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第4話 祈り果ての灰原――鐘下の祈骸

 鐘の余韻が灰原を渡る間に、祈祷柱だと思っていた影が次々と身を起こした。


 灰に埋もれた巡礼路の上から、耳へ錆び釘を打ち込まれた鐘聞きが現れる。近いものだけで5体。


 さらに遠くでも人影が立ち上がりかけていたが、次の鐘が鳴らないためか、腰まで灰へ沈んだまま動きを止めていた。


 リーヴァは弟の前へ立ち、槍を低く構えた。


「相手にするには多すぎる」

「鐘を止めればいい」


 旅人は横倒しの巡礼鐘へ目を向けた。


 鐘は灰の斜面へ傾き、片側の車輪を失った鐘車の上で辛うじて止まっている。重みを支えているのは、割れた木枠と、その根元へ斜めに打ち込まれた太い鉄杭だけだった。


 木枠は鐘が鳴るたびに軋み、灰へ埋もれた下端から腐った木片を落としている。


 鐘の内側では、人の胴ほどもある鐘舌が黒い祈り紐に引かれ、内壁からゆっくりと持ち上がっていた。


「あれをもう一度打たせるな」

「弟はどうするの」

「お前が外せ。鐘は俺が止める」

「首まで紐が食い込んでいる。張ったまま切れば、喉も裂けるわ」

「先に緩める」


 風のルーンを刻んだあと、使える魔力は戻っていない。


 旅人は廃剣を両手で握り、鐘の開口部へ走った。


 最も近い鐘聞きが進路へ割り込む。目を閉じたまま両腕を広げ、旅人の胸へ掴みかかった。


 廃剣の腹を肩口へ叩きつける。


 鉄片を埋め込まれた骨が鳴り、鐘聞きの身体が横へ傾く。旅人は倒しきろうとせず、その脇を抜けて鐘の縁へ足をかけた。


 内部には外の光がほとんど届いていない。


 祈りの言葉が刻まれた曲面を、無数の黒い紐が這っている。紐は鐘舌の上部へ巻きつき、鐘の奥にある錆びた吊り輪を通って、灰の下へ伸びていた。


 横倒しになった鐘舌は、本来なら内壁へ沈んだまま動かない。それを、祈り紐が無理やり引き起こしている。


 吊り輪と鐘舌を繋ぐ鉄軸は錆び、半ば傾いていた。その脇には、かつて揺れを抑えるために取りつけられていたらしい、厚い木の支えが残っている。


 旅人は廃剣の先を、鉄軸と木の支えの間へ差し込んだ。


 鐘舌が動く。


 黒い紐が一斉に張り、鉄軸が軋んだ。旅人は柄を押し下げる。


 剣が楔となり、傾いた鉄軸を木の支えへ押しつけた。衝撃が柄を通じて両腕へ走ったが、鐘舌の重みそのものは、鐘の内壁と残った木枠へ逃げていた。


 鉄の塊が止まる。


 内壁まで、手のひら1枚分。


 鐘は鳴らず、押し殺された震えだけが鐘全体を伝って灰の下へ沈んでいった。


 歩み寄っていた鐘聞きたちの動きが鈍る。耳へ打ち込まれた釘は震えているが、進む足は灰の中で迷うように揺れていた。


「今だ」


 リーヴァは槍を地面へ置き、弟の手首へ巻きついた祈り紐へ短剣を差し込んだ。


 紐は乾いた繊維ではない。


 刃を入れると、濡れた腱を断つような抵抗が返った。切り口から黒い液が滲み、灰の上へ落ちる。


 1本目が切れ、弟の身体が小さく跳ねた。


 首へ巻きついた紐が張り、青ざめた喉へさらに深く食い込む。


「まだ引かれている!」


 旅人は廃剣の柄へ体重をかけた。


 鉄軸が押し返し、刃元の継ぎ目が鳴る。巻き直された柄革がわずかにずれた。


 鐘の外では、2体の鐘聞きがリーヴァへ近づいていた。


 彼女は弟の手首に短剣を添えたまま、足元の槍を片手で拾い上げる。穂先を横へ振り、先頭の鐘聞きの膝を払った。


 灰へ沈んでいた脚が折れ、人影が前のめりに倒れる。


 もう1体が、その背を踏み越えてリーヴァへ手を伸ばした。


 槍を返し、胸へ突き立てる。


 穂先は巡礼衣を裂いたが、胸骨へ埋め込まれた鉄片に阻まれた。鐘聞きは槍を身体へ食い込ませたまま前へ進み、両手をリーヴァの首へ伸ばす。


 リーヴァは柄を脇へ抱え、全身で進路を逸らした。


 人影が鐘車の木枠へ肩からぶつかる。腐った木が裂け、横倒しの鐘が灰の斜面をわずかに滑った。


 内側で鉄軸が大きくずれる。


 旅人の手の中で、廃剣が悲鳴を上げた。


「鐘車が崩れる」

「分かっている!」


 リーヴァは槍を鐘聞きの胸へ残したまま手を放し、弟の救出へ戻った。


 手首の紐を切り、腰へ絡みつく束へ刃を移す。


 鐘の奥で、何かが身じろぎした。


 灰が内側から膨らみ、鐘車の下から腕が現れる。


 人の腕に似ていたが、関節が多すぎた。細い骨を黒い祈り紐で束ね、その外側へ腐った皮膚を縫いつけたような形をしている。


 指の代わりに垂れているのは、何十本もの細い紐だった。


 紐の先端が灰を這い、弟の足首と腰へ絡みつく。


 リーヴァは短剣を振り下ろした。


 数本が切れ、黒い液が飛び散る。だが、残る紐は弟の衣服を貫き、皮膚の下へ潜り込んだまま身体を灰の中へ引き戻そうとしていた。


 鐘下のものが、再び身体を動かす。


 鐘舌へ繋がった祈り紐が強く張り、旅人の廃剣が大きく(たわ)んだ。


 刃は鉄軸と木の間へ深く食い込んでいる。引き抜くことはできない。


 旅人は左手で柄を押さえたまま、右手で鐘の内側を這う祈り紐を掴んだ。


 冷たく、細かく脈打っている。先端が手袋の隙間へ潜り込み、皮膚を探るように動いた。


 旅人は紐を右の前腕へ一度巻きつけ、そのまま鐘車の内側に残っていた横木へ回す。


 もう一度腕へ巻き戻し、黒い紐と横木を結びつける粗い輪を作った。


「引き出すぞ」


 横木へ足をかけ、身体を後ろへ倒す。


 祈り紐が張り、腕へ食い込んだ。手袋が裂け、その下の皮膚が開く。


 だが、旅人ひとりの力で引いているのではない。


 鐘舌を持ち上げようとする怪異自身の力が、横木へ回した紐を締め上げ、灰の下の身体を逆に鐘車の外へ引きずり出していく。


 骨の擦れる音がした。


 最初に現れたのは、太さの異なる人間の背骨を束ねた柱だった。


 その周囲へ胸郭と腕、頭部を失った胴が縫い止められている。どの身体も巡礼衣の名残をまとい、両手を胸の前で組んでいた。


 祈りの姿勢を解かないまま、肉と骨だけを結び合わされている。


 中央には、ひとつだけ顔があった。


 目と鼻を灰色の布で覆われ、口元へ黒い祈り紐を何重にも縫いつけられている。


 閉じられたはずの口が開く。


 声は出ない。


 吐き出された息だけが、縫いつけられた紐を震わせた。


 鐘舌を引いていた束が、一斉に縮む。

 廃剣の継ぎ目が裂けた。


 刃が半ばから折れ、鐘の内側へ落ちる。鉄軸を押さえていた力が失われ、鐘舌が動き始めた。


 旅人は鐘舌の軌道へ身体を入れなかった。


 横木へ回していた祈り紐を、残った剣の柄へ巻きつける。柄に残った短い刃元を木の支えへ噛ませ、柄を捻った。


 黒い紐が鉄軸を横へ引く。


 鐘舌は内壁へ向かわず、傾いた吊り輪の側面へぶつかった。重い鉄の音が鐘の内側へ籠もり、衝撃で吊り輪が歪む。


 鐘舌は途中で引っかかったが、廃剣の刃はさらに欠け、柄の継ぎ目も完全に開いた。


 それでも鐘は鳴らない。


「長くは止まらない」


 リーヴァは返事をせず、弟の手首、腰、足首へ絡んだ紐を切り続けた。皮膚の下へ入り込んだものは無理に抜かず、身体の外へ出ている部分だけを断ち切り、最後に首へ刃を移す。


 鐘舌が止まり、紐の張りがわずかに緩んでいる。


 リーヴァは短剣の切っ先を皮膚と黒い束の間へ差し込み、喉へ触れないよう、少しずつ刃を進めた。


 鐘の外から、灰を擦る音が近づく。


 先ほど倒した鐘聞きが、折れた脚を引きずりながら再び起き上がっていた。胸へ槍を残した1体も、木枠から身体を剥がそうともがいている。


 残る3体は、旅人のいる鐘口へ集まりつつあった。


 次の鐘が鳴れば、遠くで止まっているものまで動き出す。


 鐘下の祈骸(しょうかのきがい)が腕を広げた。


 何十本もの祈り紐が横木を離れ、旅人へ伸びる。


 1本が右手首へ巻きつき、別の紐が足首を掴んで鐘の奥へ引いた。


 旅人は折れた剣の柄を握ったまま、鐘の縁へ背を押しつける。


 紐が皮膚へ食い込み、右手から落ちた血が鐘の祈祷文を濡らした。


「外れた!」


 リーヴァが首の紐を断ち切る。


 弟の身体から力が抜けた。彼女は倒れかけた上半身を抱え、鐘車の枠から灰の上へ引きずり出す。


 祈骸の口元から伸びた紐が、失った継ぎ目を探すように持ち上がった。


 その先端は弟ではなく、鐘口に立つ旅人へ向く。


 旅人は祈り紐に引かれるまま、一歩だけ鐘の奥へ踏み込んだ。


 足元には、折れた廃剣の刃が落ちている。


 拾い上げ、紐を切るのではなく、鐘車を支える木枠へ突き立てた。


 腐った木が裂け、鐘がわずかに傾く。


 祈骸は旅人を引こうと、さらに紐を縮めた。その力で鐘車全体が軋み、根元へ打ち込まれていた鉄杭が灰の中から少し浮き上がる。


 旅人は鐘口から転がり出た。


 祈り紐に右腕を引かれたまま、鉄杭のそばへ膝をつく。折れた刃を杭と木枠の隙間へ差し込んだ。


 拾った刃には、もう柄がない。


 両手で短い鉄を押し込み、梃子として使う。


 動かない。


 鐘聞きの1体が背後から旅人へ覆いかぶさり、首へ両腕を回した。


 冷たい指が喉へ食い込み、息が詰まる。


 それでも旅人は、鉄から手を離さなかった。体重をかけるたび、折れた刃が掌へ食い込み、手袋の中へ血が溜まっていく。


 鐘聞きがさらに首を締め、視界の端が暗くなった。


 リーヴァは弟を鐘車の陰へ横たえ、身体を起こす。


 鐘聞きの胸へ刺さった槍は、まだ手の届く場所にある。


 柄を掴み、力任せに横へ引いた。


 槍に貫かれた鐘聞きの身体が引きずられ、旅人の背へ覆いかぶさっていた個体の脚へぶつかる。


 膝が崩れ、首を締める腕が緩んだ。


 旅人は息を吸い、折れた刃へ全身の重みを乗せる。


 鉄杭が灰の中から浮き、鐘車の木枠が裂けた。


 祈骸が広げた紐が、一斉に鐘の内側へ戻ろうとする。


 だが、遅い。


 鉄杭が抜け落ちた。


 支えを失った巡礼鐘が、灰の斜面を滑る。


 大きく転がるほどの勢いはない。それでも、人の力では止められない鉄の質量が、鐘下の祈骸へゆっくりとのしかかっていく。


 束ねられた背骨が折れた。


 祈る姿勢のまま縫いつけられていた身体が、鐘の縁と灰の間で潰される。


 黒い祈り紐が激しくのたうち、旅人の腕へ巻きついていた束が皮膚を裂きながら引き抜かれた。


 鐘舌が内壁へ触れる。


 だが、澄んだ音は鳴らなかった。


 祈骸の肉と紐が鐘の縁へ挟まり、湿った低い振動だけが灰原へ広がる。


 祈骸の口元が開いた。


 最後まで声は出なかった。


 縫いつけられた紐が1本ずつ切れ、中央の顔が灰の中へ沈んでいく。


 周囲の鐘聞きが動きを止めた。耳へ打ち込まれた錆び釘から、細かな震えが消えていく。


 旅人の首を締めていた個体が腕を下ろし、別の鐘聞きも倒れた身体を起こすことをやめた。


 ひとつ、またひとつと灰の上へ膝をつき、両手を胸の前で組んでいく。


 祈る姿勢だった。


 最後の1体が閉じた目を鐘へ向け、そのまま前へ倒れた。


 灰原に静けさが戻った。


 旅人は喉を押さえ、何度か息を吸う。


 右腕には黒い紐が食い込んだ跡が残り、手のひらは折れた刃によって深く裂けていた。廃剣は刃と柄に分かれ、どちらも鐘車のそばへ転がっている。


 それらを拾い上げ、革紐でひとつに束ねた。


 借りたものは、壊れても鉄だった。


「〈旅人〉」


 リーヴァの声に振り返る。


 弟は灰の上へ仰向けに寝かされていた。首には紫色の痕が残り、手首や腰の傷から黒い液と血が混じって流れている。


 それでも胸は、かすかに上下していた。


 リーヴァは革袋の水を布へ含ませ、口元の灰を拭った。


 男が激しく咳き込み、喉の奥から灰と黒い液を吐き出す。浅い息を何度も繰り返した。


「喋らなくていい」


 リーヴァが肩を支える。


 弟の目がわずかに開いた。


 焦点は合わない。それでも片手だけが動き、リーヴァの外套を弱く掴んだ。


 唇が震えたが、声にはならなかった。


 その指が倒れた鐘の下を示そうとしたところで、力を失う。


 リーヴァは男の呼吸を確かめ、静かに灰の上へ寝かせ直した。


「生きている」

「ああ」

「宿場へ戻す」


 旅人は潰れた鐘下の祈骸へ目を向ける。


 鐘の重みで灰が押し退けられ、祈骸が横たわっていた場所に古い石積みの一部が覗いていた。


 階段かどうかは分からない。ただ、石積みの隙間からは冷たい空気が吹き出し、祈骸から伸びていた黒い紐の何本かが、その奥の暗がりへ続いている。


 灰の下には、まだ何かがある。


 リーヴァも同じ場所を見つめていたが、今は近づかなかった。


 鐘の内側では、取り外すべき鐘舌が斜めに傾いたまま残っている。旅人とリーヴァだけで運べる重さではない。


「鐘舌は置いていくの?」

「弟が先だ。宿場から人を連れて戻る」


 リーヴァは短く頷いた。


 2人は鐘車から外れた厚い板を灰の上へ引き出し、その上へ弟を横たえる。外套と革紐で身体を固定し、鐘舌から十分に離れた場所へそりを移した。


 旅人が前の紐を取ろうとすると、リーヴァが首を振る。


「その手では無理よ」

「片方は動く」

「帰る前に動かなくなる」


 リーヴァは槍を背負い、そりの革紐を自分の肩へ回した。


 旅人は後ろへ立ち、動く左手で板を押す。


 そりが灰を押し分け、ゆっくりと進み始めた。


 背後では、横倒しの巡礼鐘が沈黙している。


 その下から漏れる冷気だけが、灰の表面を細く揺らしていた。

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