第1話 灰渡りの街道
旅人は、自分を殺したもののもとへ戻っていた。
腰の鞘は空のまま、身体を守る鉄もない。身につけているのは、祭壇へ戻されたときに残っていた薄汚れた衣服だけだった。
それでも、足は止めなかった。
草に埋もれた細道を抜けると、灰色の街道へ出た。
ひび割れた石畳の上には、風が運んだ灰が薄く積もっている。道の両側には、頭部を失った祈祷像が等間隔に並び、その足元には朽ちた杖や、文字の消えた祈り札が転がっていた。
かつては大勢の巡礼者が、この道を歩いたのだろう。
今は、人の足音ひとつ残っていない。
石畳を踏むたび、乾いた灰が舞い上がった。
礼拝堂までは遠くない。
剣は折れた。鉄杭も失った。風のルーンを刻むだけの魔力も、まだ戻ってはいない。
それでも、敵の胸は開いていた。
赤い核には深い亀裂が走っている。次に鉄を核まで届かせられれば、今度こそ終わらせられる。
「――そこで止まって」
女の声がした。
足を止める。
「振り向かないで。両手を見えるところへ」
言われたとおり、何も持っていない両手を肩の高さまで上げた。
背後で灰を踏む音がする。
軽い。だが、その足運びに迷いはなかった。
女はすぐには近づいてこなかった。旅人の背中から空の鞘、腰回り、足元へと、順に確かめている気配がした。
「ゆっくり振り向いて」
身体の向きを変える。
街道脇に、ひとりの女が立っていた。
20歳をいくつか過ぎた頃だろう。旅装の上から使い込まれた革の胸当てをつけ、片手には穂の短い槍を握っている。背には布袋と、鉄屑を括りつけた背負い籠があった。
その傍らには、半ば灰へ埋もれた荷車の残骸がある。
折れた車輪から、前腕ほどの長さがある太い鉄の留め具が、半ばまで引き抜かれていた。
女の視線が、旅人の空の鞘から破れた衣服へ移る。身を守る鉄も、荷袋もない。
「その姿で、どこから来たの」
「礼拝堂だ」
「武器は?」
「剣は折れた。ほかは、死んだ場所にある」
女の目が細くなった。
「……不葬者」
旅人は答えなかった。
女は槍の穂先をわずかに下げたが、警戒を解いたわけではなかった。
「最後に死んだのは、あそこ?」
街道の先へ目を向ける。
崩れた石壁の向こう、灰色の丘の上に、礼拝堂の尖塔がわずかに覗いていた。
「ああ」
「中に何がいるの」
「まだ生きているものだ」
短い沈黙が落ちた。
女はもう一度、空の鞘を見た。
「その姿で戻るつもり?」
「そのつもりだ」
「剣も鎧もないのに?」
「傷は残した」
女の顔に浮かんだのは、驚きでも呆れでもなかった。
得体の知れないものを見る目だった。
「あなた、名前は?」
旅人は口を開いた。
だが、名乗るべき音が出てこなかった。
記憶の奥へ手を伸ばしても、そこにあるのは空白だけだった。誰かに呼ばれたことも、その声へ振り返ったことも思い出せない。
「……ない」
「ない?」
「思い出せない」
女はしばらく旅人を見つめていた。
「なら、〈旅人〉と呼ぶわ」
「……旅人」
「名のない者を呼ぶには、それで足りるでしょう」
返事はしなかった。
呼び名など、歩くためには必要ない。
だが女は、それを拒絶とは受け取らなかったらしい。
「私はリーヴァ。灯守りの宿場で道拾いをしている」
「道拾い」
「街道に残された鉄や、まだ使える遺物を拾う仕事よ」
リーヴァは荷車の残骸へ戻り、途中まで抜いていた鉄の留め具へ手をかけた。
両手で引いても、錆びついた鉄は動かない。
槍の柄を隙間へ差し込み、梃子のように押し下げる。
金属が軋んだ。
その音に応えるように、荷車の下で灰が動いた。
「離れろ」
「何を――」
灰の中から、黒ずんだ手が伸びた。
細い指がリーヴァの足首へ絡みつく。
身体を捻り、掴まれた脚を引く。だが、灰の下から這い出したものは腕だけではなかった。
焼け焦げた巡礼衣をまとった人影が、荷車を押し上げながら身を起こす。
顔の半分は灰と一体になり、口元には黒い祈り紐が幾重にも巻きついていた。
リーヴァは槍を引き抜き、その喉へ穂先を突き立てた。
鈍い手応えが返る。
人影は倒れない。
祈り紐の奥から、空気の漏れるような音がした。
街道脇の灰が、さらに2箇所で盛り上がった。
「3体!」
リーヴァが槍を捻り、最初の人影を荷車へ縫いつける。
残る2体が、左右から立ち上がった。
右手を掲げかける。
指先に光は宿らない。
失った魔力は、まだ戻っていなかった。
右から迫った人影が腕を振り上げる。手には、折れた巡礼杖の先端が握られていた。
半歩だけ身体をずらす。
杖が肩口を掠め、背後の石畳を叩いた。
伸びきった腕を掴み、肘を逆へ折り曲げる。骨が乾いた枝のように砕けたが、人影は動きを止めなかった。
もう一方の手が喉へ伸びてくる。
「使って!」
リーヴァが足元の鉄を蹴った。
荷車から抜けかけていた留め具が、灰の上を滑る。錆の剥がれた鉄が石畳を擦り、耳障りな音を立てた。
人影の腕を放し、身を沈める。
指先が鉄へ触れた。
拾い上げると同時に、下から突き上げる。
重い。
粗い錆が掌へ食い込んだ。
鉄の先端が人影の顎を砕き、口内へ入る。
そのまま頭蓋の奥まで押し込むと、人影の身体から力が抜けた。
倒れた身体を蹴り離す。
左から現れた最後の1体が、リーヴァを掴もうと両腕を広げて迫っていた。
リーヴァは槍を引こうとしたが、穂先は最初の人影の喉へ噛み込み、抜けない。
槍から手を放す。
腰から短い刃を抜き、迫る腕の下へ踏み込んだ。横薙ぎの一撃が、人影の脇腹を深く裂く。
黒ずんだ肉が開いた。
その奥に、灰の塊へ包まれた細い背骨が見えた。
「背骨を砕いて!」
すでに動き出していた。
人影の背後へ回り込み、鉄の留め具を両手で握る。
背骨の隙間へ先端を当て、全身の重みをかけて打ち込んだ。
一度では砕けない。
人影が振り返ろうとする。
リーヴァが正面から肩をぶつけ、その身体を押し戻した。
鉄を引き抜き、同じ場所へもう一度突き立てる。
灰に覆われた骨が割れた。
人影の両腕が、力なく垂れた。
その身体は膝から崩れ、積もった灰の中へ沈んだ。
荷車へ縫いつけられていた最初の人影が、なおも手を伸ばしている。
リーヴァは槍の柄を両手で掴み、穂先を横へ捻った。
首の骨が折れた。
今度こそ、人影は動かなくなった。
風が吹く。
倒れた3体の身体から、乾いた灰が少しずつ剥がれ、街道へ流れていった。
リーヴァは槍を引き抜き、穂先についた黒いものを布で拭った。
「丸腰でも、ずいぶん戦えるのね」
手の中の鉄を見る。
先端が曲がり、縦に細いヒビが入っていた。もう一度強く打ち込めば、折れるだろう。
「それ、私が拾っていた鉄なんだけど」
旅人は留め具を差し出した。
リーヴァは受け取らず、曲がった先端を見て眉を寄せた。
「もう売れない」
「すまない」
「……不葬者にも、詫びる言葉は残るのね」
リーヴァの口元が、わずかに緩んだ。
それは、この廃地で初めて見た、人の穏やかな表情だった。
鉄を荷車の脇へ置き、再び礼拝堂の方角へ身体を向ける。
「待って」
リーヴァの声が背中へ届いた。
「どこへ行くつもり?」
「戻る」
「さっきの話、本気だったの?」
「あれは、まだ生きている」
「あなたを殺したものが?」
「ああ」
「だから、もう一度殺されに行く?」
「次は殺す」
リーヴァが深く息を吐いた。
「今の鉄が、礼拝堂にいるものへ通じると思う?」
足を止めた。
先ほど手にした鉄の重さを思い出す。
石の肉。その内側に重なった錆びた鉄。露出した赤い核。
曲がった留め具では、届かない。
「灯守りの宿場には鍛冶場がある」
リーヴァは槍を背へ戻し、荷車から回収した鉄屑を籠へ放り込んだ。
「金がなくても、働けば鉄は手に入る。道具も食べ物も、あそこならまだ残っている」
「遠いのか」
「日が落ちる前には着く」
空を見上げる。
雲の向こうにある太陽は、すでに西へ傾いていた。灰色の光が薄れ、祈祷像の影が街道を横切っている。
礼拝堂の方角へ目を向けた。
あの巨躯が、今も胸へ折れた剣を残しているとは限らない。時間を置けば、傷が塞がる可能性もある。
背を向けることに、わずかな苦みが残った。
だが、武器を持たずに戻れば、同じ死を繰り返すだけだった。
死は傷を消しても、敵を弱らせてはくれない。
「案内してくれ」
「それでいい」
リーヴァは背負い籠を持ち上げた。
鉄屑が触れ合い、低い音を立てる。
2人は街道を歩き始めた。
リーヴァは半歩先を進み、ときおり道端へ目を向けていた。
鉄を探しているのではない。
灰に埋もれた外套を見つけるたびに足を止め、その下にある顔を確かめている。
「誰かを探しているのか」
その足が、わずかに止まった。
「……探している」
「誰を」
リーヴァは振り返らなかった。
「まだ、あなたに話すことじゃない」
それ以上、旅人は尋ねなかった。
街道を歩く2人の足音に、背負い籠の鉄が触れ合う音が重なる。
やがて、灰の薄闇の向こうに小さな火が見えた。
高く組まれた石壁の上で、鉄籠に納められた炎が揺れている。
周囲の廃墟が闇へ沈んでいく中、その火だけは消えずに燃えていた。
「あれが灯守りの宿場」
リーヴァは足を止め、振り返った。
「死んだ場所へ戻るなら、その前に鉄を持ちなさい。〈旅人〉」
遠くの火を見つめる。
祭壇に燃えていた青白い炎とは違う。
人が薪をくべ、人が守り続けている火だった。
旅人は再び歩き出した。
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