第15話 澱みの聖廟――名喰らい②
旅人の右の人差し指が、宙へ縦の線を引いた。包帯の隙間から伝った血が指先へ集まり、淡い光へ触れて小さく弾ける。
続けて斜めへ2本を刻もうとしたとき、名喰らいが大棺を離れた。ひとつの骨格へ収まった身体は重く、片脚が黒い水を踏むだけで石室が低く震え、床の溝から濁った飛沫が押し出された。
旅人は右手を下げず、左手の剣を胸の前へ立てた。伸びてきた腕を刃の腹で外へ払うと、衝撃が左肩まで抜け、地のルーンを刻んだあとの重さが腕の奥で膨らむ。それでも指を止めず、最初の線の先へ斜めの1本を加えた。
反対の腕が横から振られた。旅人は身体を沈めたが、拳の端が左肩を掠め、石棺の側面へ押しつけられる。背中で石が鳴り、肺から息が漏れると、刻みかけの光も薄く揺らいだ。
「下がって」
リーヴァの槍が名喰らいの膝裏へ入った。穂先ではなく柄を差し込み、石棺の角を支点にして脚を外へ押す。骨が軋み、名喰らいの身体は傾いたが、顔のない頭は旅人だけへ向いたままだった。
片腕が後ろへ振られ、槍の柄とともにリーヴァの身体が床へ弾かれた。腰の革紐から外れた鉄灯が石床を滑ったが、炎は消えず、名喰らいの胸を下から照らした。
鉄札に刻まれた旅人の文字と、その奥に収まった黒い核が、皮膚越しに鈍く浮かんでいる。
旅人は石棺から背を離し、右の指で2本目の斜線を刻んだ。縦の線と2本の斜線が結ばれ、青白い文字の骨組みが宙へ残る。閉じるための最後の1画だけが欠けていた。
名喰らいは両腕を広げた。胸の鉄札が旅人を呼び寄せるように黒く脈打ち、それに応じて床の水も揺れる。だが、大棺へ戻る流れは石板に塞がれ、祈り紐も石の上で力なく濡れていた。
逃げ道はない。それでも、ひとつの身体はまだ死を拒んでいる。
旅人は左手だけで剣を振った。厚い刃が胸の鉄札へ当たり、甲高い音を立てて滑る。札の表面へ浅い傷が走っただけで、核までは届かなかった。
名喰らいの手が剣の峰を掴んだ。乾いた指の内側から細い骨が突き出し、刀身を左右から挟む。旅人が引いても動かず、右手を添えれば傷が完全に開く。
旅人は剣を手放した。
名喰らいが奪った鉄を持ち上げる。武器として振るう動きではない。胸の名札と同じように、自らの内側へ取り込もうとしていた。
リーヴァが低く滑り込み、短剣を指の継ぎ目へ打ち込んだ。骨と骨の間が開き、落ちた剣を旅人が左足で踏む。柄を足元へ滑らせて拾い直すと、彼は大棺の脇にある小さな石棺へ目を向けた。
「腕だけでは入らない」
「分かっている」
蓋のずれた石棺は、縁こそ黒い水に削られていたが、柄頭を受けられるだけの厚みを残していた。旅人はその前へ下がり、剣の柄頭を背後の石へ当てる。左手で柄を支え、右の前腕を鍔へ添えて、切っ先を胸の鉄札へ向けた。
「横へ退け」
リーヴァは鉄灯を拾い、覆いを開いて炎を名喰らいの左側へ差し出した。床の黒い水が火を避けて右へ寄る。名喰らいも炎から左肩を引き、踏み出す位置をわずかに右へずらした。
胸の札は、なお旅人を向いていた。
名喰らいが走る。速くはない。だが、幾つもの骨と肉をひとつへ押し込めた重さが、足音より先に床から伝わってきた。
旅人は動かなかった。
刃先が鉄札へ触れた次の瞬間、名喰らいの全身が剣へ乗った。薄い鉄板が内側へ折れ、鏨に似た切っ先が札を貫く。衝撃は柄頭から石棺へ逃げたが、受けきれなかった重みが旅人の左肩を押し潰し、鍔が右前腕へ深く食い込んだ。
包帯の下で傷が開く。
それでも剣は止まらず、札の奥にあった黒い核へ届いた。硬いものを削る音を立てながら刃が指の幅ほど沈み、名喰らいの身体が大きく反る。
両腕が旅人の首と剣へ伸びた。旅人は左手で刃の向きを保ち、右腕を鍔へ押しつける。掌から流れた血が刃元を伝い、黒い皮膚へ落ちた。
「止めろ」
リーヴァの槍が名喰らいの膝の内側を貫き、そのまま大棺の台座にある石の隙間へ噛み込んだ。彼女が柄を押し下げると、槍は弓なりに撓み、穂先の周囲で骨が裂ける。それでも脚は石床へ縫い止められた。
名喰らいの右手が旅人の喉を掴む。もう一方の手は剣を抜こうと刃へ伸びたが、リーヴァは槍を手放し、その肘へ全身でぶつかった。腕が横へ逸れ、彼女自身は石床へ倒れ込む。
旅人は血に濡れた右手を上げた。深く曲げることもできない指を、宙に残った異形の文字へ届かせる。
名喰らいの指が喉を締め、視界の縁が暗くなる。
旅人は最後の1画を刻んだ。
絡み合う線を、断ち切るように。
雷鳴が落ちた。
空のない石室が、一瞬にして白く染まる。青白い雷は名喰らいの皮膚へ散らず、胸へ突き立った剣へ吸い込まれた。
鐘舌を芯にした鉄が低く鳴り、雷を核まで運ぶ。黒い石の表面には無数のヒビが広がり、内側から白い光が漏れ出した。
その光の中に、別の姿があった。
頭上へ光を負う1体の影と、その足元へ膝をつく無数の人影。祈る者と祈りを受ける者は、長い年月の果てに境を失い、互いの身体と名を喰らいながら、ひとつの核へ融け合っていた。
雷がさらに奥へ入り、核から床へ伸びていたものを青白い光の中へ浮かび上がらせる。祈り紐より細く、黒い水より暗い1本の筋が石の下へ潜り、世界のどこかへ繋がっていた。
旅人はそれを見たことがない。だが、何を断つための文字なのかは、身体が知っていた。
青白い光が筋へ触れる。
音はしなかった。
ただ、切れた。
名喰らいの指から力が抜け、喉へ食い込んでいた手が落ちた。雷が消れると、旅人の内側には、もう一つのルーンを刻むだけの魔力も残っていなかった。
戻る道は断った。だが、器はまだ立っている。
名喰らいの身体が剣を抜こうと後ろへ反る。石へ噛み込んだ槍が軋み、柄の中央へ細いヒビが走った。
「押せる?」
床へ片膝をついたリーヴァが旅人を見た。
「押す」
彼女は名喰らいの脚から槍を引き抜き、背後へ回った。柄にはヒビが残っていたが、まだ折れてはいない。名喰らいの背へ横向きに当て、石棺の縁へ片足をかけて全身で押す。
旅人も左手で柄を握り直し、右の前腕を鍔へ当てた。左腕には地のルーンと剣の重さが残り、力を込めるたび肩の奥が軋む。
それでも、2人は退かなかった。
名喰らいの身体が刃へ押し戻される。旅人は厚い剣を捻り、雷に焼かれた核の内側をこじ開けた。
硬いものが割れた。
顔のない頭が天井へ向く。声は出ない。口もない。ただ、胸の前で組もうとした両手だけが、最後まで祈りの形を探していた。
旅人はさらに剣を捻った。
核が砕けた。
身体を満たしていた黒い水が一斉に落ちる。皮膚は形を失い、2本の腕も、2本の脚も、互いに繋がっていた無数の骨へほどけて石床へ崩れた。
リーヴァは鉄灯を拾って炎を大棺へ向けたが、黒い水はもう火を避けなかった。床の溝へ薄く広がり、そのまま動きを止めている。周囲の石棺からも、蓋を擦る音は聞こえない。
大棺の底で砕けた核の一部が転がり、その下から浅い鉄皿が現れた。神の名も像も刻まれていない、黒く錆びた祭壇だった。
核の欠片が鉄皿へ触れると、白い火が一度だけ灯った。熱を持たない炎は砕けた核を包み、内側に残っていた光を細く吸い上げる。やがて火は小さくなり、何も残さず消えた。
戻る者はなかった。
リーヴァはしばらく大棺を見つめていた。鉄灯の炎が揺れても、床の影はもう動かない。
「終わったの?」
「ああ」
「また形を作ることは」
「ない。戻る先が、もう残っていない」
旅人は剣を引き抜いた。刃の外側には焼けた筋が走り、切っ先の一部が欠けている。それでも、鐘舌から打ち直された暗い芯は折れていなかった。
剣とともに、胸へ沈んでいた鉄札が床へ落ちた。中央を刃に貫かれ、浅く歪んでいる。それでも、リーヴァが刻んだ文字は残っていた。
旅人。
リーヴァは札を拾い、黒い水を布で拭った。
「取り返したわ」
「ああ」
差し出された鉄札を、旅人は動く左手で受け取った。それは本当の名ではない。それでも、失われたものではなかった。
旅人は砕けた骨と、動かなくなった黒い水を見た。神だったものの重みは、もう石室のどこにも残っていない。
「今度は、死んだ」
リーヴァは返事をしなかった。
荷袋の中では、救い出した名札も、エイナルの認識札も静かなままだった。文字を黒く侵していた染みは広がらず、棚の奥から名を探る手が伸びてくることもない。
2人はしばらく、その静けさを確かめた。祈りは途絶え、戻る道も失われた。名を奪い続けたものは、ようやく自らの終わりへ辿り着いた。
澱みの聖廟は、そのとき初めて、墓になった。
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