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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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教授室の前に立つ見慣れない男

数日後、淳は、研究室の廊下で、見慣れない人物を見かけた。


グレーのスーツを着た、五十がらみの男性が、教授室の前に立っている。鞄は持っていない。ドアのプレートを、ゆっくり読むように眺めてから、事務の田村さんに案内されて、中に入っていった。恰幅の良い体格に、仕立ての良さそうなコート。淳は、廊下の遠い端から、その背中を見ただけだった。顔は、はっきりとは見えなかった。ただ、ドアの前で、一瞬だけ、こちらを振り返ったような気がした。


「なんか、堅そうな人だったよな」休憩中、桐山がぼそっと言った。「営業とか、そういう感じでもなさそうだし」


「先生の知り合いとかじゃないですか」大久保が気楽な調子で言う。


「にしては、雰囲気が違う気がしたけど」神崎も、少し首を傾げていた。


淳は、その会話には加わらず、コーヒーの紙コップを両手で持っていた。


「事務の田村さんに聞いてみたけど」神崎が続けた。「『教授の、個人的なお客様です』としか教えてもらえなかった。来客は、普通は予約を通すのに」


「あの人、玄関の受付で、来訪者票に何か書かされてたよ」秋山が、手帳から目を上げずに言った。「通りがかりに、見えただけだけど。所属の欄が、やけに長かった。たしか、『内閣』とか、『官房』とか」


「内閣官房?」桐山が、ゲームの手を止めた。「なんで教授のとこに」


「さあ。予算の関係かもしれないし」秋山は肩をすくめた。「見えただけだよ」


淳は、コーヒーの紙コップを、握りしめた。


「まあ、私たちには関係ない話でしょ」


神崎はそう言うと、話題をあっさり切り上げた。誰も彼も、それ以上の詮索をする気はないようだった。ただの一過性の来客として、あっという間に忘れ去られていく。淳だけが、その話題を、いつまでも頭の片隅に留めていた。


廊下で蓮見とすれ違ったとき、淳は、思い切って聞いてみた。


「先生、さっきの来客の方、ご存じですか」


「いや、僕は知らないんだ」蓮見は、首を振った。「御堂先生の、古い知り合いらしい、とは聞いたけど。詳しいことは、僕も」


そう言ってから、蓮見は、ほんの一瞬だけ、何かを飲み込むような顔をした。


「淳くん、あの人のことは、あまり気にしないほうがいい。……これは、僕からの、ただのお願いだけど」


「はい」


蓮見は、それ以上は言わず、指導教員室のドアを開けた。淳は、閉まったドアを、しばらく見つめていた。「深追いするな」。神崎が言っていた、その言葉が、ふいに、蓮見の声で、再生された。


その日の夕方、淳は、教授室の前を通りかかったとき、また御堂の電話の声を耳にした。


「……いや、こちらとしては、まだ表沙汰にするつもりはない。しばらくは、こちらで様子を見させてほしい」


その一言を聞いた瞬間、淳の足は、その場で凍りついたように動かなくなった。表沙汰。その言葉が、何を指しているのか。淳の頭の中で、様々な想像が渦を巻いた。まさか、自分のことを言っているのだろうか。それとも、全く別の、研究室運営に関わる何かの話なのか。


淳は音を立てないよう、そっとその場を離れた。心臓が、いつもよりずっと速く鳴っていた。


翌日の夕方、淳は、工学部棟を出たところで、ふと足を止めた。


道路を挟んだ向かい側、街路樹の下に、男が一人、立っていた。黒いキャップに、暗い色のジャンパー。スマートフォンを顔の前に掲げて、画面を見ているようで、視線は、工学部棟の入口に向いている気がした。淳が目を向けた途端、男は、何事もなかったように、歩き去っていった。


二日後にも、同じ場所に、同じ男がいた。今度は、淳に目を向けなかった。ただ、入口を出入りする人たちを、順に、眺めているようだった。


「考えすぎだ」


淳はそう自分に言い聞かせて、足早に駅へ向かった。誰かが待ち合わせをしているだけかもしれない。誰にでも、建物の前で、人を待つ日はある。


その週末、淳は、久しぶりに早乙女から連絡をもらった。


「久しぶり。今度の土曜、暇なら飯でも行かない?」


気分転換になるかもしれない、と淳は思い、誘いに応じることにした。大学近くのラーメン屋で落ち合うと、早乙女は、いつも通りの軽い調子で、近況を語り始めた。研究のこと、就活のこと、最近ハマっているネットの動画のこと。


早乙女は、ラーメンをすすりながら、ふと顔を上げた。


「そういえば佐伯、最近なんか疲れてない? 顔色悪いけど」


「そう見える? ちょっと卒論で立て込んでて」


「まあ、この時期はみんなそうか」早乙女は納得したように頷いた。「そういえばさ、最近ネットでちょっと変な噂見たんだよ」


淳の箸が、一瞬止まった。


「変な噂?」


「海外の掲示板で、政府系の機関が、なんか新しいエネルギー技術を隠してるとか、そういう陰謀論めいた話。詳しくは分かんないけど、結構盛り上がってた」早乙女は興味深そうに続けた。「まあ、いつものオカルト系のやつだと思うけど。佐伯の研究してる分野とも、ちょっと関係ありそうな話だったから、思い出して話してみた」


「……そういうの、よく見つけるね」


「趣味だからな」早乙女は笑った。「まあ、九割九分はガセだから、気にすんなよ」


淳は、表面上は軽く相槌を打ちながらも、内心では激しく動揺していた。海外の噂、政府系機関、新しいエネルギー技術。それぞれの単語が、まるで自分のために用意されたかのように、頭の中で不気味に反響していた。


「その噂、詳しく知ってる?」


「いや、俺も又聞きレベル。詳しいことは分かんない」早乙女はあっさり答えた。「なんか、佐伯の研究の話とは、全然違う国の話だったし、多分無関係だと思うよ。ただ、なんとなく思い出したから話しただけ」


「そう、だよね」


淳は、自分にそう言い聞かせるように、繰り返した。早乙女の言う通り、無関係な話である可能性の方が、はるかに高い。それでも、御堂の電話の声と、あの噂の話が、淳の頭の中で、なぜか勝手に結びついていくのを止められなかった。


ラーメン屋を出ると、一月の冷たい風が、淳の頬を刺した。早乙女とは駅前で別れ、淳は一人、下宿までの道を歩いた。


「考えすぎだ」


淳は自分にそう言い聞かせながら、鞄の持ち手を強く握りしめた。御堂の電話は、研究室の予算の話かもしれない。訪ねてきたスーツの男は、単なる業者かもしれない。向かいの通りのキャップの男は、待ち合わせをしていただけかもしれない。早乙女の噂話は、本当にただの偶然かもしれない。どれも、確かめようのない憶測に過ぎなかった。


それでも、あの278Kという数字を確かに見てしまった今、淳はもう、以前のように無邪気に「考えすぎだ」と笑い飛ばすことが、できなくなっていた。


下宿に着き、部屋の電気をつけると、淳はしばらく玄関に立ち尽くしたまま、動けずにいた。誰かに見られているような感覚。それが気のせいなのか、それとも本当に何かが動き始めているのか、淳にはまだ、判断がつかなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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