第9話 乾いた喉と真水の配給 ――海面プラントの限界
海面を覆う鈍色の波濤の上に、水星の塔の受水ゲートが、黒々とした断崖を成して聳え立つ。
係留デッキの一角に横付けされた視察艇は、塵一つない純白の樹脂外殻で隙間なく覆われている。
その白亜の船体の隣で、ボリスが舵を握る老朽運搬バージ『ドロテア』が、赤錆の剥片を海面に散らしながら低く軋む。
レンは海水で濡れそぼった太い麻索を抱え、デッキの係留柱へ二重に巻き付ける。
塩水を含んで硬直した粗い繊維が掌の皮膚を削り、擦り傷から滲んだ赤黒い血が索条を茶色く染める。
バージの排気管から吐き出される重油の不完全燃焼臭と、ゲート周辺に漂う塩素系消毒液の刺激臭。
同じ海の上に浮きながら、塔の側壁で受水作業を監視する職員たちの黒革靴には、波飛沫の染み一つ付いていない。
なぜ俺たちは泥水を啜り、彼らは白亜の船上で清潔な呼吸を保てるのか。
命を削って海水を沸かし、結晶から濾し取ったタンクの真水。それは誰のための命の水なのか。
レンは結び目を強く引き絞り、噛み締めた奥歯の隙間から唾を吐き捨てる。
視察艇のタラップから、純白の防寒外套に身を包んだ男が、音もなくデッキへと降り立ってくる。
中央エネルギー局特務査察官、クローネンベルク。一切の粉塵を寄せ付けぬ白い革手袋をはめ、襟元には黄金の天鍵章が光る。
査察官はバージの薄汚れた甲板を一瞥し、鼻梁の上の銀縁眼鏡を白手袋の親指でわずかに押し上げる。
「外洋独立第三プラントか。定刻より四分遅延している。搬送効率の低下は配給査定に響くぞ」
湿った海風を冷たく切り裂く、感情の削ぎ落とされた官僚的な鼻声。
ボリスが操舵室から躓く足取りで甲板へ降り、油染みだらけの作業帽を両手で抱えて深く腰を折る。
老工員の背中は湿気を含んだ海風に小さく丸まり、酷使された膝関節が重く軋む。
「も、申し訳ございません、査察官殿! 途中で海流が不意に狂いまして、舵の油圧弁が……」
「見苦しい弁解は不要だ。我々が求めるのは、結果と規格の完全な遵守のみだ」
クローネンベルクは真水タンクの給水弁へ歩み寄り、白い手袋の指で真鍮製バルブの縁を軽くなぞる。
白革の腹に、タンク表面から剥落した赤錆の粉末と、微細な塩分結晶が付着する。
査察官の袖口から微かに漂う、高級な整髪料の人工的なラベンダーの香り。
男は眉間を露骨に引き攣らせ、手袋の汚れを払うこともせず、冷酷な視線をボリスへ落とす。
「外殻の濾過膜がひどく劣化しているようだな。弁栓の周辺に微細な塩分結晶の析出が見られる」
傷んでいるのは当然だ。交換部材の配給を幾月も止められ、ボリスが徹夜で銅線を巻き直して繋ぎ止めた濾過網なのだ。
奪うだけ奪い、直すための資材すら与えぬ者たちが、傷を咎めて切り捨てる。
レンは濡れた拳を固く握り締め、クローネンベルクの背中を鋭利な視線で睨み据える。
ボリスは擦り切れた油布で両手を拭いながら、作業着の隠しポケットから折れ曲がった検査票を引き抜く。
震える老工員の節くれだった指。記録紙の端が湿気で波打ち、鉛筆の薄い記入文字が滲んでいる。
「じ、純度は規定値に達しております! 朝一番にミアと二人で三度も比重を測り直しました! どうか……!」
クローネンベルクは手袋をはめた手をわずかに持ち上げ、ボリスの差し出した書類を無造作に二本指で挟み上げる。
査察官の冷酷な歩行が、バージの船倉に保管された分析計の数値を検分するため、受水ゲートの影へと向かう。
【極限深海:技術記録 #01】
◆ 逆浸透膜(RO膜)タワー
海水を高圧で半透膜に押し込み淡水を濾過する海上プラントの生命線。
膜の目詰まりや耐圧パッキンの破断は、淡水供給の完全停止とプラント全住人の死に直結する。




