第9話 朽ちた関所――虚骸エイナル
閉じた鉄格子の向こうで、鎖の音が止んだ。
旅人とリーヴァが越えてきた門は、再び床の溝へ深く沈んでいる。鉄の縦棒には人の爪を思わせる傷が無数に刻まれ、そのすべてが、2人の立つ東側から関所へ向かって伸びていた。
戻るには、別の道を見つけなければならない。
旅人は右手を一度だけ握った。包帯の内側で傷が引きつり、鈍い痛みが掌から手首へ走る。それでも指は動いた。
「進めそう?」
「ああ」
「手のことよ」
「同じ答えだ」
リーヴァは何も言わず、鉄灯を持ち上げた。
関所の東側には、石畳で囲まれた広い空間が残っていた。
巡礼者が携えていた荷物を調べるための場所だったのだろう。腰ほどの高さがある石台が並び、壁際には荷を吊るすための鉄輪と、文字の消えた木札が残されている。
その中央に、大量の残骸が積まれていた。
折れた杖。底の抜けた鉄杯。曲がった釘。刃を失った短剣。片方だけの靴。割れた祈り札。文字の半分を削られた認識札。
どれも長い年月を経ていたが、無秩序に散らばってはいなかった。
鉄は鉄。木は木。布と革は別の山へ分けられ、その中でも長さや形が近いもの同士がまとめられている。
「誰かが集めたのね」
リーヴァは、曲がった釘を束ねている革紐へ鉄灯を近づけた。
紐は二重に輪を作り、最後だけ逆向きに通されていた。
父親の水袋に残されていた結び方と同じだった。
残骸の山の奥で、鉄が石を打った。
短く、乾いた音だった。
2人は同時に顔を上げた。
崩れた石台のそばに、人影が屈んでいる。
痩せた男だった。
灰色へ変わった外套をまとい、腰や背には革袋と鉄鉤、拾い集めた金具が幾重にも吊るされている。外套から覗く腕は枯れ枝のように細く、乾いた皮膚には古い傷が重なっていた。
男は足元の鉄片を拾い、表面の灰を指で拭った。石へ落として音を確かめ、軽い音しか返さなかった鉄片を、曲がった釘の山へ加える。その動作に迷いはなく、長く続けてきた仕事を繰り返しているようだった。
「……父さん」
リーヴァの声が落ちた。彼女は鉄灯を足元へ置き、槍を握り直した。
男の手が止まる。
ゆっくりと顔が上がった。
髪には灰と白いものが混じり、頬は深く痩せている。それでも、目元と鼻筋にはリーヴァと似た面影が残っていた。
男は彼女を見た。
だが、その視線は顔へ留まらなかった。
肩に掛けた荷袋へ移り、槍の穂先をなぞり、腰の短剣と留め具を順に確かめていく。
「父さん。私よ」
返事はない。
男の目には、再会した娘を前にした揺らぎも、名を呼ばれた戸惑いもなかった。
ただ、持ち帰ることのできる鉄を見定めていた。
旅人は男の立ち方を見た。
胸は動いていない。息に伴う肩の上下もなく、首筋にも脈は見えなかった。それでも足元に影を落とし、自らの意思があるかのように鉄片を拾っている。
「不葬者なの」
リーヴァは男から目を離さずに言った。
「あの人も、死ねば祭壇へ戻った。何度も」
「今は戻らない」
「どうして分かるの」
旅人は、男の空虚な目を見た。
「あれは、虚骸だ」
リーヴァが初めて旅人へ顔を向ける。
「虚骸……?」
「死と蘇生を繰り返し、戻る者を失った不葬者だ。名も記憶も削れ、最後に身体へ残った習慣だけが動いている」
男が身を起こした。
腰から、鎖のついた鉄鉤を外す。
「なら、まだ身体はある」
リーヴァは槍を握ったまま一歩進んだ。
「連れて帰れば――」
「帰る者は、もういない」
旅人の言葉が終わるより早く、男の腕が動いた。
鉄鉤が低く飛ぶ。
狙われたのはリーヴァの身体ではない。肩へ掛けていた荷袋だった。
鉤が革紐へ食い込み、鎖が張る。リーヴァは足を踏ん張ったが、乾いた革が先に裂けた。
荷袋が石畳へ落ち、中身が散らばる。
水袋。包帯。火打ち石。父親の印が刻まれた薄い木片。
男は鎖を手繰り寄せながら近づき、木片を拾い上げた。
「それは、あなたが残したものよ」
リーヴァの声が震えた。
男は木片を裏返した。
短い縦傷が3本。それを横切る斜めの線。かつて自ら刻んだはずの印を指先で確かめ、何の反応も示さないまま、木屑の山へ放り投げた。
リーヴァの槍先が下がった。
男の視線が、旅人の背へ移る。
革で包まれた鞘。口元へ打たれた鉄。内部に収められた、鐘舌の芯を持つ厚い剣。
鎖が再び鳴った。
「来るぞ」
旅人は剣を抜いた。
鉄鉤が切っ先へ飛ぶ。刃を傾けて受け流そうとしたが、鉤の先端が峰へ回り込み、鎖が刀身へ絡みついた。
男が引く。
剣を持つ両腕へ衝撃が走った。左手で柄を支え、右手を添えると、包帯の下で傷が開くような痛みが弾ける。
力に逆らえば、先に右手が持たない。
旅人は引かれる方向へ踏み込んだ。
鎖が緩んだ一瞬に刃を返し、男の肩へ斬りつける。だが、相手は避けなかった。厚い刃が外套と肉へ沈んでも、その腕は鎖を手放さない。
男の左手に、短い鉄梃があった。
横から振られた鉄が旅人の肋骨を打つ。
身体を捻って直撃を避けたが、鈍い衝撃が脇腹を抜けた。旅人は一歩下がり、刀身へ絡んだ鎖ごと剣を引いた。
男の身体が前へ崩れる。旅人が刃を返すと、鉤が峰から外れ、男は鎖を手元へ引き戻した。
その横から、リーヴァの槍が伸びた。
穂先は男の胸へ向かい、触れる寸前で止まった。
男は槍を見た。
次の瞬間、鉄鉤を繋ぐ鎖が横へ振られた。槍の柄へ巻きつき、強く引かれる。
「離せ」
旅人が言う。
リーヴァは槍を握ったまま動かなかった。
「リーヴァ」
男がもう一度鎖を引く。
彼女の身体が前へよろめき、槍の柄が掌の中を滑った。皮膚が裂ける直前、リーヴァはようやく手を放した。
槍が石畳を擦り、男の足元へ引き寄せられる。
男は拾った槍を見なかった。
穂先ではなく、柄の根元へ打ち込まれた細い鉄輪だけを確かめ、残骸の山へ投げ入れた。
リーヴァの顔から、残っていた迷いが少しずつ消えていく。
男の鉄鉤が再び飛んだ。
今度はリーヴァの左腕へ鎖が巻きついた。鉤は外套の袖を裂き、革の胸当てへ食い込む。
男が後方へ身体を倒す。
リーヴァの足が石畳を滑り、残骸の山へ引かれていく。曲がった釘や割れた金具が崩れ、彼女の足元へ散らばった。
旅人は鎖へ剣を押し当てた。
厚い刃でも、一撃で断てる鎖ではない。
刀身と石台の角で鎖を挟み、柄へ体重をかける。鉄同士が擦れ、耳障りな音が検分場へ響いた。
右の掌から力が抜けた。
鎖が刃の下を滑り、リーヴァの身体がさらに引かれる。
彼女は腰の短剣を抜いた。
自分の腕へ巻きついた鎖ではなく、鉤が胸当てへ食い込んでいる革帯を切る。裂けた革とともに鉤が外れ、身体が石畳へ倒れた。
「立てるか」
「ええ」
リーヴァは倒れた姿勢のまま、木屑の山へ手を伸ばした。
父親の印が刻まれた木片を拾い、胸元へ押し込む。
男はそれを追わなかった。
すでに旅人の剣だけを見ていた。
鉄鉤が戻り、乾いた手へ収まる。男は短い鉄梃を石畳へ落とし、鎖を両手で握り直した。
旅人は残骸の配置を見た。
鉄と木を分け、使えるものと使えないものを分け、何の価値も残っていない物まで拾い続けている。
あれは敵を倒そうとしているのではない。
鉄を持ち帰ろうとしている。
旅人は鞘を背から外した。
「何をするの」
リーヴァの声には答えず、剣を収める。鞘ごと持ち上げ、石柱の向こうへ放り投げた。
重い鉄が石畳へ落ちる。
男の顔が、音の方角へ向いた。
旅人ではなく、剣を見る。
男は鎖を振り上げた。
飛んだ鉄鉤が鞘の革帯へ食い込む。男が引くと、剣は石畳を滑りながら石柱の脇へ寄った。
旅人は鎖を跨いで石柱の反対側へ回り、鞘を蹴って柱の裏側へ滑らせた。
男がさらに引く。張った鎖が石柱の角へ食い込み、鞘の進む向きを変えた。
「槍を取れ」
リーヴァが残骸の山へ走る。
男は彼女を見なかった。
剣を自分のもとへ引き寄せるため、鎖を両手で手繰り続けている。柱へ触れた鎖が錆を剥がし、石の角へ深く食い込んだ。
リーヴァは山から槍を引き抜いた。
穂先を石柱の根元へ差し込み、石畳との隙間へ鎖を押し込む。柄へ全身の重みを乗せると、鎖の一節が石の割れ目へ噛み込んだ。
鎖が止まった。
男は構わず引いた。
固定された鎖が張り、鉄鉤を握る右腕が石柱へ引き寄せられる。乾いた肩から鈍い音が返ったが、それでも手は開かなかった。
鞘が柱の裏側まで滑ってくる。
旅人は柄を掴み、剣を抜いた。
男の左手が伸びる。
指先は旅人ではなく、抜かれた刃へ向かっていた。
旅人は半歩踏み込み、厚い刃を男の右膝へ振り下ろした。
肉を裂き、骨へ食い込む。
すぐには割れない。
男は自由な左手で旅人の首を掴んだ。乾いた指が喉へ食い込み、身体ごと石柱へ押しつけようとする。
旅人は剣を引かなかった。
左肩を鍔へ当て、右手を柄から外す。足を踏ん張り、肩と胸の重みだけで刃を押し込んだ。
膝の骨が軋む。
男の指が喉を締め上げ、視界の端が暗くなる。
リーヴァが槍を石柱から抜いた。
固定を失った鎖が動きかける。彼女はすぐに槍を返し、穂先を鎖ではなく男の右肩へ突き立てた。
槍は外套を貫き、身体を石柱へ縫い止める。
男の左手が一瞬だけ緩んだ。
旅人は息を吸い、剣へ全身の重みを乗せた。
骨が割れた。
男の右脚が膝から崩れ、下半身が石畳へ落ちる。石柱へ縫い止められた右肩だけが残り、不自然に上体を吊り上げた。
それでも、男は止まらなかった。
左手が地面を探る。
散らばった残骸の中にある、曲がった釘へ向かって指を伸ばしている。
旅人は剣を引き抜き、男の背後へ回った。
刃の腹を肩口へ押し当て、男の上体を石柱へ押さえつける。男は身動きを封じられながらも左腕を伸ばし、爪の剥がれた指を釘へ近づけていく。
「リーヴァ」
彼女は動かなかった。
槍の柄を握る両手が震えている。
旅人は男を押さえたまま待った。
急かす言葉は必要なかった。
リーヴァは石柱へ縫い止めていた槍を引き抜いた。
男の上体が石畳へ落ちる。自由になった右腕も地面を這い、左手とともに曲がった釘へ向かった。
リーヴァは父親の前へ立った。
釘へ伸びる指を、しばらく見つめる。
「父さん」
男は顔を上げない。
指先と釘の間には、あとわずかな距離しか残っていなかった。
「もう、持って帰らなくていい」
リーヴァは槍を両手で握り、穂先を男の首の付け根へ当てた。
一度だけ息を吸う。
槍を突き下ろした。
鉄が肉を貫き、背骨へ届く。リーヴァは柄から手を離さず、穂先が石畳へ触れるまで押し込んだ。
骨が砕けた。
男の指が、釘へ届く直前で止まった。
検分場から音が消えた。
リーヴァは槍を握ったまま、父親の背中を見つめている。旅人も剣を離さず、身体が再び動き出さないことを確かめた。
男の乾いた肉から、光は生まれなかった。
輪郭が崩れることも、祭壇へ戻るために粒となって消えることもない。
虚骸は、石柱の根元へ崩れたまま動かなくなった。
「……本当に、戻らないのね」
「ああ」
リーヴァは槍を引き抜いた。
外套の襟を開き、首に残されていた細い革紐を探る。その先には、灰と錆で黒く汚れた骨の認識札が下がっていた。
表面を布で拭う。
削れかけた文字が現れる。
エイナル。
リーヴァは長い間、その名を親指でなぞっていた。
やがて認識札を外し、胸元へ入れていた木片と重ねた。
「せめて、この名は持っていくわ」
旅人は答えなかった。
父親の亡骸を運ぶことはできない。来た道は鉄格子に閉ざされ、戻るための別の道もまだ見つかっていない。
それでも、名が残っているなら、失われたすべてを無かったことにはしなくていい。
リーヴァは槍の穂先についた血を布で拭った。石畳へ散らばった水袋や包帯、火打ち石を裂けた荷袋へ戻し、肩紐を予備の革紐で結び直す。認識札と木片を内側へ収め、置いていた鉄灯を拾い上げた。
旅人も剣を確かめる。刃には新しい傷が増え、石と骨の粉がこびりついていたが、欠けてはいなかった。
2人は、エイナルが拾い集めた残骸の山を離れた。
東へ続く石畳の先には、折れた祈祷柱が並んでいる。人の足跡はなく、黒い祈り紐だけが、道のさらに奥へ伸びていた。
振り返っても、エイナルは追ってこなかった。
その身体は光にならず、価値を失ったものの中へ残されている。
祭壇へ戻るものは、もう何もなかった。
リーヴァは父の認識札を収めた荷袋を背負い、絶えた巡礼路へ向き直った。
連れて帰れるものは、名前だけだった。
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