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第12話 澱みの聖廟

 階段は、大祈祷殿の下へ続いていた。


 上から差し込む鉄灯の光は、数段も降りると弱くなる。壁には黒い祈り紐が根のように食い込み、石の継ぎ目を割りながら、さらに深い場所へ伸びていた。


 灰の匂いはしない。


 代わりに、湿った土と、長く閉ざされた石の匂いがあった。墓を開いたときの空気に近い。けれど、そこに眠っているはずの静けさはなかった。

 どこかで、石棺の蓋を引きずるような音がする。


 リーヴァは鉄灯を低く掲げた。


 階段の途中に、薄い札が落ちている。木でも骨でもない。古い革を何枚も重ね、硬く固めたものだった。表面には削られた文字の跡だけが残っている。


「祈り札じゃないわ」

「名札だ」


 旅人は足を止めずに答えた。


 壁にも同じものが差し込まれていた。石の小さな窪みに、木札や骨札、錆びた薄い鉄板が並んでいる。だが、そのほとんどは文字を削られ、誰の名を刻んでいたのか分からなくなっていた。


「どうして、こんなところに」

「祈りより先に、名前を置かされた」


 リーヴァは荷袋の口へ手を触れた。


 その中には、エイナルの認識札が入っている。父の名を刻んだ、彼女が手放さなかった札だった。


 2人は階段を降りた。


 下りきった先に、広い石室があった。


 聖廟と呼ぶには、あまりにも祈りの気配がなかった。


 天井は低く、柱は太い。壁一面には棚が造りつけられ、そこへ無数の名札が納められている。木札。骨札。薄い鉄板。布へ刺繍された名の切れ端。子どもの手形を押した小さな陶片。巡礼者の記章。誰かが誰かを忘れないために持たせたものばかりだった。


 だが、名は残っていない。


 削られ、抉られ、黒い染みで塗り潰されている。読めるものはほとんどなかった。


 墓なのに、誰の墓か分からない。


 リーヴァは棚の前で立ち止まった。


「名前だけは、持って帰った」


 荷袋を押さえる指に、力が入る。


「ああ」

「ここへ置かれたら、それも残らないのね」


 旅人は削られた札を見た。


「だから、ここは墓になれない」


 リーヴァは返事をしなかった。


 鉄灯の火が揺れる。


 上の大祈祷殿で響いていた、声ではない祈りはここまで届いていない。黒い祈り紐も壁に食い込んでいるが、ところどころで乾き、細く裂けていた。


 代わりに、床の溝を黒い水が流れている。


 水と呼ぶには重く、泥と呼ぶには澄んでいた。鉄灯の光を受けると、表面に人の顔めいた影が浮かぶ。目も鼻も輪郭もすぐに崩れ、次の瞬間には別の影へ変わった。


 リーヴァは鉄灯を少し引いた。


「見られているみたいね」

「見ているものが残っていればな」


 旅人は剣を背から外した。


 右手の包帯には、まだ乾ききらない赤が残っている。柄を強く握れば傷が開く。だから左手で鞘を押さえ、必要ならすぐ抜ける位置にずらした。


 石室の奥へ進む。


 棚の隙間から、乾いた音がした。


 骨が石を擦るような音だった。


 リーヴァが槍を構える。


 棚の下から、細い手が出てきた。


 手首から先だけだった。皮膚は乾き、爪は剥がれ、指には黒い水の染みが残っている。手は床を探るように這い、近くに落ちていた削れた名札を掴んだ。


 名札を棚の奥へ引き込む。


 続いて、別の棚からも手が出た。


 1本ではない。


 石棺の下、名札の棚の隙間、床の溝の奥から、乾いた手がいくつも伸びてくる。それらは2人の足ではなく、荷袋と札を探していた。


 リーヴァの荷袋が小さく鳴った。


 内側の認識札が、乾いた音を立てた。


 手が一斉に向きを変えた。


「父さんの札を」


 リーヴァは荷袋を胸元へ寄せた。


 床を這う手が近づく。


 旅人は剣を抜いた。狭い石室では大きく振れない。厚い刃を短く構え、最も近い手首へ押し当てる。


 斬るというより、断つ。


 刃に体重を乗せると、乾いた骨が砕け、手は床へ落ちた。


 だが、落ちた手はまだ指を動かしていた。


 別の棚から、さらに2本の手が伸びる。


「切っても止まらない」


 リーヴァが言った。


「ああ」


 手は彼女の荷袋へ向かっている。中身を知っているわけではない。ただ、名が刻まれたものに引かれていた。


 旅人には、手の反応が鈍かった。

 荷袋の認識札に比べれば、まるで興味を失ったように。


 棚から伸びた手の1本が、リーヴァの外套の裾を掴んだ。肉を引く力は弱い。だが、荷袋へ伸びる指だけは執拗だった。


 リーヴァは槍の石突きで手首を打ち、指を弾いた。


 その隙に、旅人は床へ落ちている名札を見た。


 文字を削られた札が何枚も散らばっている。名前はない。だが、名前を刻むための形だけは残っていた。


 旅人は左手でそれを3枚拾った。


 右手を使わない。包帯の巻かれた腕で剣を押さえながら、名のない札を石室の反対側へ投げる。


 乾いた音が響いた。


 手が止まる。


 次の瞬間、棚の隙間から伸びた手の多くが、名のない札へ向きを変えた。名前は残っていない。それでも、札という器に反応している。


「名前がなくても欲しがるの」

「空でも、器だからだ」


 2人はその隙に進んだ。


 手はすぐに戻ってくる。床を掻き、棚の縁を叩き、黒い水の溝を越えて伸びてくる。だが、名のない札をもう数枚拾って投げるたび、動きは乱れた。


 リーヴァは荷袋を抱え直す。


 父の認識札を囮にはしなかった。


 旅人も、それを求めなかった。


 石室の奥には、ほかの棚と少し違う一角があった。


 名札が乱れていない。


 読めるものと読めないものが分けられ、まだ文字の残った札だけが倒れた石台の上へ並べられている。骨札は骨札で、木札は木札で、鉄板は鉄板で集められていた。


 整えられた形には、見覚えがあった。


 朽ちた関所の東側で見た、残骸の山と同じだった。


 リーヴァは石台へ近づいた。


 石台の脇に、短い縦傷が3本刻まれている。それを斜めの線が横切り、下には小さな傷が足されていた。


 エイナルの印だった。


 リーヴァは息を止めた。


 鉄灯の光が、並べられた名札を照らす。


 読める名は少ない。それでも、いくつかの札には、かすかに文字が残っていた。誰かが黒い染みを削り、文字の上にこびりついた汚れを落とそうとした跡もある。


「あの人、ここでも拾っていたのね」

「鉄ではない」

「名前を、ね」


 リーヴァの声は静かだった。


 泣く声ではない。


 旅人には、エイナルがまだエイナルであった頃の意志を、リーヴァが見つけたように聞こえた。


 石台に並んだ札には、消えかけた名が残っている。


 エイナルは、ここで名前を救おうとしたのだろう。持ち帰れるものを探し、まだ読める名を分け、消えかけた文字を少しでも残そうとした。


 だが、最後に彼の身体へ残った習慣は、拾うことだけだった。


 何を拾っていたのかさえ、削られてしまった。


 リーヴァは父の印へ触れた。


 指先は震えていない。


「ここまで来たのに」


 旅人は答えなかった。


 言葉を足せば、そこにあったものを軽くするだけだった。


 棚の奥で、また乾いた音がした。


 名を探す手が、石台の札へ伸びようとしている。


 リーヴァは槍を構えた。


「これは渡さないわ」


 旅人は足元に落ちていた名のない札を拾い、手が伸びる反対側へ投げた。手の一部がそちらへ流れる。


 その隙に、リーヴァは石台の上から、文字の残る札を数枚だけ拾った。


「全部は持てない」

「ああ」

「なら、読めるものだけ」


 彼女はそれを荷袋へ入れた。


 エイナルの認識札と同じ場所ではなく、別の布に包んでから奥へ収める。父の名と、誰かの名を混ぜなかった。


 2人はさらに奥へ進んだ。


 聖廟は細い通路へ変わる。


 左右の壁には、石棺の蓋が立てかけられていた。蓋には名が刻まれているはずだったが、どれも削られている。削られた跡は古いものだけではない。まだ白い石粉が残っている蓋もあった。


 黒い水は通路の中央を流れている。


 そこへ足を入れないよう、2人は壁際を進んだ。


 リーヴァの鉄灯が、黒い水面を照らす。


 水の中で、名札が沈んでいた。


 何枚も。


 水底へ重なり、ゆっくりと揺れている。文字は水に溶けるように薄れ、読めるものはなかった。


「ここに落ちたら」

「戻ってきても、同じではない」

「でしょうね」


 通路の終わりに、大きな封鎖があった。


 扉ではない。


 巨大な石棺の蓋を何枚も立てかけ、鉄の楔と黒く腐った祈り紐で縛りつけている。人の手で閉じたものだ。開けるためではなく、内側から出てくるものを抑えるための形だった。


 蓋の表面には、文字が刻まれている。


 多くは削られ、黒い水の染みで読めなくなっていた。けれど、いくつかの断片だけは残っている。


 名を置け。


 祈りを置け。


 死を置け。


 戻るな。


 リーヴァは顔をしかめた。


「命令ばかりね」

「従わせるために刻んだ」


 旅人は封鎖の前へ膝をつかなかった。


 左手で剣の柄に触れ、石棺の蓋の隙間を見る。黒い水が、その奥から滲んでいた。


 水は床へ落ちている。


 だが、水音はしない。


 黒い一滴が石へ触れるたび、通路の壁に収められた名札が小さく震えた。


 その震えは、上の大祈祷殿の祈りとは違っていた。


 祈らせる音ではない。


 名前を削る音だった。


 リーヴァは荷袋の上から、父の認識札を握った。


「この奥に、いるのね」


 旅人は答えなかった。


 封鎖の下に、別の文字が残っていた。細く、深く刻まれている。誰かが最後に残した警告のようだった。


 戻る者に、名を与えるな。


 リーヴァの指に、力が入る。


 旅人はその文字を見下ろした。不葬者は死んでも戻る。戻るたびに何かを落とし、名を失い、記憶を失い、それでも身体だけが帰ってくるなら、その者は何になるのか。


 答えは、すでに見ていた。


 朽ちた関所の石柱の根元に。


 旅人は自分の名を思い出そうとはしなかった。そこには何もない。ないものを探せば、足を取られる。


 黒い水が、また一滴落ちた。


 水音はしない。


 代わりに、聖廟の名札が一斉に震えた。棚の奥で、乾いた手が動き出す。


 封鎖の向こうでも、何かが石棺の蓋を内側から擦っていた。

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