エピローグ 灯は消えゆく
地上へ出るまで、2人はほとんど言葉を交わさなかった。
崩れた大祈祷殿では、黒い祈り紐が床へ垂れたまま動きを失っていた。柱や壁へ縫い止められていた巡礼者たちも、膝をついた姿勢を保てず、乾いた衣と骨の山へ崩れている。
命じる震えは、もう聞こえない。
祈る先を失った広間には、ただ石が冷えていく音だけが残されていた。
旅人の右手には、リーヴァが巻き直した布が重ねられている。それでも血は止まりきらず、指先を下へ向けるたび、赤い滴が石床へ落ちた。左肩も、剣を支えるだけで鈍く軋む。
背へ戻した剣は重かった。
切っ先は欠け、刃には雷の焼け跡が残っている。リーヴァの槍にも細いヒビが走り、柄へ力をかけるたび、乾いた音を返した。
それでも、2人とも歩いていた。
リーヴァの荷袋には、聖廟から救い出した名札が収められている。文字の残る札はひとつずつ布へ包まれ、エイナルの認識札とは別の場所へ納められていた。
「全部あるか」
旅人が尋ねた。
「読めるものは」
リーヴァは荷袋の口へ手を当てた。
「父さんの札もあるわ」
「ああ」
それ以上は確かめなかった。
絶えた巡礼路へ戻ると、道の両脇に並んでいた巡礼者たちは動かなくなっていた。布に覆われた顔を伏せ、石畳へ重なるように倒れている。祈祷柱の間を繋いでいた黒い紐も緩み、風に押される枯れ草ほどの力さえ残していなかった。
2人がそばを通っても、掴む手は伸びてこない。
朽ちた関所では、鉄と木を分けた残骸の山が、以前と同じ形で残っていた。
その奥に横たわるエイナルの亡骸も、動かなかった。
リーヴァは立ち止まった。
乾いた身体の胸には、旅人の剣が残した傷がある。鉄を探していた手は、石畳へ伏せられたまま、何も掴んでいなかった。
彼女は荷袋から薄い木片を取り出した。
短い縦傷が3本と、それらを横切る斜めの線。エイナルが道へ残した印だった。
リーヴァはそれを亡骸の手元へ置こうとして、指を止めた。
「持ち帰るのか」
「ええ」
木片を荷袋へ戻す。
「あの人が、ここまで歩いた証だから」
旅人は亡骸を見た。
名も記憶も失ったあとまで、拾う動作だけを繰り返していた身体だった。それも今は、ただの死体になっている。
リーヴァは頭を下げなかった。
祈りもしなかった。
父親の名を抱えたまま、再び歩き出した。
祈り果ての灰原へ戻った頃、灰の向こうには灯守りの宿場の火が見えていた。
外壁の上で、鉄籠の炎が赤く揺れている。
鐘は鳴らなかった。
灰の下から起き上がるものもない。2人が歩くたびに残る足跡だけが、静かな灰原を宿場へ向かって伸びていた。
胸壁の門番がこちらに気づいた。
弓を手にしたまま、旅人の血に染まった右手と、リーヴァの荷袋を順に見る。何も追ってきていないことを確かめると、下へ向けて片腕を振った。
門扉が、地面を擦りながら開いた。
「2人か」
「ああ」
門番はそれ以上、人数を数えなかった。
リーヴァが門をくぐる。
「何を持ち帰った」
その問いに、彼女は荷袋へ手を添えた。
「名前よ」
宿場の中で、灰を掃いていた者の手が止まった。
曲がった釘を直していた老婆が顔を上げ、鍛冶場からは槌を下ろす音が消えた。誰も駆け寄ってはこない。ただ、リーヴァの荷袋が立てる乾いた音へ耳を向けていた。
薬師は旅人の右手を見るなり、奥の椅子を顎で示した。
「座れ」
「先に札を」
「文字は逃げない。お前の指は逃げる」
旅人は椅子へ腰を下ろした。
布を解くと、掌の縫い跡は大半が開いていた。手首には鍔が食い込んだ青黒い痕が残り、指を動かすだけで傷口から新しい血が滲む。
薬師は水で血を洗い流し、黙って針を通し始めた。
「また使ったな」
「ああ」
「次は握れなくなると言った」
「ああ」
「死ねば治るとは言わないのか」
「死ななかった」
薬師は旅人の顔を見た。
それから、糸を引く手へ少しだけ力を込めた。
「なら、治せ」
傷を縫い直し、掌から手首まで厚い布を巻く。最後に指が動くことを確かめると、薬師は旅人の腕を膝へ戻した。
「しばらく使うな」
「努力する」
「前より悪い返事だね」
旅人は答えなかった。
酒場では、マレナが帳場の上を片づけていた。
杯も皿も端へ寄せられ、中央には浅い鉄皿が置かれている。炉の前にいた者たちも席を離れず、声を潜めて2人を待っていた。
リーヴァは荷袋を下ろした。
布へ包んだ名札を、ひとつずつ取り出していく。
骨札。薄い木片。錆びた鉄板。割れた陶片。どれも完全な形ではなく、文字も一部が黒く侵されていた。それでも、人の名として読めるものが残っている。
マレナは最初の札を受け取った。
灯りへ傾け、削れかけた文字を確かめる。帳面を開き、空いている頁へ筆を置いた。
名をひとつ読み上げる。
誰も返事をしない。
宿場に、その名を知る者はいなかった。
それでも、マレナは書いた。
次の札を受け取る。
また、名を読む。
筆が紙を擦る。
それが繰り返された。
誰の家族だったのかは分からない。どこから歩いてきた者なのかも、どの祈りを抱えて聖廟へ入ったのかも残っていない。
名前だけが帰ってきた。
帳面へ記された名の隣には、帰還を示す丸も、死を示す横線も引かれなかった。何があったのか分からない者へ、マレナは勝手な印を加えなかった。
ただ、名だけを残した。
最後の布を開く前に、リーヴァの手が止まった。
中には、エイナルの認識札と、彼が残した木片が入っている。
マレナは帳面の古い頁を開いた。
長く戻らなかった者たちの名が並ぶ中に、エイナルの名が残されている。横線も丸もなく、空白のまま年月を重ねていた。
「見つけたのかい」
「ええ」
「生きていた?」
「身体は動いていたわ」
リーヴァは認識札を握った。
「でも、父さんはもういなかった」
酒場の炉で、薪が小さく弾けた。
マレナは筆を持ったまま待った。
「父は帰らなかった」
リーヴァは認識札を浅い鉄皿へ置いた。
「でも、名前は帰ったわ」
骨の札が鉄へ触れ、乾いた音を立てた。
マレナは、エイナルの名へ横線を引いた。
それから線の脇へ、小さく文字を添える。
帰名。
帰ったのは、身体ではない。
それでも、何も帰らなかったわけではなかった。
リーヴァは父の印が刻まれた木片を、認識札の隣へ置いた。マレナは鉄皿を帳場の奥へ運び、これまでに持ち帰られた死者の札と同じ棚へ納めた。
誰も祈らなかった。
ただ、酒場にいた者たちは、エイナルの名が帳面へ残るまで立ち上がらなかった。
宿場の夜が深くなってから、旅人は鍛冶場へ向かった。
オルグは炉の前に座り、欠けた剣を膝へ載せている。暗い芯へ走る焼け跡を布で拭い、切っ先の欠損を指で確かめていた。
「折れなかった」
旅人が言う。
「欠けている」
「届いた」
オルグは鼻から息を吐いた。
「石を割ったのか」
「石より古いものを」
オルグはそれ以上尋ねなかった。
剣を作業台へ置き、旅人の右手を見る。
「直すのは刃だけでいいらしいな」
「手は薬師が直している」
「そちらの方が長くかかる」
オルグは剣の暗い芯をもう一度確かめた。
「刃を足す。だが、元には戻らん」
「戻す必要はない」
欠けた跡も、焼けた筋も、この剣が届いた場所の一部だった。
旅人は鍛冶場を離れた。
翌朝、門が開く前に、リーヴァは旅支度を整えていた。
遠くへ旅立つためではない。背負い籠には、新しい革紐と布、それに昨日帳面へ記した名を写した小さな札が入っている。
「どこへ行く」
「灰原の西側。古い宿場跡を知っている人がいるの」
「名を返すのか」
「返せるものは」
リーヴァは背負い籠の紐を締め直した。
「道拾いは続けるわ。鉄も拾う。でも、今度はそれだけじゃない」
旅人は頷いた。
彼の外套の内側には、浅く歪んだ鉄札が入っている。中央を剣に貫かれた穴へ、細い革紐が通されていた。
リーヴァの視線がそこへ向いた。
「持っていくのね」
「ああ」
「本当の名前ではないのに?」
旅人は外套の上から鉄札へ触れた。
「呼ぶには足りる」
リーヴァは一瞬だけ目を細めた。
「それ、私の言葉よ」
「返した」
「名前と一緒に?」
「ああ」
彼女は小さく息を吐いた。
笑ったようにも、呆れたようにも見えたが、旅人にはどちらか分からなかった。
門番が閂へ手をかける。
旅人は門へ向かおうとして、足を止めた。
宿場の外れに、小さな祭壇があった。
風雨に削られた石を積み、その上へ浅い鉄皿を置いただけのもの。神像もなく、誰へ祈る場所なのかを示す文字もない。
鉄皿の中では、青白い火が揺れていた。
「先に行くの?」
リーヴァが尋ねた。
「すぐ戻る」
「待ってはいないわ」
「それでいい」
旅人は祭壇へ向かった。
リーヴァは何も言わず、門の前へ歩いていった。
旅人が近づくと、祭壇の青白い火が細く伸び、やがて白へ変わった。熱はない。それでも、包帯の下の傷がわずかに疼いた。
炎の向こうに、女の姿が現れた。
白金の長い髪が、風のない場所で静かに揺れている。薄青の瞳は旅人ではなく、その外套の内側にある鉄札へ向けられていた。
旅人は、その気配を知っている気がした。
祭壇から届く声として。
死のあとに聞いた問いとして。
けれど、どこで初めて会ったのかは思い出せなかった。
『ひとつ、終わりました』
女の声は、耳ではなく記憶の奥へ届いた。
旅人は白い炎を見た。
「あれも、古き者だったのか」
『ええ』
女はそれ以上、名喰らいについて語らなかった。彼女の背後には闇の中へ浮かぶ細い灯が並び、そのうちのひとつが弱まり、音もなく消えた。
薄青の瞳は、消えた場所へ向けられていた。旅人には、悲しんでいるようにも、安堵しているようにも見えなかった。数え切れない別れのうち、ひとつを見送っただけのようだった。
『残りは12です』
白い火が揺らぎ、薄青の瞳も、白金の髪も、その姿ごと光の向こうへ消えていった。旅人は問い返さず、元の青白い火だけが残った鉄皿をしばらく見つめた。
やがて門が開く音がした。旅人は祭壇へ背を向けた。
外壁の鉄籠では、灯守りの火が燃えていた。
旅人はその火を背に、灰の道へ踏み出した。
これてに第1章「祈り澱む廃地」の物語は終幕となります。
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