第2話 灯守りの宿場
灯守りの宿場は、灰の荒野へ鉄の杭を打ち込むように築かれていた。
石を積み上げた外壁には、形も厚みも異なる鉄板が幾重にも打ちつけられている。錆びた盾、荷車の底板、折れた門扉。かつて別の役目を持っていた鉄が、今は外から来るものを拒む壁となっていた。
門の上では、鉄籠に納められた火が燃えている。
橙色の炎は灰を含んだ風に押されながらも消えず、門前へ2人分の長い影を落としていた。
「リーヴァ」
胸壁の上から、男の声がした。
弓を手にした門番が、リーヴァの背負い籠へ目を向ける。その後ろに立つ旅人を認めると、弦を引く指へ力を込めた。
「後ろの男は」
「街道で会った。灰に埋もれていた連中を3体、一緒に倒した」
「丸腰でか」
門番の視線が、旅人の空の鞘をなぞった。
破れた衣服にも、露出した両手にも傷はない。だが、装備を失った者の姿であることだけは明らかだった。
「不葬者よ」
リーヴァが告げる。
門番の顔から、わずかに表情が消えた。
「名は」
「〈旅人〉」
「本名ではないな」
「本人も知らない」
しばらく、灰を運ぶ風の音だけが続いた。
門番は旅人を見下ろしたまま、胸壁の下へ片手を上げた。
鉄と木を継ぎ合わせた門扉が、地面を擦りながら内側へ開いていく。
「中で死ぬな」
旅人が門をくぐろうとすると、低い声が背中へ落ちた。
「死体が消えても、血を洗う者は残る」
旅人は振り返らず、リーヴァに続いて宿場へ入った。
壁の内側は、外よりもわずかに暖かかった。
中央を走る石畳の両側に、低い建物が身を寄せ合うように並んでいる。屋根へ積もった灰を、長い棒で無言のまま落とす男がいた。別の軒先では、老婆が曲がった釘を石へ並べ、ひとつずつ槌で真っ直ぐに戻している。
水桶の蓋へ溜まった灰さえ、布で丁寧に集められていた。濡らして壁の隙間を埋めるためだろう。
この場所では、捨てられるものの方が少ない。
旅人が通ると、釘を打つ音が一度だけ止まった。
老婆は顔を上げ、空の鞘を見る。その視線が傷のない手へ移ると、並べていた釘を自分の側へ引き寄せた。
向かいの軒下では、鉄杯を持った男が旅人のために道を空ける。ただし、目は合わせなかった。
「歓迎されてはいないらしい」
旅人が言うと、リーヴァは足を緩めずに答えた。
「追い出されないだけ、ましよ」
「不葬者は珍しいのか」
「珍しくないから、嫌われるの」
その先を話すつもりはないらしい。
石畳の奥から、鉄を打つ音が響いてきた。
一定の間を置き、重い音が繰り返される。火花が、暗くなり始めた宿場の一角を赤く照らしていた。
旅人は音のする方角へ足を向けた。
「鍛冶場へ行くのね」
「剣が要る」
「分かっているわ」
鍛冶場には壁がなかった。
石柱と煤けた屋根だけで囲われた空間の中央に、大きな炉が口を開けている。踏み鞴が動くたび、炭の奥で火が膨らんだ。
炉の前に立つ男が、金床へ槌を振り下ろす。
背は高くない。だが、首から肩にかけての肉は岩のように厚く、露出した両腕には古い火傷が幾重にも残っていた。左手の小指と薬指は、途中から失われている。
「オルグ」
リーヴァが呼びかける。
男は答えなかった。
赤熱した鉄を2度打ち、裏返してもう一度槌を落とす。形を確かめてから火床へ戻し、ようやく顔を上げた。
「街道で3体起きた」
リーヴァが先に告げた。
オルグは背負い籠の鉄屑を見たあと、旅人の空の鞘へ目を止めた。
「そいつは」
「街道で会った不葬者。礼拝堂で剣を折ったらしい」
オルグは旅人へ近づき、言葉もなく空の鞘を掴んだ。
幅を指で測り、内側へ残った刃の擦れ跡を確かめる。
「何を相手にした」
旅人は、石の肉へ食い込んだ刃の感触を思い出した。
「肉は石に近い。その内側に、錆びた鉄が幾重にも重なっていた。胸の奥には赤い核がある」
オルグの太い指が、鞘の口を叩いた。
「この幅では薄い」
それだけ言って鞘を放す。
「刃が石を裂いても、その下の鉄へ噛み込む。抜けなくなったところへ横から力を受ければ、半ばから折れる」
「そのとおりだ」
「残った刃は」
「敵の胸にある」
オルグは炉の火へ視線を戻した。
槌の柄を握ったまま、しばらく何も言わない。
「切るための刃では足りん」
やがて、低い声が落ちた。
「石を割り、その奥へ押し込む厚みが要る。刃先だけを硬くすれば、今度は根元が耐えん。芯から別の鉄を使う」
「作れるか」
「鉄があれば」
旅人は黙った。
金も、差し出せる鉄もない。
オルグはそれ以上問わず、金床の脇に積まれた鉄屑へ目を向けた。
リーヴァが背負い籠を下ろし、街道で拾ったものを広げる。
曲がった釘。欠けた鎖。薄い留め具。
オルグはひとつずつ拾い上げ、金床へ落とした。
どれも乾いた、軽い音を返す。
「壁の継ぎにもならんものが半分。残りは鍋底だ」
「剣には?」
「ならん」
最後の鉄片を籠へ放り戻す。
「祈り果ての灰原に、巡礼鐘を運んでいた荷車が沈んでいる。車軸も使えるが、欲しいのは鐘舌だ。古い鉄だが、密度がある」
「持ち帰れば打てるのか」
「量と傷みを見るまでは答えん」
オルグは鍛冶場の奥へ入り、壁に立てかけられていた剣を1本抜き取った。
鞘はなく、刃へ煤けた布が巻かれている。
布を解くと、幅の広い短めの剣が現れた。刃には大小の欠けが並び、根元には一度折れたものを継いだ跡が走っている。柄の革は何度も巻き直され、汗と煤で黒く硬くなっていた。
オルグは柄を差し出した。
「持て」
旅人は剣を受け取り、重さを確かめる。
重心は刃先へ寄っていた。素早く振り回すための剣ではない。だが、骨や脆い石へ叩きつけるには使える。
「この剣の代価は、同じ重さの鉄だ」
「鐘舌とは別にか」
「鐘舌は、お前が次の剣を欲しがる代価だ」
旅人は曇った刃を見た。
炉の火が、いくつもの刃こぼれの間で揺れている。
「名はあるのか」
「ない。名を刻むほど長く残る剣でもない」
旅人は、それ以上尋ねなかった。
「背負うなら布を巻け。今の鞘には入らん」
オルグから革紐を受け取り、刃へ布を巻き直す。
「鐘車の鉄は宿場のものだ。勝手に剥がせば、持ち帰っても門を閉ざされる」
「誰に話を通す」
「マレナだ」
オルグは再び金床へ向き直った。
「ひとつだけ言っておく。その剣で礼拝堂へ戻るな」
「分かっている」
「なら、先に鉄を拾え」
槌が赤熱した鉄へ落ちた。
話は終わりらしい。
酒場は宿場の中央にあった。
広い石造りの建物で、入口の上には欠けた杯をかたどった鉄飾りが吊るされている。扉を開けると、煮込まれた根菜と煙、濡れた革の匂いが流れ出した。
室内の壁には、帰還した探索者が認識札を掛けるための鉄釘が並んでいた。
多くの釘には、骨や木片で作られた札が吊るされている。
入口に近い2本だけが空いていた。
リーヴァはそこへ一瞬だけ目を止めたが、何も言わず帳場へ向かった。
帳場に立つ女は、白いものの混じった髪を後ろで束ね、厚い革表紙の帳面へ文字を書きつけていた。左の眉から頬まで、古傷が縦に走っている。
「遅かったね」
顔を上げずに言う。
「門番にも言われた」
「門番が口を出すうちは、まだ帰ると思われている」
そこでようやく、女――マレナは旅人を見た。
空の鞘。背へ括りつけた廃剣。傷のない手。
目にしたものを確かめるように、視線がゆっくり動く。
「オルグの剣か」
「鐘車の鉄を取ってこいと言われた」
「炉の男は、いつも人の手より先に鉄の行き先を決める」
マレナは筆を置いた。
「灰原の鐘車には、まだ鉄が残っている。宿場の壁にも、鍋にも、オルグの炉にも要る鉄だ」
帳面の端を、指先で2度叩く。
「持ち帰った分から、宿場が必要なだけ取る。残りは運んだ者の取り分だ。鐘舌を選べば、ほかの取り分は減る」
「構わない」
「話は最後まで聞きな」
マレナの視線が、壁際の空いた2本の釘へ向けられた。
「3日前、あの鐘車へ2人出した。道を知る兄弟だ。昨日までに戻るはずだった」
「戻っていないのか」
「札がないだろう」
旅人も空の釘を見る。
帰還した者だけが札を掛ける場所。
空白は、まだ死を意味しない。
だが、生きている証にもならなかった。
「鐘車の鉄を持ち帰る。2人を見つけたなら連れ戻す。死んでいたなら、認識札を外してこい」
マレナの声に、哀れみはなかった。
それでも、見捨てる者の声でもなかった。
「それが宿場の仕事だ」
リーヴァが空の釘を見たまま、短剣の柄へ手を置いた。
「あの2人は、出る前に私へ話した」
声が低くなる。
「灰原で、私が探している人の手掛かりを見たと」
「何を見た」
「その人が残した印だと。まだ、本物かは分からない」
リーヴァは旅人へ目を向けた。
「だから私も行く。あなたを案内するためだけじゃない」
「分かった」
それ以上は尋ねなかった。
マレナは2人を見比べ、帳面を開く。
「朝、門が開いたら出な。今から行けば、夜の灰原で鐘車を探すことになる」
「朝に出る」
マレナが筆を取る。
「名は」
「〈旅人〉よ」
リーヴァが答えた。
マレナは旅人の顔を見たが、理由は聞かなかった。
帳面へ、ゆっくりと文字を刻む。
「今夜の寝床と食事は先に出す。帰らなければ、その分は宿場の損だ」
帳場の下から木札を取り出し、リーヴァへ投げる。
「奥の2部屋。火は勝手に足すな。宿場の薪は、血より高い」
「分かった」
旅人が帳場を離れようとした、そのときだった。
宿場の外から、低い音が届いた。
鉄を打つ音ではない。
風に鳴る門扉とも違う。
深く、長く、灰の夜を震わせる音。
鐘だった。
酒場にいた者たちの動きが止まった。
壁際の男が、口元へ運びかけた杯を下ろす。炉端で眠っていた老人が目を開き、入口へ顔を向けた。
マレナの指が、開いた帳面の上で止まっている。
2度目の鐘は鳴らなかった。
「どこからだ」
旅人が尋ねる。
リーヴァの手は、腰の短剣を握っていた。
「東よ」
窓の外には、灰に沈んだ夜しか見えない。
「祈り果ての灰原」
マレナは壁際の空いた2本の釘を見た。
「あの鐘車は、何年も前から倒れたままだ」
酒場の火が、小さく揺れた。
祈り果ての灰原には、鐘を鳴らす者など残っていないはずだった。
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