第5話 灯守りの宿場②
灰の上には、そりが削った幅広い跡と、途切れかけた血の跡が並んで続いていた。
リーヴァは革紐を肩へ回し、振り返ることなく歩いている。そりに横たえられた男が息をするたび、胸へ掛けた外套がわずかに持ち上がった。
旅人は動く左手で板を押していた。布を巻いた右手からは血が滲み続け、指先から落ちた赤が灰へ小さな穴を穿っていく。
祈り果ての灰原を抜けるまでに、リーヴァは何度も足を止めた。
男の口元へ手を近づけ、かすかな息が触れるのを確かめる。胸へ手を当て、鼓動が残っていると分かると、再び革紐を肩へ食い込ませた。
日はすでに西へ傾いていた。
灰の薄闇の向こうに、鉄籠の火が見える。
「灯守りの宿場だ」
旅人の声に、リーヴァが顔を上げた。
外壁の上で燃える橙色の火は、灰を含んだ風に揺れながらも消えていない。門までの距離が縮まるにつれ、彼女の足取りがわずかに乱れた。
「まだ倒れないで」
そりの男へ向けた言葉なのか、自分へ言い聞かせたものなのかは分からなかった。
胸壁の上で門番がこちらに気づく。
弓を構えるより早く、そりの上に横たわる男を認めた。
「門を開けろ!」
鉄と木を継ぎ合わせた門扉が、地面を擦りながら内側へ開いた。
リーヴァが門をくぐると、近くにいた者たちが駆け寄ってくる。そりの紐を外し、厚い板ごと男を持ち上げた。
「薬師のところへ運べ」
「首と手首に黒い紐が残っているわ。無理に抜かないで」
「分かった。そのまま運ぶ」
男が運ばれていったあとも、リーヴァは革紐を握った姿勢のまま動かなかった。
肩から外れた紐が石畳へ落ちる。
「リーヴァ」
門番が胸壁から降りてきた。
「もう1人は」
リーヴァは背負い籠へ手を入れ、骨で作られた認識札を取り出した。乾いた血が、表面へ刻まれた文字の溝へ黒く固着している。
「帰らなかった」
門番は札を見つめたあと、何も言わずに道を空けた。
リーヴァが薬師の家へ向かおうとして、足を止める。
旅人は門のすぐ内側で片膝をついていた。左手はそりの板へ置かれたまま、右腕から垂れた血が石畳を濡らしている。
「〈旅人〉」
「歩ける」
「歩ける人は、そんな座り方をしないわ」
リーヴァは旅人の左腕を肩へ回した。
近くにいた男が手を貸そうとして、旅人の血に濡れた右腕を見る。
「そいつは不葬者だろう」
悪意のある声ではなかった。ただ、壊れた道具を前に、直す必要があるのかと尋ねるような響きだった。
旅人は自分の足で立ち上がる。
「まだ死ぬほどではない」
それ以上、誰も何も言わなかった。
薬師の家には、乾かした根と獣脂の匂いが満ちていた。
壁際の寝台へ運ばれた若い男は、首と手首に残った祈り紐を短く切り揃えられ、その周囲へ薬を染み込ませた布を巻かれている。青ざめた胸は浅く上下していた。
リーヴァは寝台の脇へ腰を下ろし、男の手を握っていた。
旅人は部屋の反対側で、傷ついた右手を薬師へ預けている。
掌の傷は深かった。折れた刃を握り込んだことで皮膚が裂け、黒い祈り紐に締め上げられた手首も紫色へ変わっていた。
薬師は傷口へ水を流し、灰と黒い液を洗い落としてから、細い針で皮膚を縫い合わせていく。
「痛むか」
「ああ」
「不葬者も、そこは同じか」
針が皮膚を通る。旅人は動かなかった。
「死んで戻れば、傷は消えるんだろう」
「そうだ」
「なら、薬を使うだけ無駄かもしれないね」
「死ぬ方が無駄だ」
薬師の手が止まった。
旅人の顔を一度見てから、再び針を動かし始める。
「そう思えるうちは、まだ人と同じだ」
傷を縫い終えると、薬師は掌から手首までを厚い布で巻いた。
「右手は使うな。傷が開けば、次は指が動かなくなる」
「どのくらいだ」
「しばらくは、しばらくだよ。不葬者に日数を教えても、守りはしないだろう」
旅人は否定しなかった。
宿場の火が灯される頃になっても、若い男は目を覚まさなかった。
リーヴァは寝台の脇を離れず、何度も水へ浸した布を取り替えた。旅人は壁際へ座り、動かない右手を膝へ置いたまま、男の呼吸を聞いていた。
外からは、店仕舞いをする音も、酒場へ人が集まる声も聞こえない。
宿場全体が、ひとりの生還とひとりの死を静かに受け止めているようだった。
完全に日が落ちたあと、マレナが薬師の家へやってきた。
リーヴァから兄の認識札を受け取り、寝台の弟を確かめる。
「鐘車にいたのか」
「下に縛られていたわ」
「鐘を鳴らすために使われていた」
旅人が続けると、マレナは眉を寄せた。
「鐘舌は」
「残してきた。2人では運べない」
「場所は分かるんだね」
「ああ。鐘の下には古い石積みがあった。祈り紐も何本か、その奥へ続いている」
マレナの視線が鋭くなる。
「地下へ降りる道か」
「階段かどうかまでは分からない」
リーヴァが寝台の男を見る。
「この人も、倒れる前に鐘の下を指していた」
「目を覚ましたら聞く。それまでは休ませな」
マレナは認識札を握り直し、部屋を出ていった。
旅人とリーヴァも少し遅れて酒場へ向かう。
壁際には、探索者の認識札を掛ける鉄釘が並んでいた。入口に近い2本は、今も空いたままだった。
マレナは薬師から預かった弟の認識札を、片方の釘へ掛ける。
骨の札が鉄へ触れ、乾いた音を立てた。
兄の札は掛けなかった。
釘の下に置かれた浅い鉄皿へ、静かに横たえる。
酒場にいた者たちの手が止まった。杯を持つ者は杯を下ろし、炉へ薪を足そうとしていた男も、その姿勢のまま動かなかった。
誰も祈りの言葉を口にしない。
マレナは帳場の帳面を開いた。
並んで記されていた兄弟の名のうち、上の名へ横線を引く。下の名には、小さな丸をつけた。
「1人は帰った」
帳面を閉じる。
「1人は、鉄より軽くなって帰った」
マレナは鉄皿を持ち上げ、帳場の奥へ運んでいった。
壁には、空いた釘が1本だけ残った。
夜半を過ぎた頃、薬師が酒場へ旅人たちを呼びに来た。
寝台の男が目を覚ましていた。
リーヴァと旅人、マレナが薬師の家へ戻ると、男は布を巻かれた喉へ手を当てていた。息を吸うたび、狭い隙間から空気が漏れるような音がする。
「喋らなくていい」
リーヴァが言うと、男はかすかに首を横へ動かした。
「兄は……」
掠れた声は、ほとんど息に近かった。
リーヴァは答えなかった。
男の目が彼女の顔を離れ、部屋の隅へ落ちる。その沈黙だけで、何が起きたのかを理解したらしい。
目を閉じ、しばらく息を整えてから、再び口を開いた。
「……印を、見た」
リーヴァの手に力が入る。
「祈祷柱にあったものと同じ印?」
男が頷いた。
「どこで見たの」
男の目が宙を彷徨い、震える指が東を示す。
「鐘へ……行く前だ。兄と……印を追った」
喉が引きつり、言葉が途切れた。
薬師が水を含ませた布を口元へ当てる。男は浅く息を吸い、震える唇を再び動かした。
「灰から……屋根だけが出ていた。家が……沈んでいて……戸口に、同じ傷が」
マレナが低く息を吐く。
「灰沈みの集落か」
男の瞳には、その名を知っている様子がなかった。
「古い巡礼路の東にある廃集落だ。灰が深くなってからは、道拾いも近づかない」
リーヴァは男の手を握ったまま、顔を近づける。
「そこまで行ったの?」
「兄が……戻ろうと言った。鐘が……鳴ったから」
男の呼吸が速くなる。
「帰る途中で……灰が動いた。兄が……俺を引いた。けど、紐が……」
指が震え、寝台の布を掴んだ。
「下から……足に。兄が切ろうとして……俺だけ、引かれた。兄は……追ってきた。けど、途中で……」
咳が喉を塞いだ。
身体を丸めようとした男の肩を薬師が支え、口元へ布を当てる。黒い液が、わずかに滲んだ。
「もういい」
リーヴァが男の手を強く握る。
「十分よ」
男は苦しげに息を繰り返しながら、彼女の手を弱く握り返した。
「行け……」
リーヴァが顔を上げる。
「あの印を……探していたんだろう」
「今は、あなたを置いていけない」
「俺は……宿場にいる」
男は一度目を閉じた。
「兄が戻れなかった分まで……戻った」
それ以上、声は続かなかった。
薬師が男の呼吸を確かめ、3人を部屋から追い出す。
夜の宿場には、炉の火と見張りの足音だけが残っていた。
「灰沈みの集落」
リーヴァが確かめるように、その名を口にした。
「父親の印か」
旅人が尋ねる。
「そうだと思っている」
リーヴァは暗い道の先を見た。
「あの人が消えてから、同じ刻み方をする者を見たことがない。それでも、姿を見るまでは断言できないわ」
旅人はそれ以上尋ねなかった。
マレナが腕を組み、門の方角へ目を向ける。
「夜が明けたら、鐘舌を回収する。荷車と綱、それに6人出す」
「俺も行く」
「その手で何を持つつもりだい」
「道は分かる」
「リーヴァが案内する。お前はオルグへ、壊した鉄を返してきな」
マレナの視線が、旅人の腰へ下がった。
折れた廃剣の刃と柄は、革紐でひとつに束ねられている。
「借りたものなんだろう」
「ああ」
「なら、自分の手で返せ」
夜明け前から、宿場の中央では回収の準備が始まった。
荷車の車輪へ油を差し、太い綱を何重にも積み込む。滑車の歯が欠けていないか確かめ、黒い祈り紐へ触れるための鉄鉤も用意された。
門が開く頃には、6人の男たちが厚い手袋と革の前掛けを身につけていた。
リーヴァは先頭に立ち、灰を探る鉄棒を握っている。
「弟は」
旅人が尋ねる。
「眠っている。薬師が見ているわ」
リーヴァは一度だけ薬師の家を振り返った。
「行ってくる」
返事をする者はいなかった。
門扉が開き、荷車と回収隊が灰の中へ進んでいく。やがて背中は薄闇へ溶け、車輪の音も聞こえなくなった。
旅人は閉ざされた門の前へしばらく立っていた。
右手は布に包まれ、指を曲げるだけで傷が疼く。鐘舌を見つけたのも、怪異を倒したのも自分だったが、それを持ち帰る仕事には加われない。
死ねば傷は消える。
それでも旅人は、祭壇へ向かわなかった。
踵を返し、鍛冶場へ歩く。
オルグは炉の前に立ち、赤熱した鉄を打っていた。
旅人が金床の脇へ折れた廃剣を置くと、槌の音が止まる。
「折ったか」
「ああ」
オルグは革紐を解き、刃と柄を別々に持ち上げた。
刃元の欠けを親指でなぞり、柄に残った祈り紐の黒い汚れへ目を止める。
「鐘舌を止めるために使った」
「剣をか」
「ほかになかった」
オルグは折れた刃を金床へ置いた。
「借りたものだ」
「見れば分かる」
「返す」
オルグは旅人を見たあと、刃と柄をまとめて鉄屑の箱へ放り込んだ。
「鉄として戻った。それでいい」
「代価には足りない」
「足りるとは言っていない」
オルグは再び槌を持ち上げる。
「鐘舌が戻れば、話の続きだ」
昼を過ぎても、回収隊は戻らなかった。
宿場の者たちは何度も門の上へ登り、灰原の方角を見た。誰も鐘の音を口にしなかったが、風が止まるたびに耳を澄ませている。
日が傾き始めた頃、門番が声を上げた。
「戻ったぞ!」
門扉が開く。
最初に現れたのは、リーヴァだった。外套も髪も灰に覆われ、鉄棒を杖のようについて歩いている。
その後ろから、荷車を押す男たちが姿を現した。
6人全員の手袋が裂け、掌には血の滲んだ布が巻かれている。荷車へ結ばれた綱は何本も毛羽立ち、うち1本は途中から切れていた。
車軸は重みに耐えかねて歪み、車輪が一度回るたびに低い音を立てている。
荷台の上には、人の胴よりも太い鐘舌が横たえられていた。
黒く乾いた液と祈り紐が表面へこびりつき、何本もの鎖で荷車へ縛りつけられている。
誰も素手では触れていなかった。
「死人は」
マレナが門前で尋ねる。
「いない」
リーヴァが答える。
「けど、途中で綱が切れた。あと少し傾いていたら、2人は灰の下だった」
荷車を押していた男のひとりが、その場へ座り込む。別の男は裂けた手袋を外し、血で濡れた指を見たまま動かなかった。
鐘舌を持ち帰ったことを喜ぶ者はいない。
重い鉄が、宿場の中へ引き入れられていく。
「下へ続く場所は」
旅人が尋ねる。
「鐘が塞いでいる。動かすには、もっと人手が要るわ」
リーヴァは声を落とした。
「切れていない祈り紐が残っていた。鉄鉤で引いたら、石積みの奥で何かが動いた」
「近づいたのか」
「まさか。綱を切って戻ったわ」
旅人は、鐘の下から漏れていた冷気を思い出した。
「今は入らない方がいい」
「ええ。入るための道も、戻るための道も分からない」
鐘舌は、そのまま鍛冶場へ運ばれた。
オルグは表面へ固着した黒い汚れを削り、鉄の状態を確かめていく。細い槌で数箇所を叩くと、傷み方に応じて異なる音が返った。
中央に近い部分を打ったときだけ、重く澄んだ響きが残る。
「芯は死んでいない」
オルグが言った。
「使えるか」
「鐘としては終わっている。剣にはできる」
太い鏨を鐘舌の傷へ当て、弟子たちに大槌を持たせる。
何度も鉄を打つ音が響いた。
古い傷が少しずつ広がり、鐘舌の端から大きな鉄塊が割れ落ちる。オルグはそれを炉へ運ばせた。
炭の奥で火が膨らむ。
「どんな剣が要る」
オルグは火を見たまま尋ねた。
「石を割る」
「その先は」
「内側の鉄へ届かせる」
オルグは炉へ鉄塊を押し込んだ。
「切る剣ではないな」
「ああ」
「剣の形をした楔か」
「それでいい」
「よくはない。だが、作るものは分かった」
鉄塊が赤くなるまで、しばらく誰も話さなかった。
オルグは折れた廃剣の残骸を鉄屑の箱から拾い上げ、刃元を確かめる。
「それも使うのか」
「継ぎ目は捨てる。まだ生きている鉄は混ぜる」
「脆くならないか」
「それを決めるのは、お前ではない」
オルグは廃剣の残りを炉へ入れた。
背後から足音が近づく。
リーヴァが鍛冶場の入口に立っていた。灰を落としたばかりなのか、濡れた髪が頬へ張りついている。
「弟が、もう一度目を覚ました」
「何か話したか」
「同じよ。印は灰沈みの集落まで続いている」
旅人は炉の中で赤く変わっていく鉄を見つめた。
「行くのか」
「行くわ」
リーヴァは迷わなかった。
「あの人の印が本物なら、灰原の下へ続くものとも関わっている。見過ごすことはできない」
「弟は」
「薬師が、しばらく寝ていれば死にはしないと言った。本人にも追い出されたわ」
「いつ出る」
「あなたの剣ができたら」
旅人はリーヴァへ顔を向けた。
「礼拝堂へは戻らないの?」
「あれも殺す」
リーヴァは炉の火を見た。
「先に集落へ行くのね」
「鐘の下にいたものは、礼拝堂のものとは違う。それでも死にきれていなかった」
炉の火が旅人の横顔を赤く照らす。
「放ってはおけない」
オルグが火鋏で赤熱した鉄を取り出した。
鐘舌だった鉄と、折れた廃剣の鉄が重ねられ、金床の上へ置かれる。
大槌が振り上げられた。
赤熱した鉄へ、最初の一打が落ちる。
短く、硬い音が灯守りの宿場へ響いた。
鐘の音ではない。
祈りを集めて鳴っていた鉄が、今度は神話を砕くための形へ変わり始めていた。
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