第0話 名もなき旅人は、死してなお歩く
鉄の刃が、石のような肉へ食い込んだ。
だが、浅い。
旅人は柄を握り直し、食い込んだ刃を横へ滑らせた。灰色の表皮が裂け、細かな石片とともに黒ずんだ体液が噴き出す。その傷口から覗いたものは白い骨ではなく、幾重にも折り重なった錆びた鉄だった。
巨躯が身を震わせる。それだけで崩れかけた礼拝堂の床が沈み、天井に残っていた漆喰が雨のように降り注いだ。旅人は剣を引き抜いて身を翻す。直後、振り下ろされた巨腕が石床を砕き、跳ね上がった破片が頬を裂いた。
血が視界の端へ流れ込む。旅人は拭うこともせず、倒れかけた柱の陰へ滑り込んだ。
石と鉄が擦れ合う音が、礼拝堂の奥で鳴った。
敵は四肢を備えていたが、人の形をしているとは言い難かった。左腕は肩から異様に長く伸び、節のない指を床へ引きずっている。右腕は肘から二股に裂け、それぞれの先端に、握り固めた岩のような拳がついていた。
頭部には目も鼻もない。縦に割れた口だけがあり、その奥では焼けた鉄のような赤い光が明滅している。巨躯が息を吐くたび、歯のない口から火の粉がこぼれ、床に残された古い祈祷文を焦がした。
旅人は柱の陰から踏み出した。
その瞬間、二つの拳が左右から迫った。
一撃目の下へ身を沈め、二撃目を剣の腹で受ける。金属の軋みとともに衝撃が肩まで突き抜け、旅人の身体は石床の上を大きく滑った。力に逆らわず、片手をついて後方へ転がる。立ち上がったときには、右腕の感覚が半ば失われていた。
手の中の剣には、刃元から半ばまで細いヒビが走っている。次にまともな一撃を受ければ、折れるだろう。
巨躯が踏み込む。礼拝堂全体が低く震え、崩れた祭壇の上から首のない神像が転げ落ちた。
旅人は左手を掲げ、人差し指で宙をなぞった。指先から淡い光が伸び、複雑に折れ曲がりながら一つの文字を形作る。最後の線を刻み終えた瞬間、礼拝堂を満たしていた埃が巻き上がった。
風が巨躯へ叩きつけられる。
分厚い表皮が剥がれ、石片が飛び散る。敵の身体がわずかに傾いた。
旅人はすでに走り出していた。
倒れた長椅子を踏み台にし、敵の膝へ足をかける。剣を逆手に持ち替え、先ほど裂いた脇腹の傷へ刃を突き立てた。
今度は深く入った。
石の肉を貫いた刃が、内側の鉄へ激しく擦れる。旅人は柄に両手を添え、全身の重みをかけて押し込んだ。傷口から噴き出した熱が手袋を焼き、焦げた革の下で皮膚が泡立つ。それでも手を離さず、刃を奥へ捻じ込んでいく。
錆びた鉄板が割れた。
その奥に、赤く脈打つものが見えた。
心臓と呼ぶにはあまりにも硬く、炉の火と呼ぶにはあまりにも生々しい。だが、巨躯がそれを守ろうとしていることだけは分かった。
敵の長い左腕が戻ってくる。
旅人は剣を引き抜こうとしたが、刃は割れた鉄の隙間へ噛み込み、動かなかった。迫る腕を見て、迷わず柄から手を離す。巨躯の身体を蹴って床へ飛び降りた直後、振り払われた左腕が胸元の剣を叩き折った。
折れた刃の先端が、さらに深く肉の中へ沈む。柄に残った半分は宙を舞い、石床へ突き刺さった。
旅人は着地と同時に膝をついた。焼けた両手が震え、呼吸が荒れている。剣は失い、風のルーンをもう一度刻むだけの魔力も残っていなかった。
腰に差してあるのは、刃のない短い鉄杭が一本。武器と呼ぶには粗末だったが、何も持たないよりはましだった。
旅人は鉄杭を抜き、立ち上がる。
敵もまた、ゆっくりと向き直った。胸の傷口から赤い光を漏らし、折れた剣を体内へ残したまま、それでも足を止めようとはしない。
一歩踏み出すたび、礼拝堂の床に亀裂が走った。
旅人は鉄杭を左手へ持ち替え、空いた右手を前へ伸ばした。
焼けただれた指先が宙をなぞる。
縦に一本。その先から斜めへ二本。絡み合う線を断ち切るように、最後の一画を刻む。
それは火でも、水でも、風でも、地でもなかった。
青白い光を帯びた異形の文字が、暗い礼拝堂に浮かび上がる。
巨躯が右腕を振り上げた。
旅人の指が、最後の線を閉じた。
雷鳴が落ちた。
礼拝堂の闇が、一瞬にして白く染まる。旅人の指先から迸った雷は敵の胸へ突き立ち、肉の奥に残された剣へ吸い込まれた。
鉄が赤熱し、砕けた石の肉を内側から焼く。巨躯の全身に青白い光が走り、肩や背から火花が噴き出した。ひび割れた表皮が次々と剥がれ落ち、その内側に張り巡らされた鉄が赤く輝く。
敵の身体が大きく傾いた。
旅人は石床を蹴った。
雷に焼かれ、開いた胸の裂け目へ向かう。赤い核は半ばまで露出していた。そこへ鉄杭を打ち込めば、終わらせられる。
巨躯の右腕が動いた。
遅い。
雷を受けた肉も鉄も、旅人の目には止まって見えるほど鈍っていた。正面から迫る片方の拳を見切り、身体を左へ滑らせる。
だが、もう一方の拳が狙っていたのは、旅人ではなかった。
巨大な拳が石床へ叩きつけられた。
床が崩れ、石板が跳ね上がる。踏み切ろうとしていた旅人の足が宙へ浮き、身体の均衡が崩れた。
視界が反転する。
次の瞬間、長い左腕が横殴りに襲いかかった。
骨の砕ける音が、身体の内側で鳴った。
旅人は礼拝堂の柱へ叩きつけられ、受け身を取ることもできず床へ落ちた。肺から空気が押し出され、喉の奥から血が溢れる。
それでも立とうとした。
左手を床へつき、身体を起こす。だが、右脚は歪んだまま動かず、腰から下の感覚も失われていた。
巨躯が近づいてくる。
雷に焼かれた胸は崩れ、赤い核がむき出しになっている。表面には深い亀裂が走り、光も弱々しく明滅していた。
あと少しだった。
鉄杭は、旅人の手から数歩先へ転がっていた。
旅人は左腕だけで身体を引きずった。爪が剥がれ、指先から血が滲む。それでも石の継ぎ目を掴み、少しずつ鉄杭へ近づいていく。
巨躯の足音が背後から迫る。
床の振動が、潰れた胸へ響いた。
旅人は腕を伸ばす。
指先が鉄杭へ触れた。
その背に、敵の足が下ろされた。
胸が石床へ押し潰され、折れた肋骨が肺へ食い込む。口から血が溢れ、視界が赤く染まった。それでも旅人は指を動かし、触れた鉄杭を掴もうとした。
あと少しだった。
だが、指から力が抜けた。
鉄杭が石床を打った。
その音を最後に、何も聞こえなくなった。
◇ ◇ ◇
最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。
寒さだった。
冷たい空気が喉へ流れ込み、止まっていた肺が大きく膨らむ。旅人は石の上に手をつき、激しく咳き込んだ。口からこぼれたのは血ではなく、透明な唾液だけだった。
何度か息を吸い、ゆっくりと胸へ手を当てる。
肋骨は折れていない。背骨も砕けておらず、歪んでいた右脚も元の形へ戻っている。焼けただれていた指先には、傷一つ残っていなかった。
それでも痛みは覚えていた。
骨を砕かれた感触も、肺を潰された苦しさも、最後に鉄杭が石床を打った音も、何一つ消えてはいない。
旅人は顔を上げた。
目の前には、小さな祭壇があった。
風雨に削られた石を積み上げ、その上へ浅い鉄皿を置いただけのもの。神像もなければ、祀られた者の名を刻んだ文字もない。誰が何へ祈るために築いたのか、それを示すものはすでに失われていた。
鉄皿の中では、青白い火が静かに揺れている。
『――まだ、歩けますか』
女の声がした。
耳元で囁かれたようでもあり、遠い記憶の底から響いたようでもあった。
旅人は答えなかった。
石床へ手をつき、ゆっくりと立ち上がる。腰の鞘は空で、鉄杭もなく、身につけていた防具さえ失われていた。武器も、道具も、戦った場所に残してきたのだ。
祭壇の向こうには、草に埋もれた細い道が伸びていた。崩れた石壁の間を縫い、遠くに霞む礼拝堂跡へと続いている。
旅人は鉄皿の火を見つめた。
その炎が何を燃やしているのか、旅人は知らない。誰の力によって自分がここへ戻されたのかも、なぜ死ぬことを許されないのかも。
ただ一つ、確かなことがあった。
あれは、まだ生きている。
旅人は祭壇へ背を向けた。
何も持たぬまま、再び同じ道を歩き始めた。
◇ ◇ ◇
女は、消えかけた火を見つめていた。
長い髪が肩から流れ、揺れる炎の光を淡く映している。夜の闇に浮かぶ横顔は、人のものとは思えないほど美しかった。
けれど、その瞳には、数え切れないほど多くの別れが沈んでいた。
女は火のそばへ白い指を伸ばし、遠い記憶を辿るように口を開いた。
「――はるか昔。まだ空も海も大地もなかったころ、世界には《原初の炉》だけが燃えていました」
その火から生まれた神、巨人、不死者、精霊は、世界を分け合い、やがて奪い合った。
山は砕け、海は煮え、空から星が落ちた。
長い争いの果てに古き者たちの栄華は潰え、その墓と廃墟の上に、人が現れた。
人は残された火を拾い、地の底から鉄を掘り出した。
火で鉄を鍛え、鉄によって神話を葬った。
「こうして、火と鉄の時代――人の時代が始まったのです」
女はそこで言葉を止めた。
消えかけた火が、小さく揺れる。その瞳の奥に、青白い雷の光が一瞬だけ映った。
「……けれど」
女は遠い場所を見つめるように目を細めた。
「古き者たちのすべてが、死へ辿り着けたわけではないのです」
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




