第13話 澱みの聖廟②
封鎖の向こうで、石が擦れていた。
音は大きくない。けれど、聖廟の奥では小さな音ほど遠くまで届く。石棺の蓋を、内側から爪のない指で撫で続けているような音だった。
リーヴァは荷袋の上から、父の認識札を押さえている。
「開けるの」
旅人は封鎖の文字を見た。
戻る者に、名を与えるな。
「開けなければ、先は分からない」
「名前を呼ぶな、という意味?」
「呼ぶだけなら、まだ戻らない」
旅人は石棺の蓋を繋ぐ鉄の楔へ目を向けた。黒く腐った祈り紐は、蓋の隙間を縫うように巻かれている。切れば震えが走るだろう。ここまで来て、紐を断つことが何を起こすかは分かっていた。
切らずに、緩める。
旅人は剣を抜き、鉄楔と石棺の蓋の隙間へ刃を差し込んだ。厚い刃は石へ弾かれず、楔の根元へゆっくり沈む。
左手で柄を押す。右手は添えない。包帯を巻いた前腕を鍔へ当て、掌を使わずに体重を乗せた。
楔は動かない。
石と鉄が擦れ、低い音だけが返る。
「押さえるわ」
リーヴァは槍の石突きを、蓋と床の間へ差し込んだ。梃子にするのではない。蓋が急に跳ねないよう、槍の柄で重みを受けるためだった。
旅人は息を吐き、剣へさらに体重をかけた。
右前腕に痛みが走る。掌ほど鋭くはないが、包帯の奥で傷が引きつった。無理に握れば早い。だが、ここで手を壊せば、奥で剣を持てない。
鉄楔がわずかに浮いた。
黒い祈り紐が、蓋の上で細く震える。
リーヴァの槍が軋んだ。
「まだ?」
「もう少しだ」
旅人は剣の角度を変えた。楔を抜くのではなく、縛られている蓋の重心をずらす。刃を石の隙間へ深く噛ませ、肩で鍔を押す。
楔が1本、床へ落ちた。
高い音は鳴らなかった。
黒い水が楔の跡から滲み、床の溝へ入っていく。祈り紐は切れていない。ただ、張りを失い、蓋の表面へべたりと垂れた。
2本目は、リーヴァが槍で蓋を支えている間に外した。
3本目は途中で折れた。
折れた鉄片が飛び、旅人の頬を掠める。浅く血が滲んだが、旅人は拭わなかった。
最後に、石棺の蓋を少しだけずらす。
冷たい空気が奥から流れた。
そこに腐臭はない。
ただ、長く水に沈んだ札と、削れた石の匂いがした。
2人は封鎖の隙間を通った。
奥は、棺の部屋だった。
広い円形の石室に、石棺が何十も並んでいる。壁に沿って置かれたものもあれば、床へ半ば沈んでいるものもある。蓋はどれも閉じられていたが、その内側から削られた浅い傷が縁に残っていた。
爪跡ではない。
名札の角で擦ったような傷だった。
床には黒い水が浅く溜まっている。溝を流れるだけではない。石棺の間を結ぶように広がり、鉄灯の光を受けても底を見せなかった。
祈り紐は少ない。
代わりに、黒い水が棺と棺を繋いでいた。
「ここにも名札がある」
リーヴァが鉄灯を下げた。
水の中に、いくつもの札が沈んでいる。木札、骨札、薄い鉄板。どれも文字が薄くなり、名を残しているものはほとんどない。
だが、完全に消えていない札もあった。
リーヴァの荷袋が震えた。
先ほど聖廟の石台から拾った、読める名札が内側で鳴っている。
彼女は荷袋を開き、父の認識札とは別に包んだ布を取り出した。そこに入れていた数枚の名札のうち、1枚だけが小さく揺れている。
その瞬間、近くの石棺の音が止まった。
擦る音が消える。
静けさが、棺の上へ落ちた。
「これに反応している」
「近づけるな」
旅人が言うより早く、床の水面がわずかに盛り上がった。
黒い水の中から、細い手が伸びる。先ほど名札の棚から這い出た乾いた手とは違い、濡れていて、指の間には黒い泥が詰まっていた。
手はリーヴァの足ではなく、布に包まれた名札へ伸びていた。
リーヴァは後ろへ下がる。
だが、足元の黒い水に足を取られた。
布の端から名札が1枚落ちる。
薄い骨札だった。
黒い水へ触れた瞬間、札の表面に残っていた名が、淡く浮かび上がった。
石棺の蓋が動いた。
重い石が内側から押され、指1本分の隙間が開く。そこから黒い水が溢れ、続いて白く乾いた指が蓋の縁を掴んだ。
出てきたものは、人の形をしていた。
顔はない。皮膚は水に浸された紙のように薄く、目鼻のあるべき場所には滑らかな凹みだけがある。胸の中央には、名札を差し込むための溝があった。
それは黒い水に落ちた骨札へ手を伸ばした。
動きは遅い。
だが、迷いがない。
「札を取らせるな」
旅人は石棺と名札の間へ踏み込んだ。
骸は旅人を見なかった。顔がないため、視線もない。それでも、旅人の身体を避けるように手を伸ばし、黒い水の上を滑る札だけを探っている。
旅人は剣の腹でその腕を押し返した。
斬らない。
斬れば、黒い水が飛ぶ。水が別の札へ触れれば、次の棺が反応する。
骸の腕は軽かった。だが、押し返すたびに水の下から別の手が現れ、札をこちらへ引こうとする。
リーヴァが槍の石突きで骨札を引っ掛けた。
しかし黒い水は粘り、札を離さない。石突きが水面を撫でると、棺の部屋の奥でまたひとつ、蓋が擦れる音がした。
「水が札を持っている」
「浮かせろ」
「どうやって」
旅人は腰の革紐を抜いた。右手は使わず、左手と歯で輪を作る。そこへ、床に落ちていた削れた名のない木札を2枚、紐で束ねた。
名はない。
だが、名を刻む器ではある。
旅人はそれを黒い水の反対側へ投げた。
水面が盛り上がる。
骸の手が止まった。
名のない札へ、黒い水の中の手がいくつも向きを変える。胸に溝を持つ骸も、わずかにそちらへ身体を傾けた。
「空でも、まだ欲しがる」
「器だからだ」
旅人は石棺から出てきた骸の胸を、剣の腹で押さえた。リーヴァは槍の石突きを骨札の下へ滑り込ませ、今度は水ごと掬うように持ち上げる。
札が黒い水から離れた。
淡い名の光が消える。
同時に、骸の動きが鈍った。
胸の溝へ向かって伸びていた手が止まり、顔のない頭が少しだけ傾く。何を探していたのか、分からなくなったようだった。
旅人は骸を石棺へ押し戻す。
軽い。
しかし、蓋の下へ戻そうとすると、黒い水が抵抗した。水が足首に絡み、骸の身体を外へ残そうとする。
リーヴァは骨札を布へ包み直し、荷袋へ戻した。
彼女の手が一瞬、別の包みに触れた。
エイナルの認識札が入っている場所だった。
その名を使えば、ここにあるものを引きつけられる。
旅人は何も言わなかった。
リーヴァの指が、そこで止まる。
「これは、違う」
彼女は父の札を出さなかった。
代わりに、床へ散っていた文字のない札を拾う。1枚ではない。2枚、3枚。割れたものも、削られたものも、すべて掌へ集める。
「器だけなら、そちらへ行くのね」
「ああ」
「なら、器を増やす」
リーヴァは拾った札を槍の柄へ括りつけた。革紐できつく縛り、名のない札の束を穂先の少し下へ吊るす。
それを黒い水の上へ差し出した。
棺の部屋が反応した。
石棺の蓋を擦る音が、いくつも重なる。だが、棺はすぐには開かない。名がないため、戻る先を決められないのだろう。音だけが増え、黒い水面が細かく波立った。
旅人はその隙に、石棺から半ば出た骸を押し戻した。
右手は使わない。
左肩を剣の鍔に当て、刃の腹で胸を押す。骸は抗ったが、名札を失った動きは曖昧だった。胸の溝へ差し込む名を探せず、腕は空を掻くばかりだった。
リーヴァが石棺の蓋へ槍の石突きをかける。
「閉じるわ」
「同時に押せ」
2人は石蓋へ力をかけた。
重い。
蓋は水を噛み、石の縁に引っかかる。旅人が右手を添えかけ、すぐに止めた。代わりに左肩を押し当て、背中と脚の力で蓋を動かす。
リーヴァも槍を梃子にし、石突きが削れるほど押し込んだ。
骸の指が隙間から出る。
リーヴァは短剣を抜かない。刃を使えば指は切れる。だが、切れたものが水へ落ちれば、また別の反応を呼ぶ。
彼女は槍の柄で指を押し込み、石蓋を閉じた。
鈍い音が、棺の部屋へ沈んだ。
骸は戻った。
だが、静けさは戻らなかった。
リーヴァの槍に吊るされた名のない札の束へ、黒い水が寄っている。床の溝を逆流するように細い流れが集まり、棺の部屋の奥へ道を作っていた。
奥に、他のものより大きな石棺があった。
周囲の黒い水は、そこから流れ出しているように見えた。
近づくまで、それが石棺だと分からなかった。床と一体になり、壁の一部のように沈んでいたからだ。蓋には名前が刻まれていない。
いや、刻まれていた。
無数の名が。
そのすべてが削られ、重ねて削られ、もとの文字が分からないほど深い傷になっている。ひとつの名ではない。多くの名が刻まれ、失われ、混ざり合っていた。
リーヴァは鉄灯を掲げた。
大棺の蓋の下に、短い文が残っている。
他の名が削られ、重なり、読めなくなっている中で、その一文だけは深く刻み直されていた。
名なきものを、帰すな。
旅人はその文字を見た。
胸の奥で、何かがわずかに冷える。
名がないことは、ここでは身を軽くする。名を探す手は旅人へ鈍く、棺から出た骸も彼を見なかった。
だが、その軽さは救いではない。
名がなければ、呼び戻されない。
名がなければ、弔われない。
リーヴァが小さく言った。
「あなたには、あまり来ないのね」
「呼ぶ名がない」
返事は短かった。
リーヴァは旅人を見たが、慰める言葉を探さなかった。彼女は代わりに、父の認識札を収めた荷袋を押さえ直した。
その動きに、大棺が反応した。
蓋の内側から、1度だけ音がした。
打音ではない。
父親の合図でもない。
石の内側を、手のひらで確かめるような重い音だった。
リーヴァの槍に吊るされた名のない札が、一斉に震える。
黒い水が大棺の下から滲み出した。先ほどまで床の溝に沿って流れていた水が、今度は逆に、部屋中の棺へ伸びていく。
石棺の蓋が、いくつも擦れ始めた。
旅人は剣を構えた。
右手はまだ使えない。左手で柄を持ち、右の前腕を鍔へ添えるだけに留める。
「下がるわよね」
リーヴァが言った。
「ああ」
「あなたがそう言うなら、かなり悪い状況ね」
「まだ最悪ではない」
「嫌な慰めだわ」
2人は後ろへ退いた。
だが、大棺から伸びた黒い水は、リーヴァの槍に吊るされた名のない札を追っていた。空の器を求めている。名がなくとも、そこに名を入れる余地がある限り、棺の奥のものは動こうとしていた。
リーヴァは札の束を見る。
「捨てる?」
「捨てれば、拾われる」
「燃やす?」
旅人は鉄灯を見た。
火は小さい。だが、札は古く乾いている。燃やせば光が出る。光が出れば、ここにあるものが反応するかもしれない。
それでも、持ったまま逃げれば追われる。
「水へ落とすな」
「分かってる」
リーヴァは槍を横へ構え、札の束を黒い水から遠ざけた。
旅人は近くの石棺へ目を向ける。蓋の縁には削れた溝があった。そこへ剣の刃を差し込み、少しだけ蓋をずらす。
「開けるの?」
「塞ぐ」
旅人は蓋を完全には開けなかった。石棺の縁に、名のない札の束が引っかかるだけの隙間を作る。
リーヴァが理解し、槍の先をその隙間へ向けた。
札の束を外す。
石棺の縁へ落とす。
すぐに旅人が蓋を押した。
重い石が閉じ、名のない札の束を挟み込む。完全には潰さない。外から見えず、水にも触れず、だが器だけは石の中に残る。
黒い水が石棺の周囲へ集まった。
蓋の内側で、札が震えている。
大棺から伸びていた水の流れが、そちらへ向きを変えた。
「長くは保たない」
「長く要らない」
旅人は剣を引き抜き、リーヴァへ顎で封鎖の方を示した。
2人は来た道へ戻る。
棺の部屋では、石蓋があちこちで擦れている。だが、黒い水の多くは、名のない札を挟んだ石棺へ集まっていた。空の器を開けようとしているのだろう。
封鎖の隙間へ戻る直前、大棺がもう1度鳴った。
今度は、蓋がわずかに持ち上がった。
隙間から、黒い水ではないものが覗いた。
手だった。
骨でも、乾いた皮でもない。
形を持つ前の影が、人の手の輪郭を真似ているようだった。その手は床を探り、名札を探し、リーヴァの荷袋の方へゆっくり向いた。
旅人は足を止めた。
リーヴァも止まった。
影の手は、父の認識札を探しているのではない。
名というものそのものを探していた。
旅人は剣を構え直す。
右の包帯に、また赤が滲んだ。
大棺の蓋が、内側からさらに押し上げられる。
まだ開ききってはいない。
だが、そこに閉じ込められているものは、目を覚ました。
名前を持たないものが、名を求めていた。
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