第11話 割れたガラスと奪われた水 ――踏みにじられた尊厳
操舵室の狭隘な鉄扉を押し開き、年若い少女ミアが覚束ぬ足取りで甲板へ姿をあらわす。
塩気を含む荒い潮風に乱れる無造作な薄茶色の髪。その痩せ細った首元には、擦り切れた革紐で吊るされた青い硝子玉のペンダントが微かに揺れる。
少女のくちびるは水分を失って白くひび割れ、尖った顎の輪郭が、連日の疲弊で痛々しく浮き出ている。
ミアは細い両手で胸郭を押さえ、上半身を折り曲げて激しく咳き込む。
肺胞の深部から引き絞られた、湿り気の一切ない苦悶の乾性喘鳴。
ボリスが慌てた足取りで駆け寄り、煤けた作業着の袖で少女の蒼白な額を抱き留める。
「ミア! 出てきちゃいけねえ! 船室で横になってろって言ったろうが!」
「ごめんなさい、おじさん……喉が、からからで……冷たい水が、少しだけ……」
少女の掠れた呟きが、レンの胸の奥を激しく打つ。
受水ゲートの穹窿の奥、太大な黒塗りの送水本管が、天頂層へ向かって脈動を伴い伸び上がる。
ミアが喉を潤すはずだった澄んだ真水が、いま、あの太い主配管を通って上層の楽園へ吸い上げられていく。
貴族たちの温室庭園を潤し、鑑賞池を満たすために、この少女の喉が渇きに引き裂かれている。
泥水すら満足に与えられず、命を削って絞り出した水を掠め取られる過酷な現実。
レンの視界が、胸の底から湧き上がる焼けた熱波によって赤く染まる。
腰の工具差しから重厚な鉄製自在レンチを引き抜き、金属の柄を拳骨が白く軋むほど握り締める。
クローネンベルクの立つ純白の視察艇へ向け、濡れた甲板鉄板を蹴って詰め寄る。
「てめえら……! 水を何だと思ってやがる! この子の喉が見えねえのか!」
レンの喉から放たれた叫びが、灰色の海風を切り裂いて轟く。
レンは鉄工具を握り締め、クローネンベルクの冷淡な視線へ向けて肉薄する。
ボリスが横合いから身を挺して飛び込み、レンの胴体へ必死に組み付く。
老いた工員の全体重をかけた制止。ボリスの油染みた粘る汗が、レンの首筋に熱く滴り落ちる。
「やめろレン! 警備兵に狙われたら終わりだ! 命を粗末にするんじゃねえ!」
「放せ親父! あの役人を、海に叩き落としてやる!」
レンは制止を振り解こうとするが、老工員の骨ばった両手は作業着を掴んで離さない。
クローネンベルクは微動だにせず、冷淡な視線をタラップ背後に控える二名の武装警備兵へ向ける。
耐圧装甲を着込んだ警備兵たちが、自動小銃の構えを固める金属音。
黒光りする銃口が、二人の行く手を阻むように向けられる。
「野蛮な独立民が。身の程を弁えぬならば、力づくで排除するまでだ」
兵士の指が引き金に重く掛かり、凍てつくような一触即発の緊迫感が海面全域を覆い尽くしたその刹那。
海中を伝播する重厚な低周波衝撃波が、係留バージの船底鋼板を激しく突き上げる。
水中音響受波器から、水星の塔最下層の水流層で鳴り響く非常警戒警報の濁った金属咆哮が、海面を衝いて轟き始める。
大深度深淵の漆黒の底で、すでに何者かが解き放たれ、塔全域を揺るがす不可逆の破壊過程が動き出す。
【現場整備班日誌:工廠記録 #01】
◆ 老工員ボリスの整備小屋
旋盤の鉄粉、古いスピンドル油、削り落とされる赤錆。
外洋プラントを半世紀にわたり支え続けた老整備士ボリスの作業場であり、機甲を生活の具として繋ぎ止める砦。




