追いコン、一年の締めくくり
三月に入り、研究室では、恒例の追いコンが開かれることになった。会場は、大学近くの居酒屋の個室だった。今年卒業するのは、就活先輩の本多だけだった。神崎と大久保はM2に、桐山はD2に、それぞれ進級する。研究室に残るメンバーにとっても、一つの節目の夜だった。
「本多さん、内定先での初出勤、緊張します?」淳が聞くと、本多は照れくさそうに笑った。
「するよ、そりゃ。学生気分が抜けきってないし」
乾杯の音頭は、大久保が取った。「どっこいしょ」と立ち上がる掛け声も、初日には耳に残ったのに、今ではすっかり耳に馴染んでいた。
「乾杯の前に、一言だけ」蓮見が、湯呑みのようなグラスを持って、立ち上がった。「研究は、うまくいかない日のほうが、多い。でも、うまくいかなかった日の記録が、いちばん、次の人の役に立つ。だから、皆さん、ノートは、正直に書いてください。一年間、お疲れさまでした」
淳は、その言葉を聞きながら、下宿に置いてきた、鍵付きの箱のことを考えた。正直に書かれたノートは、次の人の役に立つ。地下の箱で、三十年、誰かを待っていたノートのように。
「じゃあ、本多さんの新しい門出と、俺たちの新学年を祝して」
「かんぱーい」
グラスを合わせる音が、狭い個室に響いた。
「そういえば、大久保さんが幹事やるの、これで何回目でしたっけ」桐山が思い出したように聞いた。
「今年はBBQも鍋パーティも仕切ったのに、来年もやらされそうな空気ある」大久保は苦笑いした。
「大久保さん、火加減の腕前も上がりましたしね」淳が茶化すと、大久保は得意げに胸を張った。
「だろ? もう炭で失敗しないタイプの男になったからな、俺は」
「その自信、鍋のときも言ってましたよね」神崎がすかさず突っ込むと、個室に小さな笑いが起きた。この一年で何度も繰り返されてきた、いつものやり取りだった。淳は笑いながら、この場にいる誰も、自分が抱えているものを知らないのだと、ふと思った。
「淳くん、来年から先輩だね」神崎がグラスを傾けながら言った。「後輩の指導、頑張ってよ」
「まだ実感湧かないです」
「あっという間だよ、そのうち」神崎は笑った。その言葉を、淳はもう何度、色々な人から聞いてきただろう。それでも今は、以前とは違う重みを持って、淳の胸に響いた。
宴もたけなわになった頃、本多が静かに切り出した。
「みんな、この一年、本当にお世話になりました」本多は少し照れくさそうに、それでいて真剣な表情で続けた。「就活で凹んでるとき、みんなが普通に接してくれたの、地味に嬉しかった。研究室って、なんだかんだ居心地良かったな」
「本多さんこそ、色々教えてくれてありがとうございました」淳は素直に頭を下げた。
「淳、お前とはあんまり長く一緒にいられなかったけど」本多は、グラスを軽く掲げた。「頑張れよ、これから」
淳はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。ありがとうございます、とだけ答えるのが、精一杯だった。
宴の終わり間際、秋山が、淳の隣に腰を下ろして、手帳のページを一枚破った。
「来年度の、M1の予定表。作っといた」
「もう?」
「予定は、早めに立てるほど、安い」秋山は、升目の並んだ紙を、淳の前に置いた。四月から三月まで、行事と締め切りが、几帳面な字で埋まっている。「学会は九月。中間報告は七月。新入生の受け入れが四月。……それと」
秋山は、少しだけ、声を落とした。
「この一年、淳の夜の枠、全部、手帳に記録してある」
淳の手が、止まった。
「別に、何かに使うつもりはない。予定表を作る人間の、癖みたいなもんだ」秋山は、視線を手帳に落としたまま続けた。「何か必要になったら、言えよ。……言えるようになったら、でいいけど」
「……ありがとう」
それ以上、秋山は、何も言わなかった。ただ、ペンを胸ポケットにしまった。淳は、升目の紙を折りたたんで、上着の内ポケットに、丁寧にしまった。
宴の終わり、店の外に出ると、三月の夜風は、まだ冷たさを残していた。それでも、真冬の刺すような寒さとは、どこか違う柔らかさがあった。
「じゃあ、また四月にな」桐山が気だるげに手を振った。
「本多さんも、たまには顔出してくださいね」神崎が言うと、本多は頷いた。
「もちろん。忘れないよ、ここのこと」
駅までの道すがら、桐山が隣に並んできた。
「淳、この一年、意外と楽しかったろ」
「意外とって、失礼ですね」淳は笑いながら答えた。
「いい意味でだよ」桐山はイヤホンを片方だけ耳に戻しながら言った。「来年からは後輩もできるし、色々大変だろうけど、なんかあったらいつでも言えよ。僕、頼りないけど、話聞くくらいはできるから」
「ありがとうございます」
「じゃあな」桐山は軽く手を振って、改札の方へと歩いていった。淳はその後ろ姿を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
駅の手前で、神崎が淳の隣に並んだ。
「淳くん」
「はい」
「私ね、博士に進むか、まだ迷ってるんだ」神崎は前を向いたまま言った。「でも、淳くんが二年目に入るのを見てたら、もう少しここにいたいなって思った。……それで、今年ずっと、何か抱えてたでしょ。聞かないよ。話したくないことを無理に聞くのは、違うと思うから」
淳は足が止まりかけて、なんとか歩き続けた。
「ただ、話せるようになったら、最初に私のところに持ってきて。それが何でも、まず追試させて。私が同じものを見られなかったら、それはまだ本物じゃないから。見られたら……そのあとは、一緒に、その先を確かめる。そういう人間だから」神崎は口の端で、少しだけ笑った。「仮説より、実測。でしょ」
喉の奥が、熱くなった。
「……はい。必ず、最初に見てもらいます」
「うん。約束ね」神崎はそれだけ言うと、改札の向こうへ手を振った。
一人、下宿への道を歩きながら、淳はポケットの中で手を握りしめた。「必ず、最初に見てもらいます」。口にした約束は、思っていたより重く、そして不思議と軽くもあった。
下宿の部屋に着き、淳は鍵付きの箱からコピー用紙を取り出し、実験ノートの表紙の裏に貼った年報の複写と、並べて広げた。三十年前の几帳面な筆跡と、ある年を境に途切れた研究室の題目欄。守られているのか、囲われているだけなのか、あの夜の男の意図はまだ分からない。御堂の「知らない方が良かったこともある」の意味も、分からない。それでも、分かったことが一つ増えた。この研究室は、かつてノートと同じ系統を三年間扱い、そして、やめている。その三年分の論文控えは、地下の箱から抜けていて、「沢村」という名前は、そこで途切れている。
淳は机に向かい、新しいノートの一ページ目に、次にやることを書き出した。
一、磁化の測定。抵抗がゼロに見えるだけでは、証明にならない。磁場を追い出す性質を、別の装置で確かめる。
二、学科の共用機器室にある磁化測定装置の、利用講習に申し込む。講習は四月にある。
三、確かめられるまで、データは誰にも見せない。
三行目で、鉛筆が止まった。少し考えて二重線で消し、書き直した。「見せられる形にして、最初に神崎さんに見せる」。
窓の外では、春の気配を帯び始めた夜空が、静かに街を見下ろしていた。来月からは、二年目が始まる。新しい後輩が入ってきて、研究室の景色も少しずつ変わっていくだろう。それでも、この謎への執着だけは、次の一年へ続いていく。
母から、卒論お疲れ様、というメッセージが届いていた。淳は「ありがとう、無事に終わったよ」とだけ返信し、箱に鍵をかけた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本話をもって一区切りとなります。次回以降の更新については、検討中です。




