

「はい」

「率直に申し上げます。この先の回復は、かなり厳しい」

「はい」

「ご家族としてのお考えを伺わせてください。昇圧剤を増やして、できる処置をすべて続けるのか。それとも、これ以上は苦痛を増やさない範囲に留めるのか」

 机の上に、ボールペンが一本。キャップに歯形がついている。前に座った誰かの癖だろう。

 私は、それを見ていた。

 一周目の私は、この椅子で泣いていた。

 続けてください、いくらかかってもいいですから、と。そう言ってから廊下に出て、親戚に電話をかけ始めた。伯父に、従姉に、母の妹に。声が震えないように、番号を押す前に息を整えた。断られるたび、次の番号を押した。

 半年で八百万円。差額ベッド代、転院、リハビリ、誠が働けない間の生活費。名前も知らない項目にまで、私は頭を下げて金を回した。

 半年後、誠は目を覚ました。

 奇跡ですねと看護師に言われて、私は廊下で声を上げて泣いている。二週間後に離婚を切り出されるとは思わずに。

 どうして戻れたのか。

 考えても仕方がないので、考えないことにしている。

「奥様、失礼ですが」医師が言葉を選んでいる。「お義母様は、昨日の午後、私の前で費用のお話をされました。ご家族の間で、金銭的な行き違いがあるようでしたら」

「行き違いではありません」

「と、おっしゃいますと」

「義母は、出さないとおっしゃいました。私が決めろ、と。決めろと言われたので、決めます」

 医師の眉が動いた。動いただけで、何も言わなかった。

 ……なるほどね。お医者さんの前ではああ言って、明日になったら私が殺したことにするつもり。あの人の頭の中では、もう話の筋ができあがっている。三年も同じ家で暮らせば、それくらいは読める。

「奥様?」

 署名欄は空のままだ。

 私はボールペンを取り、机に戻した。

「延命は、望みません」

 医師の手が止まる。

「……確認させてください。心臓が止まった場合の蘇生処置も、行わない。そういうご意向でよろしいですか」

「はい」

「ご家族の総意、ということで」

「妻は私です」ペンから指を離す。「決める権利も、私にあります」

 医師は何も言わず、カルテに日付を書き込んだ。ペン先が紙を擦る音が、やけに長い。

「……承知しました。ご意向は、記録に残します」

「お願いします」

「今夜のうちに、ということもあり得ます。お近くにいらしてください」

 私は書類を押し返した。サインはしない。しないことが、今日の私の仕事になる。


    *


 面談室を出ると、さっきの看護師が待っていた。

「お飲み物、いかがですか。ロビーの自販機、温かいのが残ってますよ」

「いただきます」

「ご主人、お若いですもんね」

「三十四です」

「……お辛いですよね」

「ええ」

 辛い、という言葉を、私は三年ぶりに素直に受け取った。この人に向ける顔がないだけだ。

 廊下に戻ると、私のスマートフォンが震えていた。画面に「お義母さん」と出ている。折り返さない。

 集中治療室のガラスの向こうで、モニターの波形が規則正しく上下している。三年前、婚姻届を出した日、窓口の職員が判子の位置を直してくれた。そんなことばかり、いまだに覚えている。

 袋の中で、誠のスマートフォンが小さく光った。通知が一件。誰からかは、見なくても見当がつく。

 開けるのは今夜ではない。これは、もっと人の多いところで開ける。

 電源を落として、袋の底に戻した。

 エレベーターが一階で止まり、また上がってきた。

 階数表示が四、五、六と進む。

 扉が開く前から、声が聞こえた。

「――どこ! あの女、どこにいるの!」

 サンダルを引きずる音が、廊下の端から近づいてくる。

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