卒論発表、御堂の一言
あの夜から十日が過ぎた。淳は、あの路地での出来事を、誰にも話さなかった。警察にも、家族にも、研究室の誰にも。あの男の忠告に従ったというより、話したところで、誰にどこまで信じてもらえるのか、淳自身にも見当がつかなかったからだった。右の手首の痣は、もう、黄色く薄れていた。
日常は、驚くほどあっさりと戻ってきた。朝、研究室に着けば桐山がゲームの話をし、神崎が試料合成の進捗を確認する。何も変わっていないその光景が、淳にはかえって不思議だった。
それでも、日々の忙しさが、淳の心をゆっくりと平常に戻してくれてもいた。卒論発表の準備、研究室の日常業務。目の前にやるべきことがあることは、あの夜の恐怖を頭の隅に押しやる、ささやかな救いになっていた。
卒論の提出期限は、目前に迫っていた。淳は残りの日々を、ひたすら執筆と発表準備に費やした。正規のテーマの内容だけを、丁寧にまとめていく。あの278Kのデータには、一切触れない。それが、淳の中で、最初から決まっていた選択だった。
「淳、最近顔色戻ってきたな」
ある日、秋山がふと言った。
「そう? 前は悪かった?」
「悪かったよ、正直。一時期、ちょっと心配してた」秋山は率直に言った。「まあ、今はもう大丈夫そうだな」
「心配かけてたんだ、ごめん」
「別に謝ることじゃないけどさ」秋山は手帳を閉じながら言った。「卒論、お互い頑張ろうな」
淳はその言葉に、素直に頷いた。この一年、隣で一番長く時間を過ごしてきたのは秋山だった。その鋭さの根底にあるのは、純粋な気遣いなのだと、淳は今、はっきり分かっていた。
卒論の提出日、淳は完成した原稿を印刷し、指定された事務室の窓口に提出した。受付の職員が受領印を押すのを見届けながら、淳は不思議な感慨に包まれていた。この分厚い紙の束には、正規のテーマで積み重ねてきた一年間の記録が詰まっている。それでいて、この束の中には、淳が本当に経験したことの半分も書かれていない。
卒論発表の朝、廊下の窓際で、神崎が、淳の前に立った。
「深呼吸、してから」神崎は、自分でも一度、大きく息を吸ってみせた。「グラフは、口で説明する前に、指さす。言えることだけ、言う。それでいい」
「はい」
午前の部では、秋山が、堂々とした発表をした。予定通り、時間ぴったりに、すべてのスライドを終える。「時間配分だけは、誰にも負けない」と言っていた、その通りの内容だった。M2の本多も、修士論文の発表で、少し早口になりながら、就職先が決まった今だからこそ言える、という一言を添えて、締めくくった。
卒論発表の日、狭い講義室に、研究室のメンバーと、他研究室の学生や教員が集まった。淳の発表順は、午後の二番目だった。
順番を待つ間、淳は膝の上で手を組み、深呼吸を繰り返していた。緊張しているのは、発表そのもののためだけではなかった。頭の片隅には、あの夜の記憶が、まだ生々しく残っている。それでも、今この場では、そんな素振りは、微塵も見せるわけにはいかなかった。
「佐伯淳です。よろしくお願いします」
淳はスライドを進めながら、これまでの一年間の成果を、落ち着いた口調で語り始めた。スズ系材料の合成条件の最適化、臨界電流の測定結果、考察。すべては、神崎や蓮見と積み重ねてきた、正規のテーマの記録だった。声が震えることはなかった。手元のポインターも、しっかりと安定していた。
質疑応答では、いくつかの鋭い質問が飛んだ。データの再現性について、測定誤差の見積もりについて。淳は一つ一つ、落ち着いて丁寧に答えていった。会場の隅で、神崎が小さく頷いているのが見えた。
「試料のばらつきを抑えるために、具体的にどのような工夫をしましたか」別の学生が質問した。
「原料は使用前に真空中で加熱しました。重さと色の変化から、吸着した水分などが抜けたと考えています。処理後は、空気に触れさせない取り扱いを徹底しました。また、混合時間を標準より長く取った比較も行いました」
淳の答えは、よどみなくすらすらと出てきた。その具体性に、会場の何人かが小さくメモを取っているのが見えた。裏の実験で身につけた知見が、ここでも生きている。その事実に、淳は複雑な誇らしさを感じていた。
「臨界電流の値が、先行研究と比べてどの程度優れているか、定量的に説明できますか」別研究室の教員から、鋭い質問が飛んだ。
淳は一瞬だけ息を整えてから、スライドを一枚戻した。
「比較表をご覧ください。同系統の先行研究と比べて、今回の試料は約一.二倍の臨界電流密度が得られました。同じロットでの比較では、前処理ありのほうが約一割高く出ています。ただ、混合時間なども変えているため、一.二倍の内訳は、まだ切り分けられていません」
その答えに、会場から小さくどよめきが起きた。淳自身、これまでの積み重ねが数字として認められる瞬間に、静かな高揚を覚えていた。内訳を言い切らなかったことも、今の自分には、悪くない選択に思えた。
「最後に、私から一つ」
御堂の声だった。淳は思わず、身構えた。
「データの取り方は堅実だ。この一年の成長を、よく感じられる発表だった」御堂はそう言うと、少しだけ間を置いた。「今後の展開についても、期待している」
それだけだった。淳が密かに恐れていたような、核心に触れる質問は、何も飛んでこなかった。淳は詰めていた息を、静かに吐き出した。
発表がすべて終わり、講義室が片付けられていく中、淳は荷物をまとめて廊下に出た。人の流れが引いていく中、御堂が一人、窓の外を眺めて立っているのが見えた。
「佐伯くん」
御堂が声をかけてきた。淳は思わず足を止めた。
「はい」
「発表、良かった」御堂はそう言うと、淳の顔を、いつものように少しだけ長く見つめた。「一年前と比べて、ずいぶん、顔つきが変わったな」
「そう、でしょうか」
「うん」御堂は小さく頷いた。それから、窓の外に視線を戻し、独り言のように呟いた。
「……知らない方が良かったこともある」
淳は、その言葉の意味を、すぐには掴みかねた。
「先生、それは——」
「なんでもない」御堂はそう言うと、いつもの淡々とした表情に戻った。「今日はゆっくり休むといい。お疲れ様」
御堂はそれだけ言い残すと、廊下の向こうへと歩き去っていった。淳はその後ろ姿を、しばらく見送ることしかできなかった。
「知らない方が良かったこともある」——その一言が、何を指しているのか。あの278Kのデータのことなのか。それとも、もっと別の、淳の知らない何かについてなのか。淳の頭の中で、その言葉は、答えの出ないまま、静かに反響し続けていた。
廊下の先で、神崎と大久保が待っていた。
「淳くん、お疲れさま。発表、すごく良かったよ」神崎が笑顔で声をかけてきた。
「先輩たちのおかげです、本当に」
「いやいや、お前の頑張りだろ」大久保が壁に寄りかかりながら言った。
「大久保さんにそう言われると、なんか実感湧きます」
「今度、打ち上げやろうぜ。淳の卒論お疲れ様会」大久保が提案すると、神崎も頷いた。
淳はその誘いに、素直に頷いた。あの発表の緊張と、御堂の謎めいた一言の重さを抱えながらも、こうして気にかけてくれる先輩たちの存在が、淳の心を静かに支えていた。
数日後、神崎と大久保が約束通り、淳のためのささやかなお疲れ様会を開いてくれた。大学近くのファミレスで、三人でドリンクバーを片手に、この一年の思い出話に花を咲かせた。
「淳の初日、覚えてる? めちゃくちゃ緊張してたよな」大久保が懐かしそうに言った。
「大久保さん、最初の自己紹介で『まあ、おいおい分かるよ』しか言わなかったですよね」
「それは秘密にしといてくれよ」大久保は苦笑いした。
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