学科年報、三年分の空白
お疲れ様会の翌日、淳は大学の図書館に足を運んだ。卒論の参考文献を返却する、という用事は嘘ではなかった。返却カウンターで本を差し出し、受領の音を聞き終えてから、淳は、書庫のある奥の階段へ向かった。
ここ数週間、頭の隅に引っかかっていたことがあった。地下資料室で、学生論文控えの背表紙を年度順に並べたとき、ある年度のあたりで、数年分が飛んでいた。あのときは、紛失か処分かと考えて、それで終わりにした。けれど、あの箱の「学生論文控え」というラベルが、頭から離れなかった。
御堂は、この研究室は三十年以上前からあると言った。神崎は、「昔からずっとスズ系をやってるみたい」と言った。それなら、あのノートにあった、スズ系とは違う系統の化合物は、どこから来たのか。飛んだ年度と、ノートの日付は、重なるのか。
淳は、地下で神崎流に書き溜めていた、仕分けの記録を、ノートの中から開いた。論文控えの箱ごとの、年度の範囲が書いてある。飛んでいるのは、三年分だった。年度の数字を、指でなぞる。それから、コピーに残っている、いちばん最後の日付を見た。平成初期の、ある年の秋。それは、飛んだ三年の、最後の年の日付だった。
一致していた。
淳は書庫の棚を、端から端まで見て回った。製本された学科年報が、年度順に、背表紙を揃えている。研究室ごとに、その年の研究テーマと、卒業論文・修士論文の題目が、数行ずつ載っている、学科の記録だった。図書館の書庫にある、と、以前に誰かが話していたのを思い出した。
ノートの最後の日付の年度の巻を、棚から抜く。頁をめくり、同じ研究室の欄を探した。
研究テーマの欄に、化合物名が並んでいた。ノートの走り書きにあった元素記号と同じ顔ぶれの、あの、聞き慣れない系統の名前だった。教授の欄には、知らない名前があった。「柳瀬」。今の御堂の前の教授、ということだろうか。
淳は、前の年の巻を、開いた。同じ系統の名前が、並んでいた。その前の年も、同じだった。三年分。ノートと同じ系統が、三年続けて、この研究室の研究テーマの欄に、載っている。
そして、翌年度の巻をめくった。
研究テーマの欄が、スズ系の材料に、書き換わっていた。卒業論文の題目も、その年を境に、すべてスズ系に変わっている。それ以降の年報を、何冊めくっても、ノートの系統の名前は、二度と現れなかった。
淳は年報を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。この研究室は、昔からずっとスズ系をやってきたわけではない。三年間、ノートと同じ系統を扱い、ある年を境に、ぱたりとやめている。論文控えが、その三年分だけ、地下の箱から抜けていたのは、偶然ではないのかもしれない。誰かが、抜いたのか。抜かれたのか。
三年目の巻の、修士論文の題目に、ふと目が留まった。
「沢村千景」
その下に、題目が一行。ノートの系統の名前に続いて、「磁化率の温度依存性」という言葉が、並んでいた。
磁化率。淳は、その言葉を、何度も見返した。磁場を追い出す性質は、磁化の測定で見る。あのノートのコピーには、それがなかった。けれど、当時、この研究室には、磁化を測ろうとした人がいたのかもしれない。題目だけでは、測れたのかも、論文になったのかも、分からない。もし控えがあるなら、地下の箱の、飛んでいた三年分の中のはずだった。あの箱からは、抜けている。
地下で見つけた、名簿の断片の、水濡れの中から読めた二つの名前。その一つが、ここに、印刷されていた。
淳は、もう一つの名前、「高槻」を探した。二年目の卒業論文の題目の中に、その姓が見つかった。こちらも、ノートの系統に関わる題目だった。名簿の名前は、あのノートの時代の、この研究室の学生たちだったのだ。
「沢村千景」の名前は、翌年度以降の巻には、一度も現れなかった。博士課程に進んだのか、どこかへ行ったのか。年報は、そこまでは教えてくれない。
閲覧室のカウンターで、淳は、司書の女性に、遠慮がちに聞いてみた。
「あの、三十年前の修士論文を、探しているんですが。この研究室の」
「修士論文は、基本的に、各研究室で保管される決まりなんです」司書は、パソコンの画面を確かめながら答えた。「図書館に納める制度になったのは、もっと後からで。昔のものは、学科の判断で、廃棄されることもあったみたいですよ」
「特定の年度だけ、まとめて抜けている、ということは」
「ありえない話では、ないですね」司書は、少しだけ首を傾げた。「ただ、まとまった年数が、ぽっかり、というのは、珍しいかもしれません」
淳は礼を言って、カウンターを離れた。廃棄。あり得る話だ。けれど、「まとまった年数が、ぽっかり」という言葉のほうが、耳に残った。
「まだ誰も踏んでいない場所が残っている」——御堂は、四月に、そう言った。派手さのない材料を選び続ける理由は、それだけなのだろうか。「知らない方が良かったこともある」という先日の一言が、この空白のことを指しているのかは、分からない。年報は、何が起きたのかまでは教えてくれない。分かったのは、印刷された年度の切り替わりが、あのノートの日付と、ちょうど重なっている、ということだけだった。
淳は、切替の前の最後の年と、切替の翌年の、二年分のページを、複写機に通した。一枚ずつ、紙が吐き出されるたびに、地下のコピー機の、ごとん、という音を思い出した。あの部署コードの、数字が増えていく音。今度は、自分の学生証で、自分の名前で、記録が残る。それでも、構わないと思った。図書館の年報を借りるのは、誰の罪でもない。
複写を、実験ノートの表紙の裏に貼った。
見なかったことにして、残りの日々を日常に戻す。それもできた。あの夜の男の忠告どおりにするのが、いちばん安全なのだろう。それでも、年報を棚に戻しながら、淳は、もう決めていた。ノートの続きを、追う。ただし、今度は、こっそり試すだけでなく、誰にも一蹴されない形で確かめる。抵抗がゼロに見えた、だけでは足りない。
閉館の時刻が近づくなか、淳は、スマートフォンで、学科の共用機器室のページを開いた。磁化測定装置の利用講習の案内が、載っていた。四月の第二週。申込みは、三月末まで。フォームには、所属と名前と、利用目的を書く欄がある。淳は、しばらく画面を見つめてから、利用目的の欄に、指を置いた。何と書けば、嘘にならないのか。卒業研究はスズ系で、磁化を測りたいのは、あの試料のほうだ。「卒業研究の補助的な磁化測定」と打ちかけて、消した。書けないまま、送信は、しなかった。まだ、三月末まで、時間がある。
書庫の窓の外では、二月の終わりの空が、夕方の色に傾き始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




