第14話 澱みの聖廟――名喰らい
大棺の蓋が、さらに持ち上がった。
石と石の間から伸びた影の手が、床を探る。指は5本あったが、節の位置は定まらず、黒い水が脈打つたびに長さと太さを変えていた。
封鎖へ戻る道は、まだ開いている。
だが、大棺から溢れた黒い水が床の溝を逆流し、2人と出口の間へ広がり始めていた。
「走る?」
「水へ入るな」
旅人は左手で剣を構えた。
右の包帯には、すでに赤が滲んでいる。柄へ添えれば振れるだろう。だが、傷がさらに開けば、そのあとの一撃がなくなる。
大棺の内側から、上半身が起き上がった。
人の骨格に似ていた。
頭と肩があり、2本の腕がある。けれど、その輪郭を作っているのは肉ではない。黒い水と、削られた名札と、互いに融け合った幾つもの手だった。
顔に目はなかった。
口もない。
胸の中央に、縦長の溝だけが開いている。人の胸へ傷を刻んだというより、名札を納めるための窪みを最初から備えているようだった。
背中には、黒い祈り紐が何本も繋がっている。
紐は天井の石へ食い込み、大祈祷殿の方角へ伸びていた。脈打つたび、大棺のものへ細かな震えが伝わっている。
それは旅人を見なかった。
顔のない頭が、リーヴァへ向く。
正確には、彼女が抱えた荷袋へ。
「札を守れ」
「言われなくても」
リーヴァは荷袋を背へ回し、槍を前へ出した。
影の腕が伸びる。
距離を測る動きではなかった。腕そのものが黒い水へ崩れ、床を滑りながらリーヴァの足元へ迫る。
旅人はその進路へ踏み込んだ。
剣を肩口へ振り下ろす。
厚い刃は輪郭を割った。だが、骨へ届く感触はない。黒い水が左右へ飛び、刃の通った跡へすぐに戻っていく。
斬った場所が閉じた。
影の腕は止まらない。
旅人は剣の腹で押さえようとしたが、黒い水は刃の上下へ分かれ、そのままリーヴァへ伸びた。
槍の穂先が影を貫く。
こちらも手応えはなかった。
リーヴァはすぐに槍を引いた。黒い水が穂先から柄へ這い上がろうとしたため、石棺の縁へ打ちつけて振り落とす。
「斬れないの?」
「形がない」
大棺のものが、上半身をさらに外へ出した。
胸や腹の内側には、複数の肋骨が重なっている。太さも数も揃っていない。人間の骨だけではなく、小さな獣や、指ほどに細い骨まで黒い水の中へ縫い込まれていた。
ひとつの身体ではない。それでも、大棺の底にはすべてを繋ぎ止めるものがあった。黒い石に似た核が、水と骨の奥で鈍く脈打っている。
リーヴァの荷袋から、札同士が触れる乾いた音がした。
大棺のものの頭が、音へ弾かれたように向く。胸の溝が縦に開き、右腕が肘から黒い水へ崩れた。水は石床を低く走り、リーヴァの足ではなく、荷袋へ伸びる。
旅人は進路へ剣を差し込み、刃の腹で黒い流れを床へ押さえた。だが、水は刃を挟んで2つに分かれ、片方が旅人の靴へ絡み、もう片方がリーヴァの背後へ回り込む。
「後ろだ」
リーヴァは身体を捻り、槍の柄で黒い手を打ち払った。濡れた指が潰れ、床へ散る。それでも指先だけは形を戻し、荷袋の脇に結ばれた布包みを掴んだ。
槍を引き戻すより早く、黒い腕が縮んだ。革紐が張り、荷袋ごと彼女の身体が大棺へ引かれた。
彼女は足を踏ん張り、荷袋を胸へ抱え込む。旅人は黒い腕へ剣を押し当て、左肩で鍔を押した。厚い刃が水の中へ沈み、奥に混じっていた細い骨を砕く。
腕が緩んだ。
だが、先に布包みの結び目が裂けた。文字の残る骨札が1枚、石床を跳ねて黒い水の前へ滑り出す。
「取らせるな!」
リーヴァが槍を伸ばす。
穂先が骨札の端へ触れたが、その下から黒い指が現れ、札を持ち上げた。
胸の溝へ押し込む。
骨札が沈んだ瞬間、大棺のものの輪郭が固まった。
黒い水が収縮し、曖昧だった肩と腕へ薄い皮膚が張る。片脚が棺の外へ下り、石床を踏んだ。膝は外側へ歪み、足首は引きずるようにしか動かない。
両手が胸の前へ上がる。
祈る形だった。
顔は最後まで作られなかった。
それでも、そこには肉があり、骨があった。
旅人は踏み込んだ。
剣を脇腹へ打ち込む。
今度は手応えが返った。
厚い刃が皮膚を裂き、重なった肋骨の1本へ食い込む。旅人は右手を使わず、左肩を鍔へ当てて押し込んだ。
骨が割れた。
大棺のものが身を捻る。
祈る形に組まれていた腕がほどけ、旅人の頭へ振り下ろされた。動きは速くない。だが、幾つもの身体を重ねた腕は太く、受ければ剣ごと押し潰される。
旅人は刃を引かず、柄を手放した。
腕が頭上を掠める。
風圧で外套が鳴り、肩が石棺へぶつかった。
リーヴァの槍が胸へ伸びる。
狙ったのは身体ではない。
胸の溝に収まった骨札だった。
穂先を札の縁へ差し込み、外側へ捻る。札は黒い水に貼りつき、すぐには動かなかった。
大棺のものの腕がリーヴァへ向く。
旅人は剣の柄を掴み直し、刃を骨へ残したまま横へ押した。割れた肋骨が開き、身体が一瞬だけ傾く。
「今だ」
リーヴァは槍へ体重をかけた。
骨札が胸の溝から外れる。
黒い水が細い糸のように札を追ったが、リーヴァは鉄灯の上へ掲げた。炎が近づくと、黒い糸は縮み、胸の中へ戻っていく。
札に浮かんでいた文字は、半分ほど黒く滲んでいた。
まだ読める。
リーヴァは布へ包み、荷袋の奥へ押し込んだ。
名を失った身体が崩れた。
皮膚が水へ戻り、割れた骨が床へ落ちる。黒い影は大棺の周囲へ広がり、再び輪郭のないものへ変わった。
「名を入れたときだけ、身体になる」
「ああ」
「なら、全部取り上げれば」
「斬れなくなる」
旅人は剣についた黒い水を、石棺の縁で拭った。
名を与えれば形を得て、形を得たものには鉄が通る。だが、名を奪えば再び黒い水へ戻り、何度でも別の身体を得る。
大棺が器となり、名札が身体を作り、背へ繋がった祈り紐がそれを動かしている。どれかひとつを壊すだけでは足りない。
黒い水が床を走った。
今度は、石室へ沈んでいた名札へ向かっている。
水底に重なっていた札が1枚ずつ持ち上がり、黒い指に拾われていく。名が完全に消えたものは捨てられ、文字の残るものだけが大棺へ運ばれていた。
「読める札を拾え」
「あなたは?」
「水を止める」
リーヴァは鉄灯を腰へ掛け、槍の石突きで札を黒い水から弾き出した。床へ上がったものを足で押さえ、片手で拾って荷袋へ入れていく。
黒い指がその腕へ伸びる。
彼女は槍を短く持ち、柄で手首を叩いた。指は折れても止まらない。だが、鉄灯の光を向けると、黒い水に繋がった手はわずかに退いた。
旅人は大棺の根元を見た。
黒い水は、棺の下にある3本の溝から流れ出している。そのうち中央の溝だけが深く、脈打つたびに新しい水を押し出していた。
すぐ脇には、床から浮き上がった石板がある。
大棺を据えるための台座が、長い年月で割れたものだろう。石板と溝の幅は近い。
旅人は剣を左手で持ち、右手を胸元へ寄せた。
残っている魔力は多くない。
地のルーンを刻めば、次に使えるものはひとつだけになる。
それでも、ここで水を止めなければ、その次はない。
旅人は左の人差し指を上げた。
淡い光が指先へ集まる。
縦に1本。そこから左右へ分かれる線を刻み、下へ沈む形で閉じる。複雑なルーンではない。石を作るのではなく、すでにあるものへ重さと向きを与えるための文字だった。
黒い水が旅人の足元へ迫る。
リーヴァが槍を投げた。
穂先ではなく、柄の中ほどが旅人の前へ落ちる。水の中から伸びた手が槍へ絡みつき、進む向きを変えた。
「長くはもたないわ」
「十分だ」
最後の線を刻む。
床が低く鳴った。
浮いていた石板が持ち上がり、半回転しながら中央の溝へ落ちる。石と石がぶつかり、黒い水が左右へ噴き上がった。
溝は完全には塞がらない。
それでも、流れは細くなった。
大棺の影が揺れた。
影の輪郭が薄くなり、床を這っていた黒い手の幾つかが水へ崩れる。石室の棺を擦っていた音も弱くなった。
リーヴァは黒い手から解けた槍を引き寄せ、濡れた柄を握り直した。
だが、背中の祈り紐はまだ脈打っている。
震えが来るたび、大棺の底にある黒い核が鈍く光った。
「上から来ている」
リーヴァが言った。
「ああ」
「切る?」
「切れば、祈りが散る」
黒い祈り紐は3本あった。
大棺の背から伸び、壁と天井の継ぎ目へ入っている。個別に切れば、震えは別の石棺や名札へ流れるかもしれない。
旅人は祈り紐ではなく、根元を見た。
3本は、大棺の背に打ち込まれた黒い鉄環へ束ねられている。鉄環そのものは厚いが、支えている石は黒い水に侵され、縁が崩れていた。
旅人は剣を構え直した。
右手は使えない。地のルーンを刻んだ左腕にも重さが残っている。
それでも、鉄環の周囲へ刃を入れるだけならできる。
大棺の影が動いた。
黒い水の中から別の名札を拾い、胸の溝へ取り込む。
今度の身体は細かった。
片腕が肘から曲がらず、首は右へ傾いている。身体を得た瞬間、それは片手を床へつき、残る3本の手足で獣のように走り出した。
旅人へは向かわない。
名札を集めるリーヴァへ向かう。
「〈旅人〉!」
呼ばれた瞬間、大棺のものの頭が動いた。
リーヴァへ向いていた顔のない頭が、旅人を見た。
初めてだった。
旅人はその一瞬を逃さなかった。
身体の横へ踏み込み、前脚のように使われている腕へ剣を振り下ろす。刃は骨を断ち切れず、関節だけを石床へ沈めた。
倒れた身体が残る腕で床を掻く。黒い爪が旅人の外套を裂き、脇腹へ浅く食い込んだが、旅人は退かなかった。鍔へ肩を押し当て、潰した関節を床へ縫い止める。
その上から、リーヴァの槍が胸の溝へ入った。
穂先が名札の縁を捉え、外側へ捻る。
大棺のものは旅人を見たままだった。
名札を奪われても、顔のない頭だけが彼を追う。
リーヴァが札を引き抜く。
身体が崩れた。
黒い水が床へ落ち、旅人の靴の周囲へ広がる。旅人は後ろへ下がったが、水は追ってこなかった。
代わりに、黒い影が彼の足元を探るように揺れている。
「今、あなたを見た」
「ああ」
「名前がないのに」
旅人は答えなかった。
リーヴァが呼んだ。ただ、それだけだった。だが、名を喰うものは反応した。
名喰らい。
名は、思い出すものだけではない。誰かが呼び、誰かが振り返り、その呼び方が重なれば、空だった場所にも形が生まれる。
リーヴァは旅人の顔を見たあと、床へ視線を落とした。
「空の札はある?」
旅人は床へ目を向けた。
文字を削られた薄い鉄板が、石棺の下へ半分だけ差し込まれている。名札だった形は残っているが、表面には何もない。
左手で拾い、リーヴァへ渡す。
「何を刻む」
「呼べるものを」
リーヴァは短剣を抜いた。
鉄板を石棺の縁へ置き、切っ先を押し当てる。硬い鉄へ文字を刻むには向かない刃だった。刃先が滑り、浅い傷しか残らない。
名喰らいの影が、再び名札を探して動き始める。
大棺の背では祈り紐が震え続けている。
「時間を作る」
旅人は鉄環へ向かった。
背後で、短剣が鉄を削る音が続く。
1画ずつ。
急げば文字が潰れる。
読めなければ、名にならない。
黒い水から伸びた手が、リーヴァへ集まり始める。彼女は鉄灯を足元へ置き、火を挟んで手を退かせながら文字を刻んでいた。
旅人は鉄環の脇へ剣を差し込んだ。
石は脆くなっている。
左手で柄を押し、右の前腕を鍔へ当てる。包帯の下で傷が開き、熱いものが布へ広がった。
祈り紐が震える。
鉄環が剣を押し返す。
旅人は肩を鍔へ押しつけた。
石にヒビが走る。
大棺の影が立ち上がった。名を得ていないため、身体の形は定まらない。それでも黒い腕を幾つも重ね、リーヴァへ伸ばしていく。
鉄灯の火が揺れた。
黒い手が炎を避け、左右から回り込む。
「まだか」
「名前は短いけど、鉄が硬いのよ」
リーヴァは短剣の柄尻を槍の石突きで叩いた。
刃先が鉄板へ食い込み、最後の線を刻む。
旅人は剣へ体重を乗せた。
石が割れた。
鉄環が大棺の背から外れる。
束ねられていた3本の祈り紐が床へ落ち、黒い水の中で暴れた。だが、行き先を失った震えは石室へ散らず、その場で次第に弱くなる。
大棺の核が暗くなった。
名喰らいの影が崩れかける。
リーヴァは鉄板を拾い上げた。
そこには、浅く歪んだ文字が刻まれている。
旅人。
旅人はその札を見た。
「それは、俺の名ではない」
「呼ぶには足りるでしょう」
最初に街道で会ったときと、同じ言葉だった。
リーヴァは鉄板を掲げた。
「〈旅人〉」
名喰らいが止まる。
黒い水の中に沈んでいた幾つもの手が、同時にその札へ向いた。
読める名札は、リーヴァの荷袋へ収められている。黒い水の流れは石板に塞がれ、祈り紐は大棺から外れていた。
残っている名は、ひとつだけだった。
リーヴァが刻んだ、旅人という名。
名喰らいが大棺から身を乗り出す。
旅人は止めなかった。
影の手が鉄板を掴み、胸の溝へ引き寄せる。
「本当にいいのね」
リーヴァが尋ねた。
「ああ」
「取られたら?」
「取り返す」
鉄板が胸へ沈むと、黒い水が大棺へ引き戻され、床に落ちていた骨が浮き上がってひとつの骨格へ組み直されていく。幾つもの腕は2本へ減り、重なっていた肋骨も、ひとつの胸郭へ収まった。
そこへ皮膚が張り、肩が生まれ、脚が石床へ下りる。顔には、最後まで何も現れなかった。
だが、頭だけは旅人へ向いていた。
胸の中央で、旅人と刻まれた鉄札が黒く光っている。その奥には、大棺の底で脈打っていた核が収まっていた。
もう、水へ崩れることも、祈りへ逃げることも、無数の名へ散ることもない。一つの名と、一つの身体へ縛られている。
名を得たそれが、初めて旅人を見た。
旅人は左手で剣を構え、血の滲む右手を開いて指先を宙へ向けた。
刻むべき文字は、ひとつしか残っていなかった。
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