第1話 鉛色の波浪と赤錆の膜 ――洋上プラントの機士
鉛色の重厚な波浪が、赤錆びた中空フロートの鉄板を腹底から揺さぶる。
白い飛沫が霧となって舞い上がり、海水淡水化タワーの腐食した鉄格子を濡らす。
蒸留配管の接続フランジから漏れる高圧蒸気が、焦げ付いた潤滑油の酸っぱい臭気を撒き散らす。
レンはアーチャーカスタムのみぎ脚部油圧ダンパーの隙間にあたまを突っ込み、泥にまみれた大ぶりの鉄レンチを握り直す。
指先を伝わる冷鉄の硬度。ボルトの角頭には赤錆が固着し、回すたびに砂を噛む鈍い抵抗が掌の皮膚を削る。
水星の塔への規定上納水量を満たすため、プラントの機械群は昼夜を分かたず限界超過の稼働を強いられていた。
逆浸透膜タワーは目詰まりを起こし、高圧ポンプの吸気弁が鋭い悲鳴をあげて軋む。限界を迎えた金属疲労の震動が、足元の鉄格子を通じて骨髄まで伝播する。
剥き出しになった人型機動兵器アーチャーのチタン複合装甲には、外洋の塩分に侵食された無数の白い結晶斑点が浮き出る。
ボリスが太いゴム長靴を振り上げ、足元の送水パイプを力任せに蹴りつける。
継ぎ目から濁った赤錆水が噴き出し、鉄格子の網目を抜けて灰色の海面へと落下する。
「おいレン、また圧抜きパッキンが吹き飛びやがったぞ」
ボリスは咥え煙草の灰を海風に散らし、煤けた顔の深い皺を歪める。
「わかってらい。昨日から予備の耐圧ゴムなんざ底を突いてんだよ」
レンはレンチの柄に体重を預け、固着したボルトを一気に引き絞る。
ガキリ、と金属が噛み合う衝撃が肩関節に突き抜ける。
朝から晩まで赤錆を削り、機械油を拭い、濁った塩辛い再生水を喉へ流し込む毎日の重労働。
雲の上の水星の塔では、支配階層の住人が潤沢な真水で庭園の芝生を濡らし、人工降雨の飛沫を浴びている。
遠く水平線の向こう、濃霧の切れ間に巨大な水星の塔の円柱状基部が、神の墓標のように冷淡に聳える。
ふと、胃の腑の底から煮え立つような苦い熱がせり上がる。このまま従順にボルトを締め続け、すり潰されて果てるのかという昏い衝動。
レンは工具を海へ叩き込みたい衝動を、奥歯を血の出るほど強く噛み締めて押し殺し、手の甲で額の脂汗を乱暴に拭う。
「親父、第3蒸留塔の圧が底まで落ちてる。膜が完全に破れやがったな」
「放っておけ。塔の査察官が来るまでに、塩抜きフィルターを裏返して叩いて誤魔化しゃいい」
ボリスは懐から油まみれのウエスを取り出し、愛機の油圧ピストンを無造作に擦る。
老いた整備士の手の甲には、無数の溶接火傷痕が黒い染みとなって焼き付く。
人間を殺傷する兵器として量産されたPT。この外洋プラントでは、重配管を吊り上げ、高圧ポンプを押し込むための作業機械に成り下がっている。
装甲板の隙間から漏れ出す微弱な排熱。低く唸りをあげてアイドリングする氷鉄リアクターの温気が、潮風の冷気と混ざり合って生温かい気流を作る。
鈍重な低周波が足元を微細に揺らす。それは海流の唸りか、深海底の地響きか。
いつもと同じ整備、いつもと同じ波の音。だがレンの皮膚感覚は、説明のつかない不気味な気配を捉えていた。
レンはスパナを工具箱の鉄板の上へカランと置く。
ドックの奥、赤錆びた波トタンで仕切られた通路の向こうから、ペタペタと裸足が鉄板を踏む小さな足音が伝わる。
乾いた足音が近づくなか、足元の海面下深くで、未知の重々しい振動がフロートの底を確実に突き上げていた。
【深海航海ログ:機甲兵器篇 #01】
◆ 人型機動兵器PT(Prototype)
深海大深度のインフラ開発を目的に建造された全高八〜十メートルの有人人型機甲。
かつての都市間戦争を経て殺人兵器へ転用された、氷鉄リアクターを核とする深海用巨大人型機甲。




