第5話 水流層第7区画の煤煙 ――特殊保安部隊長・神崎玲司
深淵の底、水星の塔の最下層にある水流層第七区画の空気は、沸騰した泥濁の気流のように重く沈んでいる。
耳の奥を容赦なく圧迫する低周波。吸水タービンの重厚な唸りが、湿ったコンクリート床から軍靴の底へとたえまなく伝わってくる。
頭上を走る高圧配管の継ぎ目から、白濁した過熱蒸気が鋭い悲鳴を上げて噴き出している。
充満する黒ずんだ重油の煤煙と、腐った鉄の赤錆の臭気。気化した潤滑油の微粒子が、吸い込む肺胞の奥にじっとりとへばりつく。
外壁の隔壁板の向こうには、圧倒的な水圧を孕んだ冷たい深海がよこたわっている。
薄氷のようなチタン耐圧殻をひとつ挟んで、この塔の全質量と暗黒の海水が、底辺の区画を押し潰そうと軋みを上げている。
神崎玲司は点検通路の手すりに凭れ、黒革の手袋をはめた両手で、特殊保安仕様機『ガーディアン』の右脚部装甲をなでる。
指先にふれるのは、防錆塗料の冷たいざらつきと、鋲頭に薄く滲んだ油膜の感触。
天頂層から支給された黒漆塗りの機体には、すでに水流層の湿気と煤煙が焼き付き、ぬぐい去れぬ油染みが鈍い光を返している。
ここに届く空気は、エデンの住人たちが吐き出した呼吸のしぼり滓に過ぎない。
塔の頂を覆う人工太陽の光を一度も浴びることなく、過熱蒸気と鉄の毒気の中で寿命をすり減らす数万の労働者たち。
搾取の構造はだれの目にも明らかでありながら、命令系統の鎖だけがこの広大な空洞を秩序として繋ぎ止めている。
神崎は革手袋の締め紐を強く引き締め、緩んだ手首の皺をひとつ残らず引きのばす。
規律。それだけが、この底なしの深淵でおのれの輪郭を保ち続けるための唯一の骨格だった。
機甲の背部へ回り込み、点検梯子を二段上がって兵装架の固定金具へ手をのばす。
架台の中央に垂直に懸架された熾熱を秘めた高熱太刀『侍』の柄頭。てのひらに伝わる超硬度チタン合金の冷厳な硬直。
鞘の固定ピンは所定の位置でかたく噛み合い、通電表示ランプは深い青色を保ったまま微動だにしない。
炉心の超臨界水ジェットと同期して対象を焼き斬るこの太刀を、まだ水流層の警備で抜いたことはない。
湿気を含んだ突風が吹き抜け、濡れた前髪が額にはりつく。
蒸気タービンの激しい振動に混じり、点検通路の鉄格子を踏み鳴らす無骨なブーツの音がちかづいてくる。
鉄の工具箱を腰に抱えた男が、蒸気の白煙を引き裂いて姿をあらわす。
褪色した保安部の下士官服に油染みた前掛けをひっかけた、副隊長の橘宗三郎曹長だった。
橘は煤で汚れた顎の無精ひげを手の甲でこすり、神崎の足元へ重い工具箱をドカリと下ろす。
鉄と鉄が衝突する乾いた高音が、タービンの重低音を切り裂いて反響する。
「相変わらず念入りなこって。こんな汚泥の底で黒鉄の装甲を磨き立てたところで、手に入るのは赤錆だけですぜ、隊長」
橘は胸ポケットから銀色のケースを取り出し、湿気た煙草を一本咥えて火をつける。
粗悪な葉タバコの紫煙が、重油の臭気にまざり合って白くたなびく。
「整備の弛緩は照準の狂いだ。曹長、第七水門の調圧弁点検は完了したのか」
「とっくに終わらせてまさあ。だがね隊長――職務熱心なあんたに、天頂層の旦那方からまた厄介な紙切れが届いてますぜ」
橘は前掛けの内側から、分厚い半透明の防水封筒を取り出し、神崎の前へさし出す。
封筒の表面には、水星の塔・保安部最高司令部の朱印――天を衝く塔と交差する二対の鍵――が、鮮血のような赤さで捺されていた。
朱色の印影の下にすけて見えるのは、底辺の労働区画を根底からゆるがす、冷酷な配給削減辞令の黒い活字だった。
【深海航海ログ:機甲兵器篇 #03】
◆ ガーディアン特殊保安仕様
水星の塔の秩序と軍規を司る最新鋭防衛PT。
重層耐圧装甲と大推力を誇り、統制OS『SCOS』の冷徹な軍規制御によって寸分の狂いなき精密機動を遂行する。




