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第7話 灰沈みの集落②

 リーヴァは階段へ向けていた足を止めた。旅人の剣が、その進路を塞いでいる。


「退けて」

「先に手当てをする」

「下に、あの人がいるかもしれない」

「父親なら、逃げはしない」


 旅人は自分の右手を見た。


 重ねて巻かれた布には、赤い染みが広がっている。指を動かすことはできたが、強く握れば再び血が流れ出すだろう。


「父親でなければ、急ぐほど近づく」


 リーヴァは階段の奥を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 打音は止んでいる。代わりに冷たい空気が石段を上り、2人の外套の裾をかすかに揺らしていた。


「……分かったわ」


 リーヴァは槍を壁へ立てかけ、旅人の手へ巻かれた布を解いた。


 傷は完全には開いていない。だが、掌を横切る縫い跡の一部から血が滲み、剣の柄を握った跡が赤く残っていた。


 薬を含ませた布を重ね、その上から新しい包帯をきつく巻く。


「痛む?」

「ああ」

「なら、まだ手は死んでいないわね」


 旅人は答えず、指を一度だけ曲げた。


 痛みは残っている。それでも剣を握ることはできた。


 リーヴァは荷袋から小さな鉄灯を取り出した。薄い鉄板で火を囲い、正面にだけ細い隙間を開けたものだった。


 火打ち石で灯芯へ火を移すと、頼りない光が石段の途中まで伸びる。


「火を大きくするな」

「分かっているわ。下に空気が残っているとは限らない」


 リーヴァは鉄灯の覆いを狭めた。


 灯火はさらに細くなったが、足元を見るには足りる。


 旅人は家の上階へ戻り、残っていた梁へ革紐を二重に回した。結び目へ体重をかけても緩まないことを確かめてから、紐の端を石段の脇へ垂らす。


「戻るための紐か」

「階段が残っていれば使わない」

「残っていなければ?」

「使う」


 リーヴァが鉄灯を掲げ、先に石段へ足を下ろした。


 黒い泥は見た目ほど深くない。だが、一歩進むたびに靴底が沈み、引き抜くと粘ついた音が返った。


 旅人は剣の先で足元を探りながら、そのあとへ続いた。


 石段は長く続かなかった。


 その先にあったのは、地下室ではない。


 低い石壁に挟まれた細い通路が、左右へ伸びている。天井を作っているのは石ではなく、折れ重なった梁と、その上で固まった灰だった。


 かつて家々の間にあった路地が、降り積もった灰によって覆われたらしい。


 壁には扉や窓の上端だけが残り、そのすべてが黒い泥と灰へ塞がれていた。人々が歩いていた地上の道が、今は集落の下を通る空洞へ変わっている。


「地下道じゃない」


 リーヴァが灯火を左右へ向けた。


「灰の下に、道が残ったのか」

「ああ」


 旅人は天井を見上げた。


 梁は灰の重みに押され、中央が弓なりに沈んでいる。木の継ぎ目から細かな灰が絶えず落ち、灯火の前を白く横切っていた。


 足音を強く立てれば、頭上の灰ごと崩れるかもしれない。


 旅人は右の壁へ刻まれた印を見つけた。


 短い縦傷が3本。それらを斜めの線が横切り、脇に加えられた短い傷が通路の左側を示している。


「印は左だ」

「音は右からした」


 リーヴァは右の暗がりへ鉄灯を向けた。


 光の届かない場所から、何も返ってこない。


「音を追うな」


 旅人が言う。


「印を追え」


 リーヴァは右の通路を見つめたあと、灯火を左へ戻した。


「ええ」


 2人は父親の印に従って進んだ。


 通路はすぐに狭くなった。


 両側から傾いた石壁が迫り、肩を斜めにしなければ通れない。天井も低くなり、旅人の背へ括られた鞘が何度も梁へ触れた。


 そのたびに、灰が首筋へ落ちる。


 しばらく進んだところで、打音が響いた。


 今度は前方ではない。


 右側の壁の向こうから、1度、間を置いて2度。最後に長く間を空けて、3度目が続いた。


 リーヴァの足が止まる。


 右の壁には、灰に塞がれた窓があった。かつては隣の家の室内へ面していたのだろう。


 打音は、その向こうから聞こえた。


「壁を回ったのか」

「音が伝わっただけかもしれない」


 リーヴァはそう言ったが、槍を握る手に力が入っている。


 旅人は壁へ剣の腹を当てた。


 石の奥に空洞がある。


 だが、父親の印は壁の向こうを示していなかった。通路の先へ進むよう、左下へ新しい傷が刻まれている。


「印は前だ」

「分かっている」


 リーヴァは歩き出した。


 打音は追ってこなかった。


 通路の先で、崩れた家の石壁が道を塞いでいた。


 人ひとりが身体を横にすれば抜けられそうな隙間が、壁と地面の間に残っている。だが、その上には太い梁が斜めに落ち、頭上の灰を辛うじて支えていた。


 リーヴァは鉄灯を隙間へ差し込んだ。


「向こう側にも道がある」

「先に行け」

「あなたの剣が引っかかるわ」

「外して渡す」


 旅人は鞘を背から外し、リーヴァへ渡した。


 彼女は鞘と槍を先に隙間の向こうへ滑らせると、腹ばいになって身体を入れた。鉄灯と灰探りの鉄棒を前へ押しながら、石と泥の間を少しずつ進んでいく。


 梁が軋んだ。


 リーヴァの動きが止まる。頭上から灰が流れ落ち、隙間の入口を狭めた。


「動くな」


 旅人は新しい剣を抜いた。


 梁の下には、崩れた石壁の角が食い込んでいる。その石が滑ったことで梁の傾きが変わり、隙間へ重みが落ち始めていた。


 旅人は剣先を石壁の継ぎ目へ差し込んだ。刃を斜めに入れ、梁そのものではなく、沈みかけた石を元の位置へ押し戻す。


 左肩を鍔へ当て、足を泥へ踏み込んだ。


 剣の峰が石へ触れ、低い音を立てる。体重をかけても石はすぐには動かず、右手を柄へ添えると、包帯の下で傷が鋭く疼いた。


「そのまま進め」

「剣が折れる」

「折れる前に抜けろ」


 リーヴァが再び身体を進める。


 梁の軋みが大きくなり、旅人の肩へ灰が落ちた。剣の刃は石の継ぎ目へ深く食い込み、峰がわずかに撓んでいる。


 旅人は鍔へ押し当てた肩に、さらに力を込めた。


 石が動いた。


 ほんの指一本分だった。


 それでも梁の傾きが戻り、潰れかけていた隙間がわずかに広がった。


「今だ」


 リーヴァは地面を蹴り、身体を向こう側へ滑らせた。


 すぐに起き上がると、手にしていた灰探りの鉄棒を隙間へ差し込む。旅人が押し戻した石の下へ先端を噛ませ、柄の反対側を別の石壁へ押し当てた。


「剣を抜いて」


 鉄棒は梁を支えているのではない。押し戻された石が再び滑るのを、わずかな間だけ止めている。


 旅人が剣を引くと、鉄棒が重みを受けて軋んだ。


「長くは保たないわ」

「ああ」


 旅人は剣を先に隙間へ押し込み、右腕を伸ばした。


 肩と胸を石へ擦りながら身体を進める。背後では鉄棒が低く鳴り、頭上から落ちる灰が脚へ積もっていった。


 腰が隙間へ挟まる。


 旅人は左肘を向こう側の地面へ立て、残った脚で泥を蹴った。石の角が外套と皮膚を擦り、息を吐くたび胸が岩へ押し返される。


 リーヴァが旅人の左腕を掴んだ。


「引くわよ」

「ああ」


 彼女が後方へ体重をかける。旅人も脚で地面を蹴り、最後に肩を石の間から抜いた。


 その直後、鉄棒が弾かれた。


 石が元の位置へ滑り落ち、梁が沈む。頭上に溜まっていた灰が一気に流れ込み、通ってきた隙間を呑み込んだ。


 退路が潰れた。


 灰の舞う暗がりで、2人はしばらく動かなかった。


 リーヴァの鉄棒は、崩れた石と梁の下へ残されている。


「戻れなくなったわね」

「別の道を探す」

「見つからなかったら」

「掘る」


 リーヴァは旅人の剣を見た。


 刃の中央には、石へ押し込んだ際についた細い擦れ傷が走っている。曲がってはいないが、無傷でもなかった。


「できたばかりなのに」

「剣として使った」

「道具としてでしょう」

「同じだ」


 旅人は刃についた石粉を布で拭い、鞘へ戻した。


 その先には、小さな石造りの部屋が残っていた。


 扉は失われていたが、壁と天井は崩れていない。もともとは食料や道具を保管する物置だったのだろう。


 内部には、人が滞在した痕跡があった。


 壁際に敷かれた古い外套。燃え尽きた灯芯。口を縛られた空の水袋。切れた革紐は補修され、灰へ触れないよう壁の釘へ吊るされている。


 どれも、集落が沈んだ頃から放置されていたものではない。


 リーヴァは水袋を手に取った。


 口を縛る紐は二重に輪を作り、最後だけ逆向きに通されている。


「父親のものか」

「この結び方を教えたのは、あの人よ」


 彼女は水袋を胸元へ抱かなかった。


 代わりに指で結び目を確かめ、元の場所へ戻した。


 壁の隅には、乾いた血が残っていた。


 大量ではない。誰かが傷ついた手を押し当て、そのまま引きずったような細い跡だった。


 血の先に、刃物で削った文字がある。


 リーヴァが鉄灯を近づける。


 石壁には、短い一文だけが刻まれていた。


 ――印のない音を追うな。


 旅人は文字の周囲へ触れた。


 削られた石粉が、壁と床の隙間へまだ白く残っている。湿気を吸って固まってはいるが、古いものではなかった。


「音を聞いたのね」


 リーヴァの声が低くなる。


「ああ」

「追ったあとで、これを残した」

「戻れたから書けた」


 それが父親の無事を意味するとは限らない。


 少なくとも、この場所までは戻った。


 それだけだった。


 壁の警告の下には、父親の印が刻まれている。


 追加された傷は、物置の奥を指していた。


 そこには壁があるだけに見える。


 旅人が剣の柄で石を叩くと、内部から空洞音が返った。


 石をいくつか退けると、人の肩ほどの幅しかない亀裂が現れる。冷たい風が奥から流れ込み、灯火が細く揺れた。


 亀裂の先には、自然に割れた岩肌が続いている。


 集落の建物ではない。


 灰の下を走る、地そのものの裂け目だった。


「ここへ入ったのか」


 リーヴァは父親の印へ触れた。


「音から離れるために」


 背後の暗がりから、打音が響いた。


 1度。


 少し間を置いて2度。さらに長く間を空けて、3度目が石壁の向こうから返る。


 リーヴァは振り返らなかった。


「印は、あちらよ」


 亀裂へ向けた声には、迷いが残っていなかった。


「ああ」


 旅人は剣を抜き、狭い岩の隙間へ身体を向ける。


 そのとき、前方の亀裂からも音がした。


 背後のものと同じ間隔だった。


 ただし、わずかに遅れている。


 一つの音が岩を伝って回り込んだだけなのか。それとも、前と後ろから別々に叩いているのか。


 旅人には判別できなかった。


 リーヴァが槍を構える。


 旅人は背後を見ないまま、亀裂の暗闇へ剣先を向けた。


 父親の印は、音から離れるように灰の奥を指していた。


 それでも打音だけは、2人を挟むように暗闇の中で続いていた。

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