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第8話 朽ちた関所

 前と後ろから響く打音は、同じ間隔を崩さなかった。背後の音が止むと、わずかに遅れて亀裂の奥から返り、2人が動かずにいても繰り返される。


 旅人は暗闇へ向けていた剣を鞘へ戻した。


「しまうの?」

「この幅では振れない」

「後ろから来たら」

「振り向けない。進むしかない」


 リーヴァは背後の石室を見た。鉄灯の光が届く場所には何もいない。だが、崩れた通路の向こうから聞こえる打音は、先ほどより近く、石壁の内側を伝っているようだった。


「音がしても返すな」

「もう返さないわ」


 旅人が先に亀裂へ入った。岩の隙間は肩幅よりわずかに広いだけだった。


 身体を横へ向け、左手で前方の岩を探りながら進む。背の鞘が何度も壁へ擦れ、そのたびに細かな砂が首筋へ落ちた。


 右手を壁へつけば身体は安定する。だが、包帯越しに岩の尖りが掌へ触れるだけで、開きかけた傷が脈打ったため、旅人は右腕を胸元へ寄せ、左手と両足だけで身体を送った。


 後ろでは、リーヴァが槍を逆手に持ち、鉄灯を低く掲げていた。穂先が岩へ触れないよう柄を肩へ沿わせているため、何かが現れてもすぐには構えられない。


 鉄灯の火は細かった。それでも、岩の割れ目を這う黒いものが見えた。


「止まって」


 リーヴァの声に、旅人は足を止めた。黒いものは植物の根ではなかった。濡れた繊維を束ねたような表面が岩へ食い込み、ところどころで細く枝分かれしている。


 鐘下の祈骸から伸びていた祈り紐と同じものだった。


 亀裂の奥で、父親の合図と同じ打音が響いた。


 音が鳴る直前、岩へ食い込んだ黒い紐がわずかに震えていた。


「音を運んでいるのか」

「それとも、あれが叩いているものを動かしているのか」


 旅人は答えず、黒い紐へ触れないようその脇を進んだ。


 亀裂は緩やかに下りながら、さらに狭くなった。胸を膨らませれば岩へ挟まり、息を吐かなければ身体を前へ送れない。


 途中で進行方向が折れ、旅人の肩が岩へつかえた。右手を使わずに身体の向きを変えることはできない。包帯を巻いた掌を壁へ押し当て、痛みを堪えながら肩を抜くと、布の内側へ温かなものが滲んだ。


「また開いた?」

「まだ流れてはいない」

「聞いたことに答えていないわ」

「進める」


 リーヴァは短く息を吐いたが、それ以上は言わなかった。前方の岩が途切れ、2人が身を屈められるほどの窪みが現れた。


 旅人は先に入り、壁際へ身体を寄せる。リーヴァも続き、鉄灯を高く掲げると、窪みの奥に人の腕が見えた。


 肘から先だけが岩の割れ目から突き出している。皮膚は灰色に乾き、爪の剥がれた指には黒い祈り紐が1本ずつ巻きついていた。


 その手が持ち上がり、指の背で岩を叩いた。1度、少し間を置いて2度。


 3度目が落ちる前に、リーヴァが槍の柄を突き出した。石突で手首を壁へ押さえつける。


 黒い紐が一斉に張った。


 押さえられていた腕が不自然な方向へ曲がり、槍の柄へ指を絡める。乾いた指とは思えない力で引かれ、リーヴァの身体が半歩前へ崩れた。


 旅人は剣を鞘から抜き、刃を手首と岩の隙間へ差し込んだ。振る場所はない。柄を左手で握って鍔へ右の前腕を押し当てると、包帯の下で傷が熱を持った。


 腕は槍を離さず、岩の奥へ引き込もうとする。リーヴァは柄を両手で支え、足を壁の窪みへかけて耐えた。


「押せる?」

「押す」


 旅人は肩と胸の重みを鍔へ乗せた。刃が乾いた皮膚へ沈み、その下の骨で止まる。さらに身体を寄せると、手首へ巻かれた黒い紐が刃と岩の間で伸び、濡れた軋みを返した。


 骨より先に、黒い紐が切れた。


 腕から力が抜け、槍を掴んでいた指がほどける。旅人は剣を引き抜き、リーヴァも石突で腕を割れ目の奥へ押し戻した。切れた祈り紐の先から、黒い液が1滴だけ落ちた。


 それが岩へ触れた瞬間、周囲から打音が返った。頭上、足元、通ってきた亀裂の奥から、同じ合図がわずかにずれながら何度も重なる。


「行くぞ」

「ええ」


 2人は窪みを離れた。背後に残した腕は動かなかったが、別の場所から響く打音が、2人の進む先を追うように続いていた。


 亀裂を進むにつれ、重なっていた打音は少しずつ遠ざかり、代わりに冷たい風が強くなった。


 岩壁の一部に、別の黒い祈り紐が入り込んでいた。その束はすでに切断され、乾いた切り口を灰色の膜が覆っている。


 すぐ脇には、短い縦傷が3本と、それを横切る斜めの線が刻まれていた。追加された傷は、亀裂の先を示している。


 リーヴァが切断面へ鉄灯を近づけた。


「ここも、あの人が通った」

「ああ」

「同じものに掴まれたのかもしれない」

「それでも止まらなかった」


 リーヴァは父親の印へ触れず、槍を握り直した。


「私たちも進むわ」


 亀裂の下りは、そこで終わった。旅人の足元から岩が途切れ、縦に裂けた大きな空洞が口を開けている。鉄灯を下へ向けても底は見えず、落ちた砂が岩へ触れる音だけが遠くへ消えた。


 対岸には、人の手で積まれた石壁があった。自然の岩へ食い込むように築かれ、中央には崩れたアーチの一部が残っている。石壁の下半分は暗闇へ沈み、上部だけが亀裂を塞ぐように伸びていた。


「建物か」

「この深さに?」


 リーヴァは鉄灯を左へ向けた。空洞の縁に沿って、人ひとりが足を置ける程度の岩棚が続いている。途中で何度か欠けているが、対岸の石壁に開いた裂け目まで届いていた。


 灰を探る鉄棒は、崩れた通路へ残してきた。リーヴァは代わりに槍の石突で岩棚を叩き、崩れないことを確かめた。


「私が先に行く」

「灯りを持っている」

「だからよ。足場を見ないで進むつもり?」


 リーヴァは鉄灯を腰の革紐へ掛け、岩壁へ背を押しつけた。槍を横へ持ち、石突で次の足場を探りながら進み、旅人も少し間を空けて続いた。


 旅人は左手で岩の突起を掴み、右腕を胸元へ寄せた。背の剣は重心を外側へ引き、足を運ぶたび鞘の先が空洞へ振られる。岩棚の中央まで進んだところで、足元が欠けた。


 靴の半分が外へ滑り、身体が空洞へ傾く。旅人は左手へ力を込めたが、掴んでいた岩の縁が崩れ、指の間から砂が落ちた。


 リーヴァが槍の柄を差し出した。


「掴んで」


 旅人は右手を伸ばしかけて止め、左手を岩から離し、槍の柄へ移す。リーヴァが身体を壁へ押しつけて支える間に、旅人は足を岩棚へ戻した。


「右手を使えば早かったでしょう」

「次に剣を握れなくなる」

「ようやく薬師の言葉を聞くようになったのね」

「お前が巻いた布を無駄にしないだけだ」


 リーヴァは一瞬だけ旅人を見たが、何も返さず先へ進んだ。対岸の石壁へ着くと、人の肩ほどの裂け目が開いていた。


 リーヴァが先に槍と鉄灯を入れ、身体を滑り込ませる。旅人も鞘を外して押し込み、そのあとへ続くと、裂け目の先には石造りの細長い部屋が残っていた。


 天井の一部は落ちているが、壁は厚い。正面には鉄格子の門が下り、その左右へ小さな部屋と石造りの台が並んでいる。


 床には、文字の消えた木札や割れた封蝋が散らばっていた。壁の鉄釘には、巡礼者が携えていたらしい祈り札の紐だけが残っている。リーヴァは荷袋から古い地図を取り出した。


 湿気を避けるため油布に包まれていたが、端はすでに擦り切れている。鉄灯のそばで開き、灰沈みの集落から東へ伸びる線を指で追った。


「朽ちた関所」

「名が残っているのか」

「今の呼び名だけ。古い名前は消えているわ」


 地図には、集落とその東に続く巡礼路の境へ、小さな門の印が描かれていた。


「ここを越えれば、絶えた巡礼路」


 旅人は鉄格子へ近づいた。人の腕ほどもある縦棒が並び、下端は床の溝へ深く沈んでいる。錆は厚いが、鉄そのものは残っていた。


 格子の向こうには、灰の積もった石道が見えた。父親の印は、門の脇にある石柱へ刻まれていた。


 短い縦傷が3本。それらを横切る斜めの線。その脇へ足された傷は、格子の向こうを示している。


「先へ行った」

「ああ」


 門の横には、鉄鎖を巻き取る大きな車輪があった。鎖は壁の中へ入り、反対側の石室へ続いている。


 旅人が車輪へ手をかける。


 動かない。


 リーヴァは鉄灯を持って隣の石室へ入った。床へ四角い穴が開き、その中に大きな石の重りが吊られている。床の隅には、仕掛けから外れたらしい太い鉄の留め具が落ちていた。


 本来なら、重りが下がる力で鉄格子を持ち上げる仕組みらしい。だが、穴の底には崩れた石が溜まり、重りの下端を支えていた。


「下がれないから、格子も上がらない」

「石を退ける」


 旅人は穴の縁へ膝をつき、手の届く小石を左手で取り除いた。大きな石は重りと壁の間へ挟まり、指では動かなかった。


 剣を抜き、厚い刃を石の継ぎ目へ差し込む。


「また道具にするの?」

「剣だ」

「オルグが聞いたら怒るわ」

「折れなければいい」


 旅人は左手で柄を押し、右の前腕を鍔へ添えた。刃を梃子にせず、楔として石の間へ沈めていく。


 石の縁が削れ、細かな粉が穴へ落ちる。重りがわずかに沈み、壁の向こうで鎖が鳴ると、鉄格子が指一本分だけ持ち上がった。


「動いた」

「まだ足りない」


 リーヴァは床に落ちていた太い鉄の留め具を拾い、剣が広げた隙間へ差し込んだ。両手で押し込み、石が戻らないことを確かめる。


「剣を抜いて」


 旅人が刃を引くと、留め具が重みを受けて軋んだ。今度は剣先を、さらに下の石へ入れる。左肩を鍔へ当て、足を床へ踏ん張った。


 右の掌が脈打ち、包帯の内側へ血が滲んだが、柄は握らなかった。


 刃が石へ沈むにつれ、重りが少しずつ下がる。鎖を巻いた車輪が錆を剥がしながら回り、鉄格子が床の溝から持ち上がっていった。


 膝ほどの高さまで上がったところで車輪が止まり、重りの下にはまだ大きな石が残っていた。


「これ以上は無理ね」

「通れる」

「その剣を背負ったままでは」

「先に通す」


 旅人は剣を鞘へ収め、格子の下から向こう側へ滑らせた。リーヴァも槍と荷袋、鉄灯を順に押し出す。


 先にリーヴァが腹ばいになって格子の下を抜けると、鉄の留め具が軋んだ。旅人は重りの穴を見た。石が少しずつ崩れ、留め具の先端が滑り始めている。


「早く」


 旅人も床へ伏せ、左腕を格子の向こうへ伸ばした。肩を抜いたところで背後から石の割れる音がする。


 鉄格子が沈んだ。


 太い縦棒が外套を掠め、床へ落ちる。旅人は残った脚を引き抜き、向こう側へ転がった。


 鎖の音が止まり、門は再び閉じていた。


 旅人は起き上がり、右手を確かめた。包帯には新しい赤が滲んでいるが、指は動いた。


「戻る道が、また減ったわね」

「前に道がある」

「それしか言わないのね」


 リーヴァは鉄灯を拾い、門の東側を照らした。格子の縦棒には、深い傷が無数に残っていた。


 人が爪を立てたような細い跡。重いものを何度もぶつけたような歪み。床の石には、黒い祈り紐が乾いたまま千切れている。


 傷はすべて、巡礼路の側から関所へ向けて刻まれていた。石壁に設けられた細い射口も、灰沈みの集落ではなく東の道を向いている。門を補強していた鉄板は、こちら側からの衝撃を受けるよう重ねられていた。


「巡礼者を調べるだけの関所じゃない」


 リーヴァの声が低くなる。


「途中から、向こうにいるものを通さないための門に変えられたのね」


 関所の東には、石畳が続いていた。道の両側へ並ぶ祈祷柱はすべて折れ、柱へ結ばれていた祈り紐だけが地面を這っている。遠くまで続く道の上に、人の姿も灯りもなかった。


 絶えた巡礼路。


 門脇の石柱には、父親の印がもう一つ残されていた。傷の底はまだ白く、その脇に加えられた短い線が、東へ続く道を示している。


 旅人とリーヴァは、閉ざされた関所を背にして歩き出した。


 朽ちた関所は、巡礼者を先へ進ませないために閉じられていたのではない。巡礼路から戻ってくるものを、通さないために閉じられていた。


 そして父親の印は、その門の向こうを指していた。

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