第6話 灰沈みの集落
槌の音が止んだのは、鐘舌が宿場へ運び込まれてから8日目の朝だった。
旅人の右手から縫合糸は抜かれていたが、掌には赤黒い傷が残っている。指を深く曲げると、皮膚の奥が引きつり、鈍い痛みが手首まで走った。
薬師は、あと数日は剣を握るなと言った。
灰原の風は、その数日を待ってはくれない。戸口へ刻まれた新しい印も、灰が深くなれば再び埋もれる。
旅人は鍛冶場の前に立ち、炉の火が落ちるのを待っていた。
煤けた屋根の下からオルグが現れる。両腕で抱えていた細長いものを作業台へ置くと、巻きつけていた革を外した。
「持て」
現れた剣は、旅人がこれまで使っていたものより短く、幅が広かった。
峰は厚く、切っ先も鋭く伸びてはいない。鉄を薄く研ぎ澄ませた刃というより、切れる形へ整えられた鏨に近かった。
刃の中央には、周囲より暗い鉄が1本、芯のように通っている。
「鐘舌か」
「芯に使った。外側には、折れた剣から取った鉄を重ねてある」
旅人は左手で柄を掴み、右手を添えた。
持ち上げた瞬間、刃の重みが肩と手首へ落ちる。重心は中央よりも前にあり、片手で細かく操ることには向いていない。
右の掌が痛んだ。
旅人がわずかに指を緩めると、オルグの目が包帯の下へ向く。
「まだ握れんか」
「握れる」
「振れるとは聞いていない」
「確かめれば分かる」
オルグは鼻から短く息を吐き、鍛冶場の隅に置かれていた石を足で転がした。
古い祈祷柱の一部らしい。表面には削れた文字が残り、中央へ細いヒビが走っている。
「斬るな。刃を入れろ」
旅人は剣を両手で持ち上げた。
右手へ力を集めず、左腕と肩を軸にして振り下ろす。厚い刃が石へ食い込み、重い衝撃が柄から掌へ抜けた。
傷口の奥が熱を持つ。
剣は浅いところで止まったが、弾かれてはいなかった。
「押せ」
旅人は右足を引き、柄へ胸と肩の重みを乗せた。すぐには割れず、石の内側から細かな軋みが返ってくる。
右手の傷が開こうとする痛みに耐え、さらに体重を前へかけた。
ヒビが刃先から左右へ広がり、祈祷柱の欠片が内側から崩れた。
旅人は剣を引き抜いた。刃には石の粉がこびりついていたが、欠けは見当たらない。
「これで届く」
石のような肉と、その内側へ重なる錆びた鉄。旅人の脳裏に、礼拝堂の巨躯が抱えていた赤い核が浮かぶ。
「礼拝堂か」
オルグは割れた石を拾わずに尋ねた。
「いずれ戻る」
「この剣は、お前の腕を強くはせん」
「分かっている」
「分かっている者は、裂けかけた手で石を割らん」
オルグは作業台の下から鞘を取り出した。
木板を革で包み、口と先端へ鉄を打ちつけた粗い作りだった。剣を収めると、重さを受けた革帯が軋んだ。
「名は」
「ない」
「またか」
「鐘だった鉄に、次の役目を教えただけだ。名をつけるほど長く残るかは、お前が決めろ」
旅人は鞘を背へ括りつけた。
その重みは、右手の傷よりもはっきりしていた。
薬師の家では、救い出された男が寝台へ身体を起こしていた。
まだ自分の足では歩けない。首には厚い布が巻かれ、長く話すたびに掠れた咳が漏れた。
リーヴァはすでに旅支度を整えている。
槍と短剣。灰の深さを測る鉄棒。水と食料。革紐と鉄鉤。背負い籠には、マレナから借りた古い地図が収められていた。
男は枕元の布袋へ手を入れ、薄い木片を取り出した。
「これを」
リーヴァが受け取る。
木片には、短い縦傷が3本と、それらを横切る斜めの線が刻まれていた。祈祷柱で見つけたものと同じ印だった。
「集落の戸口から?」
「ああ。兄が……持って帰れと」
リーヴァは傷を指でなぞった。
「行き先を示す線はない」
「別の線もあるのか」
旅人が尋ねると、リーヴァは木片から目を離さずに答えた。
「あの人は、印を残したあと、進んだ方角へ小さな傷を足した。道なら横へ、坂なら上へ。下へ入るときは、印の下へ刻む」
「これは」
「立ち寄った印だけ。ここからどこへ行ったのかは分からない」
男は掠れた息を吐いた。
「見つけてくれ」
リーヴァは木片を布へ包み、荷袋の奥へ入れた。
「行ってくるわ」
「戻れよ」
「あなたも、もう一度歩けるようになりなさい」
男は答えず、目を閉じた。
旅人とリーヴァが薬師の家を出る。扉を閉めたあと、リーヴァは取っ手へ置いた手をすぐには離さなかった。
「完治を待たなくてよかったの」
彼女は旅人の右手を見た。
「待てば、印が灰へ沈む」
「途中で握れなくなったら」
「左手で持つ」
「その剣を?」
「ああ」
リーヴァは呆れたような顔をしたが、それ以上は止めなかった。
宿場の門を出た2人は、祈り果ての灰原を東へ進んだ。
鐘車が倒れていた場所よりも、さらに奥だった。
初めは足首までだった灰が、進むにつれて脛へ届く。地上へ残っていた祈祷柱も次第に減り、代わりに煙突や折れた梁が灰の中から突き出し始めた。
リーヴァは鉄棒を刺し、足場を確かめる。
先端が浅い位置で木へ触れると、彼女は鉄棒の柄で灰の表面を叩いた。
1度。
少し間を置いて2度。さらに間を空けて、3度目を落とす。
灰の下から、鈍い空洞音が返った。
「何の合図だ」
旅人が尋ねる。
「昔の癖よ」
「誰との」
「父と、壁の向こうを確かめるときに使っていた」
リーヴァは何でもないことのように答え、別の場所へ鉄棒を刺した。
そこでは、すぐ下に硬い木があった。
「こっちは屋根ね。私が踏んだところだけを歩いて」
灰を払うと、黒ずんだ屋根板が姿を現した。
旅人たちは地面ではなく、灰に沈んだ家々の上を進んでいた。
集落の中心へ近づくにつれ、建物の形が見え始める。
1階を石で築き、その上へ木造の部屋を載せた家が多かった。木の部分は灰の重みに耐えられず崩れていたが、石壁は残り、倒れた梁や屋根が隣家の壁へ引っかかっている。
雨と冷気で締まった灰の表面は、薄い殻のように家々へまたがっていた。下が空洞になっている場所へ体重をかければ、その殻ごと落ちる。
屋根の隙間から、ときおり灰が細く噴き上がった。風はない。家の中に残った空気が、灰の重みで押し出されているらしい。
煙突の脇に、人の手形があった。
指を広げた跡が、屋根の傾斜を上へ向かって並んでいる。途中からは指先だけになり、最後の跡は灰へ埋もれていた。
リーヴァは手形へ触れなかった。
集落の奥に、上階だけを灰の上へ晒した家があった。
1階は厚い石壁で築かれ、木造の上階が隣家の石壁へ斜めに倒れかかっている。太い梁が両方の壁へ噛み込み、積もった灰の一部を支えていた。
戸口の上半分だけが灰の外へ残っている。
柱には、短い縦傷が3本と、それを横切る斜めの線が刻まれていた。
「同じ印だ」
旅人が言う。
リーヴァは手袋を外し、傷の縁をなぞった。
木の内側の白さが、まだ完全には失われていない。灰も傷の底まで詰まりきってはいなかった。
「祈祷柱のものより新しい」
「何年だ」
「そこまでは分からない。でも、古い印ではないわ」
リーヴァの指が傷の上で止まる。
「ここまで来ていた」
戸口の下半分は灰へ押さえつけられ、動かない。
旅人は斜めに倒れた上階を見た。石壁と梁の間に、窓の枠だけが残っている。
「あそこから入る」
「崩れないの」
「崩れるかもしれない」
「ずいぶん頼りになる答えね」
旅人は返事をせず、梁へ革紐を回した。
灰の殻へ体重をかけないよう、露出した石壁を足場にして窓へ近づく。枠へ触れると、湿った木が小さく崩れた。
旅人は鞘の先で内部を探った。
すぐ下に梁があり、その奥には家具と板が斜めに折り重なっている。崩れたもの同士が噛み合い、上から流れ込もうとする灰を辛うじて止めていた。
窓から身体を入れる。
足を下ろすたびに木が軋み、天井の隙間から灰が落ちた。旅人は梁へ立ち、周囲を確かめる。
崩れた上階の床と残った石壁の間に、楔形の空洞ができていた。倒れた箪笥と太い寝台が梁へ噛み込み、その上で灰の重みを受け止めている。
空洞は、人ひとりが屈んで進める程度しかない。
「降りてこい。ただし、右の梁には乗るな」
リーヴァも窓を越え、旅人の隣へ降りた。
屋内には湿った木と、長く閉ざされた煤の匂いが残っていた。
灰へ埋まりかけた家具が、窓の下へ積み上げられている。机の上に椅子、その上には棚板と木箱が重ねられていた。
かつてこの家にいた者たちが、灰の上へ逃れようとして組んだ足場らしい。最上部の椅子には、片方だけの小さな靴が残されていた。
戸口の内側には、無数の細い傷が刻まれている。
爪の跡ではない。
曲がった匙や折れた釘が、木の隙間へ突き刺さったまま残っていた。誰かが、外へ出るために扉を削り続けたのだ。
リーヴァが口元を布で覆う。
「ここにいた人たちは、逃げなかったんじゃない」
「ああ」
「逃げられなかった」
家の奥から、木を擦る音がした。
ゆっくりと、同じ場所を何度も押す音だった。
旅人は剣を抜いた。
狭い空間では、刃を大きく振ることはできない。リーヴァも槍を短く持ち直したが、梁と家具が穂先の動きを塞いでいる。
音は、倒れた棚の向こうから聞こえていた。
棚板が内側から押される。
1度目の軋みで灰が隙間からこぼれ、2度目には棚が旅人たちの側へ倒れた。
その奥から、人だったものが這い出してくる。
腹と胸は灰を詰め込まれたように膨らみ、薄く伸びた皮膚の下で乾いたものが擦れている。目と鼻は灰に覆われ、口は白く固まったまま開いていた。
「灰籠り……」
リーヴァが低く、その名を口にした。
灰籠りが胸を膨らませた。
「息を止めろ」
旅人は外套で口と鼻を覆った。直後、灰籠りの口と脇腹の裂け目から湿った灰が噴き出し、狭い空洞が一瞬で白く曇る。
目を開けていられず、布越しにも灰が口元へ張りついたため、旅人は息を止めた。
足元の梁が軋む。その振動を拾った灰籠りの頭が、旅人のいる方角へ向いた。
灰に塞がれた目は何も見ていない。それでも両腕を伸ばし、床と壁へ伝わる音を探るように空を掻いている。
旅人が身動きを止めると、リーヴァが反対側の壁を槍の石突で叩いた。
灰籠りの身体が音へ引かれた瞬間、旅人は一歩踏み込み、剣を肩口へ振り下ろす。厚い刃は肉を裂き、その下の骨へ食い込んだところで止まった。
灰籠りは倒れず、残った腕で旅人の外套を掴んだ。旅人は剣を引かず、その身体ごと石壁へ押しつけて柄へ体重をかける。
だが、右の掌へ鋭い痛みが走り、力が抜けた。刃は骨へ噛み込んだまま動かない。
灰籠りの胸が再び膨らむ。この距離で灰を吐かせれば、顔面へまともに浴びる。
旅人は右手を柄から外し、左肩を鍔へ押し当てた。石壁の根元へ足を踏ん張り、身体ごと剣を押し込むが、骨はすぐには割れなかった。
壁と刃の間から湿った軋みが続く。灰籠りの指が旅人の首へ近づき、外套を引き裂いた。
そこへ、リーヴァの短剣が手首へ食い込み、腱を断つ。
腕が落ちた隙に、旅人は鍔へ押し当てた肩へさらに力を込めた。
骨の内側で、ようやく亀裂が走った。
刃が胸郭へ沈み、灰籠りの身体が石壁との間で崩れる。膨らんだ腹から大量の灰がこぼれ、旅人の脚を覆った。
旅人は剣を引こうとしたが、割れた骨が刃の両側から噛み込み、動かなかった。柄を左右へ捻るたび、胸郭の奥から湿った軋みが返る。
石壁へ片足を押し当て、骨の隙間を押し広げるように力をかけると、刃が灰と肉片を引きずりながら抜けた。
剣を構え直すより早く、足元の梁が突き上げられた。木の継ぎ目が外れ、天井に溜まっていた灰が一気に流れ落ちる。
黒ずんだ指が床板の隙間を突き破り、旅人の足元を探るように這った。続いて床が内側から持ち上がり、2体目の灰籠りが梁ごと上階へ押し入ろうとする。
「長くは保たない!」
リーヴァの声と同時に、旅人の片脚が床板を突き抜けた。咄嗟に右手で梁を掴んだ瞬間、傷口が開き、包帯の下から滲んだ血が木へ落ちる。
旅人は左手だけで剣を逆手に持ち、床下の灰籠りへ刃を突き立てた。刃先は背の骨へ届いたが、片手では押し込めない。
灰籠りが足を引き、旅人の身体がさらに沈む。リーヴァはすぐに槍を手放した。
彼女は片手で旅人の外套を掴み、もう一方の手に持った短剣を、足首へ絡む指へ振り下ろす。2本が切れたが、残った指はまだ離れなかった。
旅人は右膝を梁へ押しつけ、上半身の重みを剣へ乗せた。開いた傷から血が落ち、柄を伝って刃元へ流れる。
刃は、灰籠りの背へ少しずつ沈んだ。
骨が軋み、抵抗が抜けるまで、旅人は息を止めたまま押し続けた。
最後に鈍い音がして、背骨が割れた。
足首を掴んでいた指から力が抜ける。リーヴァが旅人の外套を引き、梁の上へ引き戻した。
2人はしばらく動かなかった。
流れ落ちた灰が静まり、白く曇っていた視界が戻っていく。
旅人は口元の布を外して息を吐いた。喉へ入り込んだ灰に咳が出かけたが、歯を食いしばって堪える。
壁と床の振動を追うなら、咳も居場所を知らせる。
「手を見せて」
「まだ握れる」
「それを聞いていない」
包帯の内側は血で濡れていた。
リーヴァは荷袋から布を出し、古い包帯の上から強く巻き直した。
「戻る?」
「印を見つけるまでは進む」
「剣を落としたら、私が持つ」
「お前の槍より重い」
「落としたままにするよりはましよ」
リーヴァは手放していた槍を拾い、短剣を鞘へ戻した。
旅人は答えず、剣を拾い上げた。刃には細かな傷がついていたが、欠けてはいない。
これまでの剣なら、灰籠りの骨へ噛み込んだ時点で折れていたかもしれない。
新しい剣は、敵を容易く倒す武器ではなかった。届くまで押し続けることを、使い手へ要求する剣だった。
倒した灰籠りを梁の脇へ退けると、下の階へ続く空間が現れた。
1階は石壁に囲まれていたため、上階よりも形を残している。階段は崩れていたが、梁へ革紐を結べば降りられそうだった。
旅人が先に降りる。
足元には湿った灰が溜まり、歩くたびに靴が沈んだ。
外へ続く戸口と窓は、すべて灰に塞がれている。壁際には空になった水瓶が並び、割れた器の底へ黒い染みだけが残っていた。
内側から削られた扉の傷は、ここにも続いている。
リーヴァが降りてくる。
2人は、灰籠りが現れた奥の通路を進んだ。
壁の一部が崩れ、その向こうに地下へ続く石段がある。
階段の下半分は、湿った灰と黒い泥へ沈んでいた。底までは見えず、冷たい空気だけが下から流れてくる。
石段の脇にある木柱へ、印が刻まれていた。
短い縦傷が3本。それを斜めの線が横切っている。
傷の下には、小さな三角が刻まれ、その頂点が階段の奥を示していた。
リーヴァは手袋を外し、指を当てる。
「下へ降りた印か」
「ええ」
木の傷は、戸口にあったものよりもさらに白かった。
「戻った印は」
「ない」
リーヴァは階段の奥を見つめた。
黒い泥の表面に、細長い溝が残っている。人が歩いた跡にも、何かを引きずった跡にも見えた。
旅人は剣を握ったまま耳を澄ませる。
階段の下で、硬いものを叩く音が1度だけ響いた。
短い沈黙を挟んで2度。さらに長い間を置き、3度目の音が灰の奥から返ってくる。
リーヴァの顔から表情が消えた。
「さっきの合図だ」
「……あの人が使っていた」
彼女は柱へ拳を当てた。
すぐには叩かなかった。灰に覆われた階段と暗い奥を見つめたまま、何度か浅く息をする。
やがて拳を動かした。
1度叩き、間を置いて2度。最後に長い沈黙を挟み、3度目の音を階下へ落とす。
返事はない。
冷たい空気が、階段の奥から流れ続けている。
リーヴァの拳が柱から離れた。
「もう一度――」
「待て」
旅人は彼女を止めた。
石段の下から、同じ間隔の打音が返ってきた。
1度、2度。
3度目の音だけが、先ほどよりも近かった。
「父がいる」
リーヴァが階段へ足を向ける。
旅人は剣の腹で、その進路を塞いだ。
「合図を知るものがいる」
「同じことでしょう」
「違う」
旅人は暗闇を見つめた。
「お前の父親から教わったものかもしれない。父親を見て覚えたものかもしれない」
あるいは、父親の中に残っていた記憶だけを使うものかもしれない。
それは口にしなかった。
リーヴァも階段の奥から目を離さない。
下から、もう一度音が届いた。
今度は2人が何も返していないうちに、同じ間隔の打音が続く。
助けを求めているのではない。
こちらの存在を確かめるような音だった。




