第8話 橘の問いと下層からの微震 ――老兵の苦言と海底の異変
点検通路から駐機ハンガーへ戻ると、天井クレーンに吊架されたガーディアンの黒い装甲躯体が、薄暗がりの中で沈黙を保っている。
装甲板の隙間から、待機循環中の液化窒素ガスが、細い白煙の筋を引いて音もなく噴出する。
鉄格子デッキを伝い、大型排水タービンの低周波の唸りが、靴底を通じて骨を痺れさせる。
神崎は機甲の前へと歩み寄り、装甲の表面に滲み出た冷却配管の白霜を、手袋を外した素手の掌でぬぐう。
液化窒素配管から伝わる極冷が、皮膚の毛細血管を針のように鋭く締め上げる。
橘曹長が隣に歩み寄り、真鍮製オイルライターの蓋を乾いた音と共に跳ね上げる。
橘が親指で回転ヤスリをこすると火花が爆ぜ、湿気た巻き煙草の先端が燻りながら赤く灯る。
立ち上る乾いた紫煙の苦味。重油と赤錆の淀んだ大気の中で、その臭気だけがふるい戦場の記憶を呼び覚ます。
「あの特務人形の言う通り、天頂層の旦那方は本気で下層を締め上げる気ですぜ」
橘は吐き出した白煙の行方を見据えながら、腰に下げた工具帯の位置を直す。
「三割の真水を奪えば、一週間もすりゃ暴動が起きる。それを待って機甲で踏み潰し、労組を一網打尽にする筋書きでさあ」
橘の読む戦術的予測は、残酷なほど正確に符号する。
外洋プラントから奪い取った真水は天頂層を肥え太らせ、水流層の反抗の芽は秩序の名の下に剪定される。
その剪定鋏の役目を負わされているのが、自分たち特殊保安部隊だ。
橘は煙を深く吸い込み、ガーディアンの背部ラッチに懸架された高熱太刀『侍』へ視線を向ける。
チタン合金の鈍い光沢を放つ柄頭。超高熱の熾熱を帯びるはずの刀身は、黒い鞘の中で冷え切っている。
「隊長。俺たちのこの太刀はよ、一体何を守るために研ぎ澄ましてきたんでしたかね」
「……」
「飢えた労働者の首を刎ねるためじゃねえはずだ。俺たちは……深海から這い上がる化け物から人を守るために、この鉄の塊に乗ったんじゃなかったんですかい」
橘の静かな問いが、神崎の胸骨の奥深くに重く突き刺さる。
軍規と命令に従うことで、おのれの良心を麻痺させてきた歳月が重く沈む。
神崎は素手を握り締め、爪先が掌の皮膚へ食い込む鈍痛を確かめる。
「曹長。軍人は政治を語らない」
「へっ、教本通りの模範解答だ。だがね隊長――あんたの目は、昔から嘘を吐くのが下手だ」
橘は短くなった煙草の吸殻を、鉄格子デッキの隙間から暗がりへ弾き落とす。
赤い火種が深層竪坑の闇へ吸い込まれ、その光条が掻き消えたその刹那。
鉄骨デッキを下から突き上げる重い衝撃波が走り、激しい震動が足首の骨を軋ませる。
排水タービンの機械音とは隔絶した、海底の基盤そのものが低く呻く異界の波動。
駐機ハンガーの照明が一瞬激しく明滅し、天井クレーンの鉄鎖が軋みと共に不穏な音を立てる。
階下を走る深層竪坑の裂け目から、これまで経験したことのない、骨の髄まで凍てつかせる異形の冷気が吹き上がってくる。
神崎は素早くガーディアンの装甲へ手を掛け、身を乗り出して竪坑の底を見下ろす。
水流層のさらに下、光の届かぬ深海の深淵で、何者かが塔の基礎杭を激しく噛み砕く音が不気味に響き渡る。
【特殊保安部隊 監察通信ログ #02】
◆ 研がれる太刀、軋む竪坑
老兵・橘曹長が投げかけた重い軍規への懐疑と、暗黒竪坑の深淵から伝わる微細な振動。
刀身の熾熱を確かめる神崎の眼前に、冷徹な配給削減辞令の現実が突きつけられる。
---
※第2幕読了ありがとうございます! 次回、海面プラントに塔の武装徴発船が強行接岸します。
ぜひ【★評価】や【フォロー】で二人の機士の行方を見守っていただけますと幸いです!




