第4話 不吉な潮鳴りと運搬船の影 ――水星の塔からの黒い船影
レンは開放挺を強く引き下げ、頭上の重厚なチタン装甲蓋を外側へ跳ね上げる。
吹き込んできた海風は先ほどまでの湿り気を失い、腐敗海藻と生温かい鉄の生臭さを帯びていた。
操縦席の縁に足を掛け、外甲板の鉄格子へ身軽に飛び降りる。
靴底を伝播する激しい震動。ドック全体が海底下から突き上げる脈動に鋼鉄を激しく軋ませる。
鉛色の海面を見下ろすレンの視野に、異様な光景が飛び込んでくる。
鈍く光っていた海水が、重油を流し込んだような不気味な黒鉛色へと急速に変色していく。
白い波頭の中に、微細な青碧の燐光の粒が混濁し、弾けては瞬時に消失する。
ボリスが濡れた鉄柵を掴み、肩を怒らせて通路を駆け寄ってくる。
その顔色は、長年吸い込んできた煤煙よりも白く抜け落ちている。
老工員はミアの肩を片手で庇うように抱き寄せ、もう一方の拳でアーチャーの装甲板を力任せに殴打する。
「海の色がおかしい。底の深海で……何かとんでもねえ異変が起きてやがる。レン、今日は絶対に機甲を動かすんじゃねえ!」
ボリスの嗄れた声音の震えに、レンの頸筋の産毛が逆立ち、皮膚感覚が急速に緊張を強める。
暴風雨の夜も、プラントの主管が破断した時も、煙草を燻らせて平然と怒鳴り散らしていた老人が、いま本気で震動している。
「親父……さっきのソナーだ。水深三千二百から、変な打音が聞こえたんだ。……ミアの歌と、周波数が寸分のズレもなく重なってた」
「そんな話は後だッ! 今すぐ炉の熱を落とせってのが分からねえのか!」
ボリスの怒号が吹き荒れる潮風に掻き消される。
ブォォォォン――水平線の霧の彼方から、重々しく鼓膜を震わせる三連の低周波笛が轟く。
大気を圧迫する重低音。洋上の海水が細かい波紋を散らす。
レンは目を細め、白濁した濃霧の裂け目を真っ直ぐに睨み据える。
灰色の雲の下、霧を切り裂いて姿を現したのは、海面を圧倒する黒鉄の大艦影だった。
水星の塔・中央物資統制局の紋章――天を衝く塔と交差する鍵の印――を側面に掲げた、大型水運搬船『ガニメデ』。
独立プラントから搾り取った貴重な真水を吸い上げ、天頂層のエデンへと運ぶ搾取の巨船。
船首が掻き分ける波浪は白く泡立ち、プラントの係留帯を容赦なく揺さぶる。
運搬船の甲板から投光器の強烈な光束が照射され、ドックのレンとボリスを昼間のように照らし出す。
拡声機から合成音声の無機質な通告が響き渡る。
『外洋独立第三プラントへ通告。定時上納真水四百トンの受領を開始する。速やかに係留索を固定せよ』
膜が破断し、配管が悲鳴を上げているこの窮状で、なお膨大な真水を要求してくる冷酷な指令。
レンは濡れた鉄板を靴底で踏みしめ、拳を固く握り締める。
拒絶すれば、プラントへの食料と燃料の配給が即座に遮断される。彼らにとって自分たちは人間ではない。
運搬船の重厚な投錨が飛沫を上げて海中へ投下される。
その巨鎖が引き起こす激しい水流の底、鉛色の海面から光の絶たれた暗黒の深淵へと視線が引きずり込まれる。
この船の真下、光の届かぬ暗黒の水流層では、すでに国家と企業が仕掛けた別の機構が、冷酷に噛み合いを違え始めていた。
【深海航海ログ:作戦記録 #01】
◆ 鉛色の日常の崩壊
外洋プラント周囲に突如現れた武装水運搬船の黒い船影。
遠く深海の底より響く不吉な金属打音が、搾取に耐える日々の終焉と新たなる戦乱を告げる。
---
※第1幕読了ありがとうございます! 次回より舞台は水星の塔内部――神崎視点が開幕します。
面白いと感じていただけましたら、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をお願いいたします!




