第11話 崩れた大祈祷殿
大祈祷殿の入口は、開いていた。
外れた扉の片方は石段の下へ倒れ、もう片方は蝶番だけで斜めに吊られている。閉ざす役目を失った扉の隙間から、黒い祈り紐が何本も奥へ伸びていた。
敷居の石には、深い擦り跡が残っている。
足で踏まれた跡ではない。
膝で越えた跡だった。
入口の左右には、巡礼者だったものが膝をついたまま並んでいる。顔は薄い布で覆われ、組まれた手には黒い祈り紐が絡んでいた。彼らは動かない。ただ、布の下の顔だけが、入口の奥へ向いているように見えた。
「歓迎されているみたいね」
リーヴァが低く言った。
「招いているだけだ」
旅人は大祈祷殿の内部を見た。
鉄灯の光は、入口から数歩先で弱く沈む。その向こうにあるのは、礼拝のための広間だった。
2人は敷居を越えた。
中の空気は、外よりも冷たかった。
長い身廊が奥へ伸びている。左右には柱が並び、天井の一部は崩れ落ちていた。落ちた石材と折れた梁が床を塞ぎ、その間を縫うように黒い祈り紐が這っている。
神像はなかった。
祭壇らしき石台も、中央から割れて沈んでいる。祈る先は失われ、祈る姿勢だけが残されていた。
壁には文字が刻まれている。
だが、それは立った者の目の高さにはない。床に膝をついた者だけが読めるよう、低い位置へ刻まれていた。
リーヴァは鉄灯を近づけた。
石壁には、削り取られた祈祷文の断片が残っていた。
捧げた祈りは、ここに置け。
その下の文は、爪か刃物で消されている。
さらに先の柱には、別の文字があった。
帰る者は、声を捨てよ。
リーヴァは息を呑んだ。
「祈って帰ったんじゃない」
旅人は黒い祈り紐の行き先を目で追った。
紐は柱から柱へ渡り、膝台の列を抜け、割れた床の隙間へ吸い込まれている。
「祈りを持ったまま帰った」
「だから、戻ってくる……」
リーヴァの声は、広間の冷たい空気へ溶けた。
旅人は剣の柄へ左手を置いた。右手の包帯は厚く巻かれたままだ。掌には鈍い熱が残り、指を深く曲げれば傷の奥が引きつる。
「捨てられなかったものが、戻らせている」
リーヴァは壁の文字から目を離した。
「嫌な祈りね」
「ああ」
2人は広間を進んだ。
床は平らではなかった。
石畳の間に、浅い窪みが連なっている。ちょうど人の膝が落ちる位置に彫られており、その前には手を置くための細い溝があった。歩く者の足を取るほど深くはない。だが、気を抜けば自然に身体が前へ傾く。
リーヴァの足が滑った。
片膝が窪みへ落ちかける。
旅人は左手で彼女の外套を掴み、後ろへ引いた。右手は動かさない。外套の布が軋み、リーヴァの膝が石に触れる寸前で止まった。
床の溝から、黒い祈り紐が細く伸びる。
膝を探すように。
「膝をつくな」
旅人が言う。
「祈るなってこと?」
「ここでは、同じだ」
リーヴァは唇を引き結び、足元を確かめて立ち上がった。
黒い祈り紐は行き場を失い、石の隙間へ戻っていく。まるで、祈る者が現れなかったことを惜しんでいるようだった。
広間の奥から、低い震えが届いた。
声ではない。
だが、声に似ていた。
複数の息が重なり、言葉になろうとして崩れている。老いた男の喉にも、若い女の囁きにも、幼い子どもの泣き声にも聞こえた。
その中に、一瞬だけ、リーヴァの肩を動かす響きが混じった。
「今の声」
「追うな」
旅人は短く言った。
リーヴァは奥を見たまま、槍を握り直す。
「分かってる」
声は、さらに奥から来ていた。
崩れた柱の間を抜けると、礼拝席だった場所へ出る。そこには、膝をついた巡礼者だったものが集められていた。
彼らは壁や床へ黒い祈り紐で縫い止められている。背は折れ曲がり、額は石へ触れる寸前で止まり、胸の前で組まれた手には紐が深く食い込んでいた。
口元は、何重にも縫われている。
声は、その口から出ていなかった。
口を塞いだ黒い祈り紐が震えている。紐が柱へ伝わり、壁へ伝わり、広間全体を薄く鳴らしていた。
リーヴァは片手で耳を押さえた。
「声じゃない」
「ああ」
旅人は耳を塞がなかった。
左手は剣に必要だった。右手を上げれば、傷が引きつる。だから、歯を食いしばって進む。
頭の奥に、祭壇の火の前で聞いた女の声がかすめた。
まだ歩けるかと問いかけた、あの声に似ている。
だが、違う。
これは問う声ではない。
膝をつけと命じる震えだった。
旅人の足が、床の窪みに引かれた。
膝が落ちる。
寸前で、厚い剣の切っ先を床へ突き立てた。刃が石の隙間へ食い込み、身体の傾きが止まる。
黒い祈り紐が床から伸び、剣の刃へ絡もうとした。
旅人は左手で柄を捻り、刃の腹で紐を押し退ける。切らない。切れば震えが奥へ伝わることは、すでに分かっていた。
「切らないの?」
「切れば起きる」
「なら、どう止めるの」
旅人は柱を見た。
縫い止められた巡礼者たちから伸びる祈り紐は、広間の中央柱へ集まっている。そこには古い鉄環が打ち込まれ、何十本もの紐が束ねられていた。
鉄環そのものは太い。
だが、それを支えている石は古く、祈り紐の黒い液で少しずつ削られている。
「あれを外す」
リーヴァは鉄環を見た。
「切るんじゃなくて?」
「留めている石を割る」
声の震えが強まった。
床へ縫い止められた巡礼者だったものたちの背が、わずかに上下する。死んだ肺が、祈りの形だけを繰り返しているようだった。
リーヴァは槍を短く持ち直し、鉄環へ伸びる紐の束へ近づいた。
紐が反応する。
黒い束が彼女の手首と膝を探るように揺れた。リーヴァは石突きで紐を持ち上げ、張りをずらす。
「長くは無理よ」
「少しでいい」
旅人は剣を両手で構えようとして、右手を伸ばしかけたところで止めた。
握れば早い。
だが、ここで傷を完全に開けば、この先で剣を持てなくなる。
旅人は左手で柄を握り、右の前腕を鍔へ添えた。掌ではなく、包帯の巻かれた前腕で押す。
刃を柱の石へ差し込む。
切っ先は鋭くない。だが、厚い刃は石の継ぎ目へ沈み、楔のように隙間を広げた。
鉄環が軋む。
祈り紐が一斉に張った。
リーヴァの槍が跳ね上げられ、彼女の膝が床の窪みへ落ちかける。旅人は刃を押したまま肩を動かし、外套の端を左肘で引っかけて彼女の体勢を戻した。
「礼はあとで言うわ」
「要らない」
旅人は胸と肩の重みを剣へ乗せた。
石が割れない。
柱の奥から、湿った音が返る。黒い祈り紐は鉄環だけでなく、石の内側にも根のように入り込んでいた。
旅人は息を吐き、さらに体重をかけた。
右の前腕に痛みが走る。包帯の下で傷が脈打ったが、掌ほどではない。
刃が沈む。
石の表面に細いヒビが走った。
リーヴァは槍の柄を紐の束へ差し込み、全身で横へ押した。祈り紐の張りがわずかに斜めへずれる。
その瞬間、旅人は剣を押し込んだ。
石が割れた。
鉄環を支えていた部分が崩れ、黒い祈り紐の束が柱から剥がれる。張りを失った紐は床へ落ちた。
束ねられていた震えの支点が、消える。
声が崩れる。
巡礼者だったものたちの背が、糸を切られたように沈んだ。祈りは止まらない。だが、命令の形を失い、ただの低い震えへ変わっていく。
リーヴァは膝をつかずに耐えた。
旅人は剣を引き抜き、刃についた石粉を軽く払った。刃に欠けはない。だが、右手の包帯には新しい赤が滲んでいる。
「手」
リーヴァが言った。
「まだ動く」
「そればかりね」
「動かなくなれば言う」
リーヴァは短く息を吐いた。
そのとき、広間の中央で石が動いた。
割れた祭壇の前、膝台の列が集まる場所だ。石床が低く沈み、古い蓋がずれるように斜めへ開いていく。
黒い祈り紐が、その隙間へ吸い込まれていた。
穴は、人ひとりが降りられるほどの幅しかない。縁にはすり減った階段が見えた。灰はない。代わりに、湿った土の匂いが上がってくる。
リーヴァが鉄灯を掲げる。
穴の縁に、傷があった。
短い縦傷が3本。それを横切る斜めの線。
そして、印の下へ小さな傷が加えられている。
下へ進んだ印だった。
リーヴァはしばらく、その傷を見つめていた。
手袋を外し、指先で縁をなぞる。
「ここまで来ていた」
「ああ」
「なら、ここから先も見るわ」
リーヴァの声は震えていなかった。
旅人には、それが父を追うだけの声には聞こえなかった。父が通った場所で、何が起きたのかを確かめようとする声だった。
旅人は階段の下を見た。
冷たい空気が上がってくる。
灰の匂いではない。湿った土と、長く閉ざされた石棺の匂いだった。階段の壁には、黒い祈り紐が根のように食い込み、奥へ奥へと続いている。
床には、薄い札が落ちていた。
祈り札ではない。
名を刻むための札だった。
文字は削れ、誰の名も読めなかった。
「祈りの先が、墓か」
リーヴァが呟いた。
「祈りを置けなかった者の行き先だ」
旅人は剣を背へ戻した。
右手の痛みは強くなっている。脇腹の重さも消えていない。魔力は温存したままだが、この先で何に使うべきかはまだ分からない。
リーヴァは父の印から手を離し、鉄灯を階段へ向けた。
「行くわ」
旅人は頷き、先に1段目へ足を下ろした。
黒い祈り紐が、階段の奥でゆっくりと脈打っている。
崩れた大祈祷殿の下には、まだ祈りが届かない場所があった。
そこに、死ねなかったものたちの墓がある。
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