第3話 祈り果ての灰原
門が開いたとき、空にはまだ夜の色が残っていた。
灯守りの宿場を囲む外壁の上では、夜通し守られてきた火が赤く燃えている。灰を含んだ風が門の隙間から入り込み、地面を薄く這った。
旅人は背へ括りつけた廃剣を確かめた。
刃を包む布の下から、冷たい鉄の重さが肩へ食い込んでいる。腰には空の鞘を残したまま、水を入れた革袋と、回収した鉄を束ねるための革紐だけを持っていた。
隣では、リーヴァが槍の穂先を布で拭っている。
背負い籠の側面には、灰を探るための細い鉄棒が括られていた。
「鐘が続けて鳴ったら、戻れ」
門番が胸壁の上から言った。
昨夜、弓を向けてきた男だった。
「昼でもか」
「昼だから安全だと思うなら、灰原には入らない方がいい」
リーヴァは鉄棒を背負い籠から抜き、先端を地面へ軽く打ちつけた。
「行くわよ、〈旅人〉」
「ああ」
2人が門を出ると、背後で鉄と木の門扉が閉じ始めた。
地面を擦る音が止まり、閂が下ろされる。
宿場の火だけが、灰の薄闇の向こうに残った。
東へ進むにつれ、街道の石畳は少しずつ灰へ呑まれていった。
初めは靴底を覆う程度だった灰が、やがて足首まで沈む。さらに進むと、石畳そのものが見えなくなり、白とも黒ともつかない平原が視界の先まで続いた。
祈り果ての灰原。
かつて巡礼者たちが祈りながら歩いた土地だと、リーヴァは言った。
腰まで灰へ埋まった祈祷柱が、数歩おきに突き出している。地上へ残っているのは文字の削れた上部だけで、その多くには黒く変色した祈り紐が巻きついていた。
離れた場所では、石像の巨大な手が灰から突き出している。
掌は空へ向けられ、何かを求めたまま固まっていた。
リーヴァは先頭へ立ち、鉄棒を灰の中へ差し込んだ。
先端が硬いものへ触れる。
少し離れた場所へ刺すと、今度は半ばまで抵抗なく沈んだ。
「私が踏んだ場所だけを歩いて。灰の下は、石畳とは限らない」
鉄棒を引き抜く。
先端には、灰に混じった黒い泥が付着していた。
彼女は説明を加えず、右へ足を移した。
旅人も同じ場所を踏む。
灰の表面は乾いているが、その下には湿った層があった。体重をかけるたび、靴の周囲から冷たい空気が押し出される。
風は吹いていない。
それでも遠くで、何かが低く震えていた。
昨夜聞いた鐘の余韻に似ている。
「東は、あちらか」
旅人が霞んだ灰原の先を指す。
「鐘車があるのは、あの方角」
リーヴァが指した先は、旅人の示した方向からわずかに北へずれていた。
「音は南から聞こえる」
「だから、鐘を頼りにしないで」
彼女は半ば埋まった祈祷柱を見た。
柱の上部には、同じ形の傷が刻まれている。円の内側を、東から西へ1本の線が横切っていた。
「昔の巡礼者は、柱の印で道を選んだ。音より、石の方がまだ信用できる」
「石が動かなければな」
「動くものは、石とは呼ばないわ」
冗談を返した声ではなかった。
しばらく進むと、リーヴァが足を止めた。
鉄棒の先で、灰の表面を払う。
折れた槍が現れた。
柄は半ばから砕け、穂先には乾いた黒いものがこびりついている。槍の周囲だけ、灰が深く抉れていた。
リーヴァは膝をつき、折れた柄へ触れた。
「兄弟のものか」
「弟が使っていた槍よ」
声に迷いはなかった。
旅人は周囲を見渡した。
争った跡が灰の上に残っている。
人の足跡が2人分。大きいものと、それよりやや小さいもの。
片方の足跡は槍の付近で乱れ、そこから先へ長い溝が続いていた。
「片方を引きずった」
「ええ」
溝を追って進む。
数十歩先で、引きずった跡は途切れていた。
代わりに、1人分の足跡だけが残っている。
リーヴァが灰へ手を近づけた。
「これは……」
足跡は鐘車のある東へ向かって続いている。
だが、灰へ沈んだ爪先は西を向き、踵だけが東へ深く食い込んでいた。
身体を前へ向けたまま、後ろへ歩いた跡だった。
歩幅は一定で、転んだ形跡も、誰かに引きずられた形跡もない。
「歩いているな」
「後ろへね」
リーヴァは槍を握り直した。
旅人も背の剣へ手を伸ばす。
布を解き、刃を抜いた。
曇った鉄が、朝の光を鈍く返す。
先ほどから続いていた低い震えが止まった。
灰原が、音を失う。
リーヴァの視線が鋭くなった。
「動かないで」
遠くで鐘が鳴った。
昨夜よりも近い。
深い音が灰の下へ潜り、足元から骨へ伝わってくる。
その余韻に応えるように、灰原の4箇所で地面が盛り上がった。
右前方に2つ。左に1つ。さらに後方の遠い場所に1つ。
灰の中から、人の頭が現れる。
続いて肩、腕、痩せた胴がゆっくりと起き上がった。
巡礼衣をまとった人影だった。
どの顔も灰に覆われ、両耳には太い錆び釘が打ち込まれている。胸元の衣服は裂け、その下から小さな鉄片がいくつも覗いていた。
後方に現れた1体だけは、肩まで姿を現したところで動きを止めた。
やがて頭を下げ、再び灰の中へ沈んでいく。
表面に残ったのは、ゆっくりと旅人たちへ近づく細い盛り上がりだけだった。
「鐘聞きよ」
リーヴァが槍を低く構えた。
「鐘が鳴るまでは、灰の中で祈り続ける」
「鳴ったあとは」
「近くの鼓動を探す」
立ち上がった3体の頭が、一斉に旅人たちへ向いた。
目は閉じたまま。
だが、耳へ打ち込まれた釘が、かすかに震えている。
右前方の2体が先に動いた。
灰を掻き分ける足は遅い。だが、進む方向に迷いがない。
「右の1体を止めろ」
「残りは?」
「足場ごと崩す」
旅人は剣を片手で構え、空いた左手を上げた。
今朝までに戻った魔力は多くない。
風のルーンなら、一度。
雷を刻めば、それだけで底をつくだろう。
雷は、礼拝堂の巨躯へ届かせるために必要だった。
ここで使うものではない。
旅人は指先で宙へルーンを刻んだ。戻った魔力を削るように淡い線が折れ曲がり、最後の一画が閉じると同時に、風が灰原を薙いだ。
足元の灰が一斉に巻き上がる。
旅人たちの周囲から灰が吹き払われ、埋もれていた石畳が露出した。右から迫っていた2体が体勢を崩し、左側の鐘聞きが薄い灰の下に隠れていた空洞へ腰まで落ち込む。
「今だ」
リーヴァが踏み込んだ。
槍の穂先が、右から来た1体の胸を貫く。
だが、鉄片を埋め込まれた胸骨に阻まれ、浅いところで止まった。
鐘聞きの両腕がリーヴァへ伸びる。
旅人はもう1体へ向かって廃剣を振り下ろした。
刃は肩口へ食い込み、骨を砕く。
切断するには至らない。
それでも刃先へ寄った重みが、人影の身体を片膝まで沈めた。
剣を引き抜く。
柄の内側で、継ぎ合わされた鉄が軋んだ。
鐘聞きは砕けた肩を垂らしたまま、残る腕で旅人の腰へ掴みかかる。
半歩下がり、胸元へ剣を横から叩き込んだ。
刃が巡礼衣を裂く。
胸骨へ埋め込まれた鉄片が弾け、灰色の肉とともに飛び散った。
鐘聞きが仰向けに倒れる。
まだ動いている。
旅人は剣先を喉元へ当て、両手で押し込んだ。
背骨へ刃が届く。
体重をかけると、骨が割れ、人影の指が灰を掻いたまま止まった。
左では、空洞へ落ちた鐘聞きが灰を掻き上げ、地上へ這い出そうとしていた。
旅人がそちらへ向き直った瞬間、足元の灰がわずかに膨らんだ。
後方から近づいていた盛り上がりだった。
灰の下から腕が伸び、旅人の足首を掴む。
指が革靴へ食い込んだ。
旅人は足を引かなかった。
掴ませたまま剣を逆手に持ち替え、灰の下に潜む頭部へ振り下ろす。
一撃目で、鈍い音が返った。
鐘聞きの頭が灰の中から半ば持ち上がる。
2撃目。
耳へ打ち込まれていた釘が石畳へ転がり、足首を掴む手から力が抜けた。
「〈旅人〉!」
リーヴァの声が飛ぶ。
彼女は胸を貫いた鐘聞きと組み合っている。槍を引き抜けず、柄を両手で押し込みながら、人影の腕を身体の外へ逸らしていた。
空洞から這い出した1体が、灰まみれの腕を彼女へ伸ばしている。
旅人は剣を構え直し、その進路へ割り込んだ。
廃剣を胸へ振り抜く。
重い刃が肋骨をまとめて砕いた。
だが、衝撃が柄まで抜ける。
巻き直された革の下で、継ぎ目がずれた。
鐘聞きは胸を潰されても止まらず、旅人へ倒れ込むように腕を伸ばす。
旅人は胸へ足をかけて押し戻し、剣を引き抜いた。
次の一撃は振り下ろさない。
露出した背骨の隙間へ先端を当て、両手と体重で押し込んだ。
刃が骨の間を通り、人影の身体が灰の上へ沈んだ。
直後、リーヴァの方から骨の折れる音がした。
彼女は槍を横へ捻り、鐘聞きの胸骨を内側から崩していた。穂先を抜き、倒れかけた人影の首へ突き立てる。
最後の1体が動きを止めた。
舞い上がった灰が、ゆっくりと降りてくる。
リーヴァは息を整えながら、倒れた鐘聞きの耳を見た。
「昨夜の鐘で起きたのかもしれない」
「鐘車から、ここまで届くのか」
「分からない。鐘聞きが増えたのも、ここ数年よ」
旅人は剣を確かめた。
刃こぼれがひとつ増えている。
柄を握って左右へ力をかけると、わずかな緩みがあった。
まだ使える。
だが、オルグが捨てる前に働かせると言った意味は分かった。
2人は足跡を追った。
灰原のさらに奥へ進むにつれ、祈祷柱の数が増えていく。どの柱も鐘車の方角へ傾き、灰の中から手を伸ばしているように見えた。
黒く固まった血が、灰の上へ点々と続いている。
やがて、倒れた石柱の陰に人影が見えた。
男がひとり、柱へ背を預けて座っていた。
頭は胸へ落ち、両脚は灰の中へ伸びている。腹部へ何重にも布を巻いていたが、乾いた血が黒く広がっていた。
右手だけが持ち上がり、指先は東を示している。
リーヴァが近づき、男の前へ膝をついた。
首へ指を当てることはしなかった。
確かめるまでもない。
「兄の方か」
「ええ」
リーヴァは男の首元から、骨で作られた認識札を外した。
表面へ刻まれた文字を親指でなぞる。
それから札を背負い籠の内側へしまった。
「弟を逃がしたのではないな」
旅人は、男の指が示す東を見た。
「追っていたのね」
リーヴァは立ち上がった。
「弟は先にいる」
「生きていると思うか」
「そうでなければ、昨夜の鐘を鳴らしたものが別にいる」
どちらであっても、先へ進む理由は変わらなかった。
兄の遺体を離れてから、リーヴァは道沿いの祈祷柱をひとつずつ確かめ始めた。
正面に残る巡礼文字だけではなく、裏側や灰へ沈んだ根元まで鉄棒で探っていく。
1本目には何もない。
2本目には、古い祈り紐が石へ食い込んでいるだけだった。
3本目を通り過ぎかけたところで、リーヴァが足を止めた。
柱の裏側へ回り込み、手で灰を払う。
短い縦傷が3本。
そのすべてを、斜めの1本が横切っていた。
リーヴァは手袋を外し、傷の上へ指を置いた。
「それが印か」
「……ええ」
掠れた声だった。
傷の縁は風雨に削られ、石と同じ色へ変わり始めている。それでも、自然についたものではなかった。
「間違いないのか」
「この刻み方をする人は、ほかにいない」
斜めに刻まれた線は、柱の根元へ向かっていた。
鐘車の方角ではない。
灰の下を示している。
「地下か」
「古い巡礼路には、埋葬所へ降りる道があったと聞いている」
リーヴァはしばらく印を見つめたあと、手袋をつけ直した。
「先に兄弟を見つける」
「印は追わないのか」
「途中で引き返したと知れば、あの人に顔向けできない」
鉄棒を拾い、再び東へ進み始める。
その背中には、先ほどまでなかった焦りが見えた。
灰の向こうに、巨大な影が現れた。
最初は、横倒しになった建物に見えた。
近づくにつれ、それが鐘だと分かる。
巡礼鐘は荷車ごと横へ倒れ、半分以上を灰へ沈めていた。鐘を支えていた木枠は腐り、片側の車輪は砕けている。
残された車軸には厚い錆が浮いていたが、形は保っていた。
鐘の縁は人の背丈ほどもある。
表面には、無数の祈りの言葉が刻まれていた。文字の多くは灰と錆に埋もれ、読めない。
旅人は鐘の周囲を見回した。
綱は切れ、鐘は横倒しになっている。鐘舌が残っていたとしても、内側へ沈んだまま動くはずがなかった。
「この状態で、どうやって鳴った」
リーヴァは答えなかった。
旅人が鐘の縁へ手を触れる。
冷たい鉄が、かすかに震えていた。
振動は鐘の上からではない。
灰へ沈んだ下側から伝わってくる。
「何かいる」
リーヴァが槍を構えた。
2人は鐘の周囲の灰を払い始めた。
鉄棒の先が、柔らかなものへ触れる。
リーヴァが手で灰を掻き分けると、人の指が現れた。
土色ではない。
まだ、わずかに血の色が残っている。
「生きている」
リーヴァがさらに灰を払うと、腕と肩、その下に埋もれていた若い男の上半身が現れた。折れた槍の持ち主――失踪した弟だった。
腹から下は鐘車の枠へ挟まれ、灰へ沈んでいる。顔は青ざめ、唇から細い息が漏れていた。
リーヴァが男の肩へ手を伸ばす。
「待て」
旅人はその腕を掴んだ。
「まだ息がある」
「灰を見ろ」
男が息を吐き、胸が沈むたび、その周囲の灰は逆に膨らんでいた。
その首には、黒い祈り紐が何重にも巻きついていた。
紐は喉から胸元へ食い込み、衣服の内側へ潜っている。別の紐が両手首を縛り、その先は鐘の内部へ伸びていた。
男の身体が小さく痙攣し、祈り紐が張った。だが、その力だけで鐘舌が動いているのではなかった。
灰の下で何かが身じろぎし、その動きが男の身体と祈り紐を通じて、鐘の内部へ伝わっている。
鐘舌が、鈍い音を立てて持ち上がった。
「この人が鳴らしたの……?」
「違う」
旅人は廃剣を抜いた。
「鳴らすために使われている」
弟の片目が開いた。
焦点の合わない瞳が、リーヴァの顔を通り過ぎる。
旅人の背後へ向けられた。
灰原のどこかで、石の擦れる音がした。
祈祷柱だと思っていた影が次々と傾き、灰の中から腕と頭を持ち上げ始める。
弟の身体が大きく反った。
灰の下の何かが動き、祈り紐が強く張られた。
横倒しの巡礼鐘が、目の前で鳴った。
深い音が灰原を震わせる。
旅人は剣を構えた。
鐘の下で、何かが目を覚まそうとしていた。
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