午前二時の測定室
前の日の予定は、秋山の升目の通りに、進んでいた。昼に一段階目の焼成、夕方に急冷と、数時間の休み、夜に二段階目。升目の各行に、淳は、鉛筆で、小さな丸をつけていった。予定どおりに終わったら、礼を言え、と秋山は言った。この丸を全部つけ終えたとき、自分は、何と言うのだろう。
午前二時。測定室の蛍光灯は落としてあった。淳の手元を照らすのは、クライオスタットの制御パネルが放つ、青白い光だけだ。
電極づけは、丁寧すぎるほど丁寧にやった。爪楊枝の先の銀ペーストを、顕微鏡の視野の中で、さらに小さな点にする。四本目の金線をつけ終えたところで、顕微鏡でペーストの広がりを確かめ、端子の間にテスターを当てた。電子音は、鳴らなかった。橋はできていない。目で見たのと、同じ答えだった。四月の金曜日の、あの短い電子音が、耳の奥に残っていた。
試料ホルダーを装置に固定し、配線を確かめ、蓋を閉める。温度計の位置を、もう一度確かめる。冷却の速さは、これまでで一番、ゆっくりにした。試料が、温度計に追いつけるように。神崎に教わったことを、一つずつ、身体で確かめていく作業だった。
換気扇の音すら、今夜はやけに大きく聞こえる。誰もいない棟に、自分の心臓の音まで、響いているような気がした。
古いノートに書かれていた通りの手順で、前日の昼から仕込んだ試料。冷却の速さ、振動を避けるための深夜という時間帯、そして今回新たに試した、二段階の熱処理。すべての条件は、揃えたつもりだった。あとは、この画面が何を見せるかだけだ。
淳はモニターの前で、ほとんど息を止めていた。
温度計の数字が、ゆっくりと下がっていく。295K、290K、285K——室温から、少しずつ。抵抗値を示すグラフの線は、まだ緩やかな右肩下がりを描いているだけだった。普通の金属と同じ、ただの温度依存性。
「……頼む」
声に出したつもりはなかったのに、静かな部屋に、その言葉が落ちた。
280K。グラフの線が、揺れた。
淳は身を乗り出した。椅子が軋む音すら、今は邪魔だった。抵抗値の数値が、桁を一つ落とす。もう一つ。画面の中で、折れ線グラフが、崖のように落ちていく。
278K。
数値が、ゼロになった。
いや——正確には、ゼロに「見える」だけだ。測定器の分解能の限界。淳は自分にそう言い聞かせながら、震える手でマウスを操作し、表示を拡大した。何度も、何度も。ノイズの上下に、線が隠れているのではないか。神崎の五つの項目を、頭の中で指折り数える。これは、短絡ではない。温度計は、ゆっくり冷やした。測定の限界は、電圧の分解能から数えて、室温の試料の抵抗の、百万分の一より下だ。
ノイズではない。フラットだ。完全にフラットな線が、278Kのところから、モニターの右端まで続いている。
278K。摂氏にすれば、約5度。冷蔵庫の中と同じくらいの温度だ。夏の室温には、まだ、十数度足りない。それでも、液体ヘリウムで冷やす必要のない温度で、抵抗が測定限界より下に落ちた。装置は、四月に初めて見たときと同じ装置だった。高圧も、かけていない。
しばらく、淳は動けなかった。
……本物かもしれない。
喜びよりも先に、奇妙な静けさが、胸の内側を満たした。同時に、頭の隅で、誰かが囁く。——これを、誰に話す? 話していいのか? そもそも、話して、信じてもらえるのか?
廊下の向こうで、何かの扉が閉まる音がした。淳は反射的に、モニターの明るさを最低まで落とし、肩越しに振り返った。
誰もいない。ただの空調の音だ。分かっている。分かっているのに、心臓は、さっきのグラフの線と同じくらい速く動いていた。
しばらくの沈黙のあと、淳はようやく我に返り、実験ノートを開いた。今日の日付を書く。それから、一行。
——抵抗値、測定限界以下を確認。278K。要再測定。
書いてから、その文の形に気づいて、思わずペンを止めた。三十年前の几帳面な筆跡が、ノートの余白に書いていた言葉と、ほとんど同じ形をしていた。「抵抗値、ほぼゼロを確認。再現性あり」「室温付近での転移を疑う。要再測定」。あの人も、こうして書いたのだ。誰にも言えない静けさの中で、たった一人で。
淳は、震える指でキーボードを操作して、測定データを保存した。ファイル名を打ち込む手が、いつもよりずっと遅かった。「第七回・二段階熱処理・降温」。何度も保存先を確認し、バックアップも、別のフォルダに取っておく。この一つのファイルが、これまでの半年以上の積み重ねの、確かな証だった。
念のため、同じ試料を、もう一度冷やして測ってみた。ゆっくりと昇温して、常温まで戻し、また降温する。278K付近で落ちる様子は、変わらなかった。落ち込みの位置は、降温と昇温で、ほとんど重なった。
淳は、二本のグラフを重ねて、印刷した。紙の上でも、二本の線は、ほとんど一本に見えた。紙の端に、日付と、時刻と、条件を、几帳面に書き込む。あとから誰が読んでも、同じ手順を辿れるように。三十年前の誰かは、数値の大事な部分を、別冊にしか残さなかった。淳は、自分の記録は、すべて、この一冊の中に残すと決めた。
淳は、二本目のグラフを、長い間、見つめていた。同じ装置。同じ配線。同じ温度計。これで確かめられるのは、この試料が、この装置の中で、同じ振る舞いをする、ということまでだ。それでも、グラフの線は、確かに、そこにあった。
居室の前を通ると、扉の隙間から、モニターの青い光が漏れていた。桐山が、ヘッドセットをつけたまま、椅子の背にもたれて、眠っている。画面の中では、キャラクターが、誰もいない草原で、立ち尽くしていた。淳は、息を殺して、その前を通り過ぎた。この部屋の誰もが、何も知らない。それが、ほんの少し、可笑しくて、そして、遠かった。
測定室を出ると、廊下の窓の外は、まだ真っ暗だった。淳は試料の入ったケースを、両手でそっと包み込むようにして持った。指先が、まだ微かに震えている。
これから、どうすればいい。
高揚感の裏側で、その問いが、じわじわと淳の中に広がり始めていた。神崎に見せれば、きっと驚くだろう。だが、その先に何が起きるのか、淳にはまだ想像がつかなかった。神崎自身の言葉が、耳の奥で鳴った。抵抗のゼロは、たった一本の糸でも出る。
本物かもしれない。ゼロに見えるだけかもしれない。その二つの間で、淳の心は、夜明け前の廊下で、ゆっくりと揺れていた。
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