誰にも見せないグラフ
あの夜から、二週間が過ぎていた。淳は、まだ誰にも、あの発見のことを話していなかった。ただ、こっそりと追試を重ねていた。毎晩の追試は、義務感というより、あの278Kのグラフを、もう一度見たいという、純粋な欲求に近かった。何度確かめても、その瞬間の高揚感は、薄れなかった。
正規のテーマも、卒論提出に向けて佳境を迎えていた。神崎や蓮見との打ち合わせ、データの整理、考察の執筆。やるべきことは、山積みだった。
その日の午後、淳は、書き上げた考察の草稿を、神崎に見てもらっていた。神崎は、赤ペンを片手に、一行ずつ、目で追っていく。
「ここ」神崎は、ペンの先で、一文を指した。「『この条件が、臨界電流の向上の原因である』って書いてあるけど、それは、言い過ぎ」
「原因、ではないんですか」
「他の条件も、同時に少し変わってるでしょう。この試料だけ、原料のロットも違う。だから、データが言えるのは、『この条件で、向上が見られた』まで。原因かどうかは、条件を一つずつ振って、確かめてからじゃないと」
「……はい」
「データが言ってないことを、言っちゃだめ。逆に、データが言ってることは、堂々と言っていい」神崎は、その一文に、二重線を引いて、脇に書き直した。「言えることと、言えないことの線を、ちゃんと引く。それが、論文の一番大事なところだと思ってる」
淳は、赤ペンで直された一文を、じっと見つめた。「向上が見られた」。それは、278Kの数字にも、そのまま当てはまる言葉だった。抵抗が測定限界以下になった。それは事実だ。超伝導体である、というのは、まだ、言えない。
「なんか、急に大人びたよね、この数か月で」神崎は原稿から顔を上げて、淳の顔を、まじまじと見た。「いいことだけど、ちょっと心配にもなる」
「心配、ですか」
「うん。なんか、抱え込みすぎてないか、たまに気になる」神崎はそう言うと、それ以上は深追いせず、原稿に赤ペンを入れ始めた。「まあ、いいや。この調子で頑張って」
淳は、その一言に、小さく胸を突かれた。それでも、神崎は、核心には至っていない。
「ところで、淳くん」神崎は、赤ペンを置いて、自分のノートパソコンの画面を、こちらに向けた。「来月の学会用の図なんだけど。ちょっと、見てくれない?」
それは、神崎自身の、臨界電流の磁場依存性のグラフだった。淳は、軸の数字を、一つずつ、目で追った。
「先輩、縦軸の単位は、アンペア毎平方センチですよね。横軸は、テスラで。でも、図のキャプションでは、ミリテスラって書いてあります」
「……え」
神崎は、画面に顔を近づけた。数秒の沈黙のあと、彼女は、ふっと吹き出した。
「やられた。ありがとう。卒論の前に、私の図のほうが、危なかった」
「いえ、たまたまです」
「たまたまじゃない。ちゃんと読んでるってことでしょ」神崎は、少し照れくさそうに、キャプションを直し始めた。「淳くんに助けられる日が来るとは、思わなかったな」
淳は、その一言を、静かに受け止めた。教わってばかりだった自分が、初めて、神崎の役に立てた。その嬉しさと同時に、彼女に隠していることの重さが、また少し、増した。
一月の下旬、淳は、蓮見に資料を届けようと、指導教員室のドアの前に立った。ノックしかけたところで、中から、二人分の声が聞こえてきて、手が止まる。
「——月次の集計です。それから、資料室のコピー機の枚数が、六月に、少し増えていました。年に一度の確認で、部署コードが、こちらのものでしたので、念のため」
事務の田村さんの声だった。
「ああ、それは、六月の地下の整理のとき、淳くんに使ってもらった分だよ」蓮見が答える。
「そうですか、了解です。それと、自由発注枠の件なんですが。めずらしい元素の発注が、この研究室では十年ぶりでしたので、御堂先生にも、念のため、目を通していただきました」
淳の背筋が、凍りついた。
「先生、何か仰ってた?」
「『問題ない』とだけ。ただ、用途の、添加物の検討の結果は、あとで聞かせてほしい、と」
「そうか。淳くんに、伝えておくよ」
淳は、音を立てないように、その場を離れた。廊下の角を曲がったところで、壁に背中をつけた。心臓が、うるさいほど、鳴っていた。
十年ぶりの発注。あの元素を注文したのは、間違いなく、自分だ。用途の欄に書いた文言は、嘘ではなかった。けれど、それが、御堂の目に、止まった。
「淳くん」
数分後、蓮見が廊下に出てきた。
「あ、はい」
「さっき、御堂先生が、添加物の件、後で結果を聞かせてくれって。時間があるときに、簡単な報告でいいって」
「……分かりました」
蓮見はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、少しだけ、不思議そうに、淳の顔を見ていた。
その週の終わり、淳が原稿を届けに教授室の前を通りかかったとき、ドアの隙間から、いつもとは違う声色が漏れ聞こえてきた。
「……いや、まだ確証は持てていない。もう少し様子を見る必要がある」
御堂の声だった。いつもの落ち着いた口調とは違う、どこか緊張を帯びた響きがあった。相手の声は聞こえない。電話をしているのだろう。
淳は思わず足を止め、聞き耳を立てそうになった自分に気づいて、慌てて歩き出した。盗み聞きをするつもりはなかった。それでも、あの声のトーンだけが、妙に耳に残った。
その翌週、淳は、御堂の視線が、以前より頻繁に自分に向けられているのを、感じるようになった。廊下ですれ違うとき、実験室で作業しているとき、御堂の目が、ふと淳の方に留まることが増えた。それは、これまでの御堂の態度とは、明らかに違う質のものだった。教授としての一般的な関心というより、もっと個人的な、何かを見定めようとするような視線。
「佐伯くん」
ある日の午後、珍しく御堂の方から声をかけてきた。手には、淳が出した卒論の草稿が、握られている。
「はい」
「最近、遅くまで残っているようだが」御堂は淡々とした口調で言った。「建物の入退室のログを見た。深夜まで残っている日が、ここのところ、多いようだな」
淳の心臓が、大きく跳ねた。夜の警備員に、名前と時刻を書いていた、あの記録だ。
「あ、いえ、正規のテーマで、ちょっと試行錯誤してることがあって……」
「そうか」御堂は、それ以上、深くは追及しなかった。草稿を、淳の手に返す。「ここの考察は、もう少し慎重に書きなさい。データの言っていないことまで、書かないように」
「はい」
草稿の、赤く囲まれた頁番号の「7」に、細い斜線が一本、入っていた。どこかで見た癖のような気がして、淳は一瞬、目を細めた。けれど、御堂の声が、その違和感を流していった。
「無理はするな。身体を壊しては、元も子もない」
その目は、いつもより長く、淳の顔に留まっていた。
「はい、気をつけます」
御堂はそれだけ言うと、教授室へと戻っていった。淳は、その後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。単なる気遣いの言葉として、受け取ることもできた。それでも、あの視線の長さには、これまでにない何かが含まれているような気がしてならなかった。
その晩、淳は、一度だけ、神崎に打ち明けようかと、本気で考えた。あの278Kのデータを見せれば、きっと今度こそ、神崎も本気で向き合ってくれるはずだった。パソコンの画面に測定データのファイルを開いたまま、淳は、しばらくその画面を見つめていた。
だが、指はキーボードの上で止まったままだった。磁化を見ていない。「向上が見られた」以上のことは、まだ、言えない。言えるようになってから、見せる。神崎の教えが、そう言っていた。
「……まだ、早い」
淳は結局、ファイルを閉じた。そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、その先延ばしが、単なる怖気づきに過ぎないことも、淳は薄々分かっていた。
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