第2話 鉄臭い滴とブリキのカップ ――濁った水と少女のペンダント
通路の鉄板を軋ませて姿を現したのは、油染みの付着した作業服を着た小柄な少女だった。
十二歳になるミアのあしくびには、跳ね上がった赤錆混じりの海水が泥のようにこびりつく。
少女は両手で凹んだブリキの容器を抱え、足元を慎重に運びながら狭隘な日陰へと歩み寄る。
容器の縁からは、生温かい蒸留水の湿った湯気と、鼻腔を突く金属の錆臭がわずかに漂う。
「レン、じいちゃん。水、汲んできたよ」
配給タンクの蛇口から滴下する茶褐色の再生水。膜を何重にも通してなお残留する酸化鉄の濁りが、薄い底に赤黒い沈殿を作る。
ボリスは作業台の万力に体重を預け、煤けた厚手の手袋を外して太い首筋の汗を拭う。
「おう、ミアか。……今日の膜の絞り水は一段と苦そうだな」
ミアは爪先立ちになり、容器をレンの胸元へ差し出す。
「レン、先に飲んでいいよ。ずっと下でレンチ握ってたんでしょ」
亀裂の走る乾いたくちびるを小さく舐める少女の仕草。その喉元が、渇水に耐えかねて小さく上下に動くのをレンは見逃さない。
プラントの真水備蓄は底を突きかけている。住民一人あたり一日わずか茶碗一杯分。喉を湿らせるだけで瞬時に消滅する鉄の雫。
天を衝く水星の塔の天頂層では、清浄な人工降雨が降り注ぎ、支配層の住人が何の代償も払わずに冷たい純水を呷っている。
泥水を啜る側と純水を浪費する側に分断された現実。煮え返る熱いものが、胃の腑の底で黒く渦を巻く。
レンは差し出された容器の縁を乱暴に押し戻し、少女の額を指先で小突く。
「バカ言え。お前の喉、砂袋みたいに鳴ってんじゃねえか。さっさと全部飲んじまいな」
「でも、レンのぶんが……」
「俺は機械油吸って生きてんだよ。ガキの分け前を掠め取るほど落ちぶれちゃいねえっての」
レンは油まみれの掌でミアの乱れた髪を乱暴に掻き回す。
諦めたように眉根を下げたミアは、容器にくちびるを押し当て、喉を鳴らして茶色い再生水を嚥下し始める。
冷たい金属縁がくちびるを押し広げる感触。気管の脇を通り抜ける水のわずかな苦渋と、特有の生温かさ。
傾いた首元の薄汚れた襟元から、細い革紐に結ばれた小振りの首飾りが滑り出る。
亡母の形見である真鍮製ロケットの隙間に嵌め込まれた、小指の爪ほどの青い硝子片。
潮風を受け、青い硝子は海底の深碧を宿し、冷たく乾いた光を鈍く反射する。
ボリスが過去、深海の浮上ゴミの中から回収して細工した粗末な硝子。少女はその首飾りを肌身離さず持っている。
ミアは底に残った微量の水滴を名残惜しそうに見つめ、袖口で濡れたくちびるを拭う。
「……ふぅ、ごちそうさま。苦くて、やっぱり鉄の味がする」
「文句言うんじゃねえ。生水を飲んで肺を腐らせるより百倍ましだ」
ボリスが短く鼻を鳴らし、煙草の吸殻を廃油缶へ投げ捨てる。
その瞬間、ドックの天井梁に吊るされた旧式の深海音響受信機が、耳障りな電子雑音を断続的に吐き出す。
ドックを支える海水面下の鋼鉄フロート全体が、深海底から突き上げる不気味な超低周波に軋んで微動する。
底知れぬ暗黒竪坑の深淵から、未知の打音スパイクが冷たい海水を突き破り、足元の鉄骨を激しく揺さぶり始めた。
【外洋プラント機甲台帳:記録断片 #02】
◆ アーチャーカスタム(型式:AR-07 Mod)
外洋独立淡水化プラントにて酷使される作業・戦闘両用の旧式PT。
海水による激しい腐食と赤錆を削り落とし、現場の違法バイパス配管を増設して稼働を維持する鉄塊。




