第10話 絶えた巡礼路
絶えた巡礼路は、音もなく続いていた。
エイナルの亡骸を背にしても、道は何も変わらない。黒い祈り紐は折れた祈祷柱から祈祷柱へ渡され、石畳の上を這い、さらに東の闇へ伸びている。
リーヴァはしばらく振り返らなかった。
肩紐を結び直した荷袋が、歩くたびに小さく揺れる。その内側には、骨の認識札と、父親の印が刻まれた薄い木片が収まっていた。
「歩けるか」
「歩くわ」
返事は短かった。
旅人はそれ以上、何も言わなかった。
慰めの言葉は、この道では軽すぎる。軽いものは、風もないのにどこかへ持っていかれる。残るのは、鉄と石と、名を失ったものだけだった。
関所の東側を抜けると、道は急に広がった。
天井は高く、リーヴァの鉄灯では届かない。灯りは足元の石畳を照らすばかりで、上には黒い空洞が沈んでいた。地上ではないのに、空のない夜道を歩いているようだった。
両脇には祈祷柱が並んでいる。
多くは折れ、いくつかは根元から傾き、倒れた柱の下には古い祈り札が砕けていた。だが、札に刻まれていたはずの文字は残っていない。削られ、裂かれ、爪で掻き消された跡だけが白く浮いている。
石畳には足跡よりも、膝の跡が多かった。
長い年月をかけて擦り込まれた窪みが、道の中央に並んでいる。巡礼者が歩いた跡ではない。跪き、祈り、また進み、また跪いた跡だった。
リーヴァの視線が、道端の石柱へ向いた。何かを探す目だったが、そこには父親の印はない。
彼女は一度だけ目を伏せ、それ以上、石柱を探らなかった。
父親を追う道は、終わっている。
それでも道は、まだ終わっていなかった。
旅人は右手を軽く開いた。掌から手首にかけて、包帯の下で熱がこもっている。剣を握れないわけではない。だが、握り続ければ、また傷が開く。
左手で柄の位置を確かめ、旅人は祈祷柱へ近づいた。
柱には、削り残された文字がわずかに残っている。
帰。
赦。
声。
戻。
どれも一文字だけだった。前後に続いていたはずの祈りの文は、何者かが執拗に削り取っている。
「……祈りを、持ち帰る?」
リーヴァが呟いた。
旅人は答えなかった。
祈りは、残る。だが、残ったものが救いであるとは限らない。
黒い祈り紐が、柱の傷口から垂れていた。
リーヴァは槍の石突きで紐を持ち上げようとしたが、旅人が止めた。
「触るな」
「動いていないわ」
「動くものだけが危ないとは限らない」
リーヴァは槍を下ろした。
2人は石畳の中央を避け、少し端を歩いた。だが、巡礼路の端にも膝の跡は続いている。逃げ道として作られた場所ではない。道のどこを歩いても、そこは祈るための場所だった。
やがて、両脇の闇に人影が見え始めた。最初は折れた柱の影かと思った。
違った。
人だった。
乾いた巡礼者の身体が、道の両側に膝をついて並んでいる。外套は灰を吸って重く垂れ、顔は薄い布で覆われていた。胸の前で組まれた手には、黒い祈り紐が絡んでいる。
誰も動かない。呼吸もない。ただ、祈っている形だけが残っていた。
「死んでいるの?」
リーヴァが低く尋ねた。
旅人は、顔布の奥を見た。
布は古く、乾いている。その下に顔があるのか、骨があるのか、影だけなのかは分からない。
「祈っている」
「答えになってない」
「この道では、十分だ」
リーヴァは唇を結んだ。
彼女は近くの顔布へ目を向けた。布の端に、小さな刺繍が残っている。安物の祈り布ではない。誰かが手をかけ、名前の代わりに縫い込んだ印だった。
リーヴァの指が、わずかに動く。
父の認識札を探すように。
だが、彼女は触れなかった。
そのまま槍を握り直し、前へ進んだ。
巡礼者だったものは、2人を見送らなかった。顔布は東を向き、組まれた手は胸の前で固まり、膝は石畳へ沈んでいる。
音が来たのは、その時だった。
鐘ではない。
声でもない。
石畳の下から、低い震えが這い上がってきた。
旅人は足を止めた。
リーヴァも続いて止まる。
祈祷柱に渡された黒い祈り紐が、同時に張った。緩んでいた紐が弦のように細く震え、柱の削られた文字へ黒い液を滲ませていく。
膝をついた巡礼者たちの顔が、ゆっくりと上がった。
全員が東ではなく、西を見た。
関所の方を。
「戻るの……?」
リーヴァの声が掠れた。
巡礼者だったものが動き出した。
膝は石畳へ癒着している。立ち上がることはできない。それでも、両手を地面へつき、身体を引きずるようにして西へ進み始めた。
ひとつ。
またひとつ。
道の両側で、祈りの形をした死体が、同じ方向へ這い出していく。
旅人は剣の柄へ左手を掛けた。
リーヴァは鉄灯を腰紐へ掛け、槍を構える。
「こっちへ来る」
「西へ戻っているだけだ」
「私たちが邪魔なら?」
「押しのける」
最初の1体が、リーヴァの外套を掴んだ。
力は弱い。
だが、離れない。
乾いた指が布を握り、黒い祈り紐がその手首からリーヴァの腕へ絡みつこうとする。リーヴァは槍の柄で指を打ち、外套を引き剥がした。
別の手が、旅人の足首を掴む。
旅人は足を引かず、厚い剣の刃を地面へ滑らせた。左手で柄を押し込み、手首に絡む黒い祈り紐を断つ。
巡礼者だったものは崩れた。
だが、崩れた身体の奥から、別の紐が震えを返した。
道のさらに奥で、また顔布が上がる。
「斬ると起きる」
リーヴァが言った。
「ああ」
旅人は右手を使わず、剣を左手だけで引き戻した。重い。戦うには足りるが、数を相手にするには遅すぎる。
巡礼者だったものが、次々と西へ這い出す。
彼らは2人を殺そうとはしていない。だが、進む先に立つものを掴み、押し、同じ流れへ巻き込もうとする。外套の裾。荷袋の紐。槍の柄。足首。手首。掴めるものなら何でも掴み、西へ引く。
リーヴァの荷袋が鳴った。
内側の認識札が、乾いた音を立てる。
彼女の顔が一瞬だけ歪んだ。
旅人は踏み込んできた巡礼者の腕を剣の腹で弾き、顔布を斬らずに肩だけを押し返した。
「倒すな」
「では、どうするの」
「道を歩くな」
「巡礼路なのに?」
「だからだ」
旅人は石畳の端を見た。
崩れた祈祷柱の根元に、細い段差がある。かつて雨水か、地下水を流すために作られた溝だろう。人が立って歩くには狭いが、身を落とせば進める幅はある。
巡礼者だったものは、石畳の上を西へ戻っている。
祈祷柱の列と道の中央。その間だけを、古い祈りに沿って進んでいた。
「下だ」
旅人は崩れた縁石を剣で叩いた。
リーヴァが頷く。
2人は石畳から外れた。
旅人が先に側溝へ降りる。右手を使わず、左手と膝で身体を支えたため、肩が石へぶつかった。脇腹の打撲が鈍く痛む。
リーヴァが槍を先に渡し、続いて降りた。
頭上を、巡礼者だったものが這っていく。
乾いた腕が石畳を掻き、黒い祈り紐が柱から柱へ震えを伝える。顔布に覆われた頭が、2人のすぐ上を西へ通り過ぎた。
誰も、側溝を覗かない。
道から外れたものは、巡礼者ではない。
そう決められているかのようだった。
リーヴァは側溝の壁に背をつけ、しばらく息を殺した。
上を通る1体の外套に、古い縫い跡があった。色も形も違う。それでも一瞬、エイナルの背中に似て見えた。
リーヴァの視線が追う。
だが、彼女は声をかけなかった。
「今のも、誰かの父親だったのかしら」
「ああ」
「嫌な答えね」
「だが、嘘ではない」
リーヴァは小さく息を吐いた。
「そうね」
それきり、2人は巡礼者だったものの列が過ぎるのを待った。
西へ戻る流れは、長く続かなかった。
震えが遠のくと、黒い祈り紐の張りも緩む。頭上を這っていたものたちは、また道の両脇へ戻るわけではなかった。石畳の上で力尽きたように止まり、顔布を西へ向けたまま動かなくなる。
関所へ向かって。
閉ざされた門へ向かって。
旅人はそれを見て、関所の鉄格子を思い出した。
あの門は、外から入る者を止めるためだけにあったのではない。
戻ってくる者を、通さないためにあった。
側溝を進むと、道の音が変わった。
石畳を直に踏んでいないため、足音は小さい。代わりに、壁の内側から細い水音が聞こえる。水は見えない。だが、どこかで黒い液が流れているような、粘ついた気配があった。
リーヴァの鉄灯が、側溝の壁に刻まれた文字を照らした。
祈りを持ち帰るな。
その文だけは、削られずに残っていた。
リーヴァは足を止めた。
「警告ね」
「ああ」
「遅すぎる警告だわ」
旅人は文字の下を見た。
爪跡が重なっている。警告を書いた者と、消そうとした者がいた。だが、完全には消せなかったのだろう。黒い祈り紐の細い筋が、その文字の周囲だけを避けている。
「まだ効いている」
「これが?」
「少しはな」
リーヴァは鉄灯を近づけた。
炎が揺れる。
黒い祈り紐が、壁の外側でわずかに退いた。
彼女は父の認識札が入った荷袋へ触れた。
今度は探すためではない。
落とさないためだった。
側溝はやがて途切れた。
2人は崩れた縁石を乗り越え、再び石畳へ上がる。戻ってくる巡礼者だったものは、もう近くにはいない。
その代わり、道の先が開けていた。
巡礼路の終わりに、巨大な石段が横たわっている。
石段の先には、崩れた大祈祷殿があった。
柱は半ば折れ、正面の屋根は内側へ沈んでいる。扉は片方が外れ、もう片方は斜めに傾き、閉ざす役目を失っていた。
大祈祷殿の前には、膝をついた巡礼者だったものが円を描いて並んでいる。
すべての顔布が、入口を向いていた。
黒い祈り紐は、道の柱から、巡礼者の指から、砕けた祈り札から伸び、大祈祷殿の入口へ何本も吸い込まれている。内部は暗く、鉄灯の光では奥まで届かない。
だが、闇の中で何かが震えていた。
声ではない。
祈りでもない。
人が祈りと呼んでいたものの、残り滓だった。
リーヴァは石段の前で立ち止まった。
「ここへ来たのね」
旅人は大祈祷殿を見上げた。
「ああ」
「父さんも。あの人たちも」
「ああ」
リーヴァは荷袋の肩紐を握った。
泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、前を見る目だけが少し変わっていた。
「なら、終わらせるわ」
旅人は剣の柄へ左手を置いた。
右手はまだ痛む。脇腹も重い。魔法も、ここで軽く使うべきではない。
それでも進むしかない。
大祈祷殿の扉は、閉ざされていなかった。
閉じる必要がなかったのだ。
巡礼者は、みな自分の足でそこへ向かい、自分の膝で祈り、そして戻ってくる。
黒い祈り紐は、崩れた入口の奥へ消えていた。
その先で、誰かが祈っている。
人の声ではなかった。
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