卒論提出直前、夜道の男
二月に入り、卒論の提出期限が目前に迫っていた。研究室では、桐山でさえゲームの時間を減らし、印刷室のプリンターは連日フル稼働している。淳も正規のテーマの執筆に追われながら、あの発見については、まだ誰にも打ち明けられずにいた。御堂の電話の声、見慣れないスーツの男、早乙女の噂。どれもはっきりした形を持たないまま、不安の澱として溜まっていた。278Kのデータという確かな成果を手にしたのに、その喜びを誰とも分かち合えない孤独が、日を追うごとに重みを増していく。
その日は、卒論の考察部分の執筆で、いつもより研究室を出るのが遅くなった。蓮見にデータの解釈について相談し、神崎に文章の粗さを指摘され、気づけば夜の十時を過ぎていた。
「淳くん、ここの考察、もうちょっと踏み込んで書けそう」神崎が原稿を指さしながら言った。「臨界電流のばらつきの原因、もう一段深く掘り下げられると思う」
「分かりました、直してみます」
「あと、参考文献の書式、統一されてないところがいくつかあるから、明日でいいから直しといて」
「はい、ありがとうございます」
「淳くん、今日はもう帰りなよ。無理しないで」
神崎にそう声をかけられ、淳は素直に頷いた。荷物をまとめ、誰もいなくなった学生居室の電気を消して、一人、駅への道を歩き出した。
最寄り駅から下宿までの道は、いつもなら十五分もかからない。
商店のシャッターはとっくに下り、街灯の間隔だけがやけに広く感じられる夜だった。淳はポケットに手を突っ込んだまま、イヤホンもつけずに歩いていた。データを取ってから、もう一ヶ月近くになる。誰にも話していない。話せるはずがない。
二月の夜気は、肌を刺すように冷たかった。吐く息が白く染まり、街灯の光の中でゆっくりと消えていく。普段なら気にも留めない、なんでもない夜道のはずだった。それでも今夜は、どういうわけか、背中のあたりがちりちりと落ち着かなかった。誰かに見られている——そんな感覚が、ここ数週間、淳の中から消えずにいた。気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせてきたはずだった。
電柱の陰から、その男は自然な足取りで現れた。
「佐伯淳くん、だったね」
年齢は五十前後だろうか。恰幅の良い、ベテランらしい体格をしていたが、仕立ての良いコートのせいか、威圧感よりも落ち着きの方が先に立つ。声も、驚くほど穏やかだった。
見覚えがある気がした。先日、研究室の廊下で、遠くから見かけた男に、背格好が似ている。ただ、顔ははっきりとは見ていなかった。
「……どちら様ですか」
「立ち話で済む話だ」男は歩幅を合わせて隣に並んだ。「君が最近、資料室で見つけたもの。それについて、誰にも話さないでほしい」
心臓が、跳ねた。
「な——何のことですか」
「わからないふりは、もういい。データのことだ。あのノートの、続きの話」
淳は足を止めた。止めたかったわけではなく、足が勝手に止まった、という感覚に近かった。男はそれ以上、何も脅さなかった。ただ、静かにこちらを見ている。その静けさのほうが、よほど恐ろしかった。
「……分かれば、いいんですか」
「分かれば、いい」男は小さく頷いた。「今夜のところは」
今夜のところは——その言い方が、淳の中に冷たい塊を残した。男は軽く会釈すると、来た道を戻っていく。淳はしばらく、その背中を見送ることしかできなかった。
早く帰ろう。そう思って足を踏み出した瞬間、路地の暗がりから、二つの人影が音もなく現れた。
「……っ」
声を上げる前に、片方の腕が淳の口を塞いだ。もう一人が、反対の腕を後ろに捻り上げる。革靴が路面を擦る音。体が浮くような感覚。抵抗しようにも、力の入れ方すら分からなかった。これは、テレビの中の出来事ではなかったのか。
低く短い言葉が、耳元で交わされる。日本語ではなかった。
淳の頭の中は、真っ白だった。逃げなければ、と思うのに、体は言うことを聞かない。路地の奥に、灰色のバンが停まっているのが視界の端に映った。あそこに、連れて行かれる。
足が地面から浮き、靴の先が路面をかすめる。抵抗しようともがいた瞬間、口を塞ぐ手のひらの感触と、消毒液のような妙な匂いが、鼻の奥に張りついた。恐怖というより、現実感のなさの方が勝っていた。これは本当に、今、自分の身に起きていることなのか。頭のどこかで、そんな他人事めいた問いだけが空回りしていた。
「——離せ」
鋭い声が、路地に響いた。
さっきの男だった。いつの間にか戻ってきていたのか、それとも最初から、離れた場所から見ていたのか。男の後ろには、もう二、三人の人影があった。
一瞬の膠着。淳を押さえていた腕の力が、わずかに緩む。
その隙を、男の側の誰かが逃さなかった。何が起きたのか、淳にはほとんど分からなかった。気づけば地面に膝をついていて、口を塞いでいた手はもうなく、路地の奥でバンのドアが乱暴に閉まる音と、タイヤが鳴る音だけが遠ざかっていった。
「大丈夫か」
さっきの男が、屈み込んでこちらを覗き込んでいた。その声には、さっきまでの得体の知れなさとは違う、ただの気遣いのようなものが滲んでいた。
淳は答えられなかった。膝に手をついたまま、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
助けられた。それは分かる。分かるのに、安堵よりも先に、別の感情が喉の奥からせり上がってくる。
——自分は今、守られているのか。それとも、囲われているだけなのか。
答えは、どこにもなかった。
「立てるか」
男が手を差し伸べてきた。淳はその手を借りて、震える足でなんとか立ち上がった。
「怪我は」
「……大丈夫、です」
「手首を見せなさい」男は、淳の右手首を、街灯の下に持ち上げた。赤く、指の跡がついている。「明日には、青くなる。冷やしておくといい。長袖なら、隠れる」
その言い方が、あまりに手慣れていて、淳は、返す言葉を見つけられなかった。
「今の連中は……」
「今は、詳しいことは話せない」男は静かに、しかしきっぱりと言った。「ただ、これだけは言っておく。君が見つけたものは、君が思っているよりずっと大きな意味を持っている。それを知っている人間は、我々だけではない、ということだ」
「僕は……これから、どうすればいいんですか」
「普段通りにしていればいい。データのことは、これまで通り、誰にも話さないように」男はそう言うと、周囲に視線を走らせた。「今夜のことも、誰にも言わない方がいい。君のためにも」
「なんで、僕を助けてくれたんですか」
その問いに、男はわずかに口元を緩めた。それが笑みなのか、それとも別の何かなのか、淳には判別がつかなかった。
「それも、今はまだ話せない」
男はそれだけ言うと、後ろに控えていた人影たちに、短く何かを指示した。人影は音もなく、路地の闇の中へと消えていった。男自身も、淳に小さく会釈をすると、来た道とは反対の方向へ、静かに歩き去っていった。
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