疑う順番を、自分にも
正門を出ると、一月の冷たい空気が、火照った頬を刺した。夜明け前の空には、まだいくつか星が残っている。この半年、追い続けてきた謎に、一つ答えが出た。同時に、この結果を抱えたままどう振る舞えばいいのか、その答えは持っていなかった。
始発電車の窓に映る自分の顔は、高揚と不安の入り混じった表情をしていた。それでも、確かなことが一つだけあった。もう、後戻りはできない。
その日の午後、淳は、少し寝不足のまま研究室に顔を出した。
平静を装って机に向かう。鞄の中には、あの試料と、保存したデータのバックアップが入っている。頭の中では、昨夜のグラフが、繰り返し再生されていた。
大久保が缶コーヒーを片手に通りかかり、淳の顔を覗き込んだ。
「お、なんか今日眠そうだな。徹夜でもしたのか」
「いや、ちょっと寝つきが悪くて」
大久保は、それ以上は聞かず、缶コーヒーを一本、淳の机に置いていった。「これ、奢り」
「ありがとうございます」
淳は缶を手に取った。昨夜見た景色の重さと、この何でもない昼の光景との落差に、まだ慣れなかった。
「淳くん、これ見て」神崎が試料合成室から声をかけてきた。「先月の試料、追加の測定結果出たよ。悪くない数字」
「あ、ありがとうございます」
あの278Kの測定値を、秋山も、神崎も、蓮見も、御堂も、知らないはずだ。この研究室で、あの結果を知っているのは、淳ただ一人のはずだった。
それでも、淳は、自分がやるべきことを、はっきりと分かっていた。神崎が挙げた、五つの項目。あの宿題を、今度は、自分自身の結果に向けて、やり直す。驚くのは、最後だ。
翌日から、淳は、夜の測定室で、一つずつ潰していった。
まず、短絡。試料を装置から外し、電極の間の抵抗を、室温でテスターで測る。銀ペーストの橋は、どこにもなかった(電極の間は、素子そのものの値だった)。電流を流す向きを、逆にして測り直した。落ち込みの位置は、変わらなかった。
次に、接触。電極を、一度、すべて剥がして、別の場所に、つけ直した。顕微鏡の下で、前より小さな点を、慎重に落とす。四本目までつけ終えたところで、目で確かめてから、テスターを当て直した。電子音は鳴らず、橋はできていない。同じ手順で冷やす。278K付近で、線は、また落ちた。電極の位置が変わっても、結果は同じだった。
温度計。神崎が、予備の校正済みの温度計を、引き出しに入れていたのを思い出した。淳は、それを借りる口実を、卒論の温度校正の確認、と決めて、試料の反対側の端に取り付けた。冷却の途中で、二つの温度計の差を読む。差は、〇・三ケルビンほどで、ほとんど変わらなかった。二本の表示は、大きくは食い違っていない。ただ、試料そのものの温度との差までは、これでは分からない。
予備の温度計を引き出しに戻しに行くと、ちょうど神崎に、声をかけられた。
「淳くん、予備の温度計、使った?」
「あ、はい。卒論の測定の、温度校正の確認で」
「そう。確認するのは、いい癖。だけど、貴重なものだから、次からは、使う前に一言言ってね」神崎は、それ以上は何も聞かなかった。「差は、どのくらいだった?」
「〇・三ケルビンくらいです」
「悪くない。それなら、温度計は、まず疑わなくていいね」
淳は、頷いて、引き出しを閉めた。神崎の顔を、まっすぐには見られなかった。
念のため、もう一つ。試料を載せない、空のホルダーで、同じ冷却をしてみた。配線と装置だけの、対照の実験。配線と装置そのものが、この温度で、抵抗のような変化を勝手に出していないか。結果は、平らな、意味のない線だった。この空の構成では、同じ表示変化は出なかった。ただし、試料をつないだときの接触や装置の応答までは、この対照では確かめられない。
四つ目は、測定の限界だった。装置の仕様書を読み返し、電圧の分解能と、流している電流から、この装置が見分けられる最小の抵抗を、計算する。ゼロに見えるのは、その限界の内側だった。限界以下としか、言えない。
そして、電流を変えてみた。
淳は、電流を、一ミリアンペアから、少しずつ、上げていった。五、八、十。グラフの平らな線が、十ミリアンペアのあたりで、急に、立ち上がる。抵抗が、戻ってきた。試料は、ある電流を境に、超伝導のような状態を失っている。
「……臨界電流」
自分の卒論のテーマそのものだった。四月に蓮見から聞いた、「電流を上げていくと、ある値を境に、突然、超伝導ではなくなる」という現象。それが、278Kで、目の前で起きている。冷たい部屋の中で、淳は、思わず、笑ってしまった。
ただ、この確認は、抵抗の話でしかなかった。電流を上げると抵抗が戻る、という性質は、超伝導体の特徴と一致する。一方で、細い糸が、試料の中でつながっているだけでも、同じ振る舞いをするかもしれない。神崎の、五つ目の項目。抵抗のゼロは、たった一本の糸でも、出る。
淳は、ノートの余白に書いた「磁化」の二文字を、もう一度、指でなぞった。磁場を追い出す性質を、別の装置で確かめない限り、この試料が「超伝導体」だと、言うことはできない。その装置は、学科の共用機器室にある。使うには、講習を受けなければならない。講習は、四月だ。
翌週末、淳は、別の試料を、同じ手順で、最初から作り直した。原料の秤量、乳鉢での混合、一段階目の焼成と急冷、常温での小休止、そして二段階目の徐冷。一つずつ確かめながら進めた。
深夜の測定室で、モニターに映ったグラフは、やはり、278K付近で平らになった。別の試料でも、同じだった。
ただ、これで確かめられたのは、再現性までだ。装置も、配線も、温度計も、同じである以上、系統的な誤差が、残る可能性は消えない。淳は、グラフを見つめながら、その一歩先の課題を、頭の中に書き留めた。
夜、下宿に戻った淳は、鍵付きの箱から、コピー用紙を取り出し、その隣に、昨夜のデータのプリントアウトを並べた。三十年前の几帳面な筆跡と、自分が得た測定データ。二つの記録が、初めて、並んでいた。
「本当に、やったんだな」
独り言のように、つぶやいた。実感は、まだ、どこか他人事のように薄かった。神崎に見せるべきか。もっと確かな証拠を積み重ねてからにするか。それとも、卒論の提出まで、自分の胸に秘めておくか。答えは出なかった。ただ一つ、この発見を簡単には手放したくない、という気持ちだけは、揺るがなかった。
三度目の測定を終え、機材を片付けながら、淳はふと、あの古いノートの、最後のページを思い出した。「これは……」で途切れていた、あの一文。もしかしたら、あの筆者も、自分と同じように、この景色を見たのかもしれない。深夜の測定室で、たった一人、誰にも見せられない結果を前にして。そう考えると、三十年という時間の隔たりが、急に近しいものに感じられた。
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