夜道の出来事、翌朝
一人取り残された淳は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。手足の震えが、なかなか収まらなかった。夜道は何事もなかったかのように静まり返り、遠くで犬の鳴き声が一度だけ響いた。
下宿までの残りの道を、淳はほとんど無意識のうちに歩いた。鍵を開け、部屋に入り、明かりをつける。いつもと変わらないはずの自分の部屋が、今夜だけは、ひどく遠い場所のように感じられた。
ベッドに腰を下ろし、淳は自分の両手を見つめた。まだ、わずかに震えている。さっきまで、見知らぬ誰かに口を塞がれ、腕を捻り上げられていた。あの感触が、まだ生々しく残っていた。
誰かに、この出来事を話すべきだろうか。警察に届けるべきなのか。それとも、あの男の忠告通り、誰にも言わずにおくべきなのか。頭の中で、いくつもの考えがせめぎ合った。
スマートフォンを手に取り、警察への通報画面を開きかけて、淳は指を止めた。もしここで届け出れば、あの男が言っていた「表沙汰にしない」という前提が崩れる。それに、事情を聞かれたら、あの古いノートと278Kのデータのことまで話すことになるのではないか、と淳は恐れた。腕をつかまれた事実だけを伝えればいいのかもしれない。それでも、その線引きを、今夜の自分が守れる気がしなかった。誰にどこまで信じてもらえるのかも分からないまま、事態だけが自分の手を離れて、大きくなっていく。そんな想像をしただけで、淳は画面をそっと閉じた。
代わりに、ニュースの検索欄に、近所の地名と、「不審者」「連れ去り」と打ち込んでみた。何も出てこなかった。今夜のことは、どこにも、記録されていない。それが、当たり前のようでもあり、恐ろしいことのようでもあった。
代わりに、机に向かって、ノートを開いた。震える手で、ペンを握る。
覚えていることを、すべて、書き出す。時刻は、十時十二分ごろ。場所は、駅から下宿への道の、三つ目の角。声をかけてきた男は、五十前後、恰幅がよく、コートは濃い色。口調は穏やか。路地の男は二人。一人は、背が高く、ニット帽。もう一人は、淳より少し低い。低い声で交わされていたのは、日本語ではなかった。灰色のバン。ナンバーは、見えなかった。消毒液のような匂い。
書きながら、淳は、少しだけ、呼吸が落ち着いていくのを感じた。数字と、時刻と、順番。神崎に教わった、実験ノートの書き方が、こんなところでも、心の支えになっていた。あとから、他の人が読んでも分かるように。誰が読むかは、まだ分からない。ただ、書き残しておけば、この夜の出来事は、記録になる。
それから、淳は、もう一つのことをした。
278Kのデータのファイル。試料を作った手順の記録。二枚のグラフ。それを、パソコンの中だけでなく、小さな記憶媒体に、コピーした。一つは、鍵付きの箱に。もう一つは、パスワードをかけて、大学のものではない、自分だけの保存領域へ。パソコンの中と合わせて、三か所に分けておけば、一か所を失っても、残る。
窓の外を確かめ、カーテンをきつく閉め、淳はベッドに横たわった。眠れるはずもなかった。天井を見つめながら、淳は今夜の出来事を、何度も何度も頭の中で反芻した。守られているのか、囲われているのか。その問いへの答えは、朝になっても、まだ見つかりそうになかった。
翌朝、淳はいつも通りの時間に目を覚ました。鏡に映る自分の顔は、思っていたよりも、普段と変わらなかった。それが、かえって淳を不安にさせた。あれほどの出来事があったというのに、自分の身体は、いつも通りに朝を迎えてしまう。右の手首には、昨夜の男が言った通り、青い痣が浮いていた。淳は長袖のシャツを選んで、袖口をしっかりと引き下ろした。
深呼吸を一つしてから、いつも通りの支度をして、研究室へと向かった。
「淳、今日もなんか顔色悪いな」
学生居室に着くなり、秋山が心配そうな顔をした。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
「無理すんなよ、提出前に倒れたら元も子もないぞ」秋山はそう言うと、手帳に何かを書き込んだ。「今日は早めに帰れよ」
「うん、そうする」
「そういえば、昨日は何時に帰ったんだ? 俺が居室を覗いたときには、もう電気が消えてたけど」
淳の心臓が、一瞬だけ跳ねた。
「あ、普通くらいの時間だったよ。特に何もなく」
「ならいいけど」秋山は、それ以上追及することなく、手帳を閉じた。その何気ない質問の裏に、何か気づかれているのではないかという不安が、淳の胸をよぎった。それでも、秋山の表情には、いつも通りの淡々とした様子しかなかった。
淳は素直に頷きながら、内心では、昨夜の恐怖が、まだ身体の奥に居座っているのを感じていた。それでも、こうして日常の中に紛れ込んでいる限り、誰にも気づかれることはない。淳はそのことに、安堵と、それ以上の虚しさのようなものを、同時に覚えていた。
昼休みに、生協の電気製品の棚で、小さな記憶媒体をもう一つ買った。レジで小銭を出しながら、なぜ自分は、こんな買い物をしているのだろう、と可笑しくなった。研究の記録を、防災用品のように備える日が来るとは、思っていなかった。
その夜、下宿に戻った淳は、久しぶりに実家の母に電話をかけた。特に用件があったわけではない。ただ、誰かの声を聞きたかった。
「どうしたの、急に電話なんて」母は少し驚いた様子で言った。
「いや、なんとなく。元気にしてるかなと思って」
「元気だよ。淳こそ、卒論大丈夫? 声、ちょっと疲れてない?」
「大丈夫。もうすぐ提出だから、それで忙しいだけ」
母には、本当のことは何一つ言えなかった。それでも、たわいのない会話を交わすだけで、張り詰めていた気持ちが、少しだけ緩んでいくのを感じた。電話を切ったあと、淳は、しばらくスマートフォンの画面を見つめたまま、動けずにいた。
ベッドに横になり、淳は天井を見上げた。誰にも話せない秘密と、誰にも見せられない恐怖。その両方を、自分一人で抱え続ける日々が、まだしばらく続くのだろう。それでも、卒論の提出まではあと少しだ。そこまでは、なんとか持ちこたえなければならない。
淳は、ノートの最後のページに、一行だけ足した。「磁化。講習は四月。それまでは、この記録を、誰にも見せない」。その下にもう一行、書きかけて、ペンを止めた。書きたい名前が、一つだけ、あった。けれど、それを書くのは、まだ早い気がした。
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