新年、二段階の熱処理
年が明け、研究室に活気が戻ってきた。「今年もよろしく」「今年こそ卒論頑張ろうな」と、あちこちで新年の挨拶が交わされる。桐山は正月休みもゲーム三昧だったらしく、開口一番「今年の抱負、フレンドと一緒に大型アプデ攻略しきること」と胸を張って、秋山に呆れられていた。大久保は帰省先で食べすぎたと腹をさすり、神崎は「今年も淳くんをちゃんと一人前にする」と、いつも通りの調子で笑った。
そんな変わらない研究室の空気の中で、淳の内側だけは、静かに張り詰めていた。正月休みの間、実家で何度もノートのコピーを読み返していた。原料の状態、混合、冷却。三つの条件を揃えても、六度目までは完全な成功に至らなかった。何かが、まだ足りない。
答えの手がかりを見つけたのは、松の内が明けたある夜のことだった。珍しく早めに帰宅し、久しぶりにコピー用紙とじっくり向き合った。余白の走り書きを、上から順に指でなぞる。
「原料:使用前に前処理」——処理して、良くなった。「混合:均一になるまで、根気強く」——長くすり潰して、良くなった。「冷却:振動厳禁。夜間、静置」——夜に静置して、さらに近づいた。三つの一行は、失敗を重ねたあとで、ようやく意味が分かった。残っているのは、「熱処理:二段階」だった。
前の三つと違って、この一行だけは、意味が分からないまま読み流している。二回焼く、という解釈は、六度目で試して、外れた。二段階とは、何と何なのか。コピーを裏返して、端の小さな文字にまで目を凝らすと、その一行に寄り添うように、細い字の書き足しがあった。これまでは、端のかすれた小さな字を、余白の落書きの一部だと思って、読み飛ばしていた。「二回焼く」が外れたあとで、二回のあいだに何かあるはずだと考えて、もう一度、端に目を凝らした。すると、かすれた矢印と文字の並びが、初めて、文として読めた。
「焼成→急冷。常温近くまで戻し、再び炉で加熱、徐冷。二段階の熱処理で安定」
淳は思わず、声を漏らした。焼いた試料を、いったん急冷して、常温近くまで下げる。それから、炉に戻して温め直し、今度はゆっくり冷ます。これまでの実験は、焼いて、ゆっくり冷ますだけの一段階だった。ここに、もう一段あったのだ。
「これか……」
淳は、その一行に、赤ペンで丸をつけた。
それから、しばらく、動けなかった。四月の試料合成室で、神崎が言っていた言葉が、耳の奥で鳴っていた。「この系はゆっくり冷ますって決まってるの」。急冷は厳禁。急に冷やすと、試料が割れたり、変な相ができたりする。正規のテーマの、常識だった。
けれど、あのノートの系統は、正規のテーマの系統では、ない。
なぜ、そんな回りくどいことをするのか。淳は、自分なりに考えてみた。急に冷やした試料には、結晶の中に、細かい歪みや欠陥が閉じ込められる。そこへ、もう一度熱を与え、ゆっくり冷まし直せば、原子が落ち着く場所に並び直す時間が生まれるのかもしれない。金属材料の世界には、「焼きなまし」と呼ばれる、歪みを取り除く処理があると、授業で聞いたことがあった。似た原理なのかもしれない。
正しいかどうかは、分からない。ただ、試してみる価値はあった。
翌日の昼、淳は、大久保が缶コーヒーを飲んでいる席の隣に、腰を下ろした。
「大久保さん、ちょっと相談させてください。卒論の条件出しで、急冷と再加熱の組み合わせを考えていて。一般的に、どういう効果があるんですか」
「急冷と再加熱?」大久保は、缶を置いた。「珍しいこと聞くな。この系じゃやらない手順だろ」
「あくまで一般論として。勉強のために」
「まあ、いいけど」大久保は、テーブルの上のナプキンに、鉛筆で、二つの山を描いた。「たとえば鋼の、焼入れと焼戻し。高温から一気に冷やして、硬いけど脆い状態を作る。そのままだと使えないから、もう一度、低めの温度に温め直して、少しだけ緩める。そうすると、硬さと粘りの、ちょうどいいところに落ち着く」
「急冷で作った状態を、あとから、緩める」
「そう。急冷って、本来なら、高温でしか安定しない状態を、凍らせて、無理やり残す操作なんだよ。準安定、って言い方をする。そのまま放っておくと、いつかは、安定な状態に戻ろうとする。だから、戻り切らない、ちょうどいいところで止める」大久保は、ナプキンの山に、矢印を引いた。「材料によっては、その準安定な状態だけが、面白い性質を持ってたりする。だから、熱処理は、掘ると深いんだ」
「準安定な状態が、面白い性質を」
「うん。ただ、難しいぞ。温度が高すぎたら戻っちゃうし、低すぎたら緩まない。条件が、針の穴を通すみたいに狭い。だから再現性も、悪くなる」大久保は、ナプキンを丸めながら笑った。「まあ、卒論でやるなら、覚悟しとけ。失敗の山だ」
「ありがとうございます」
淳は頭を下げて、ナプキンを、こっそりポケットに入れた。二つの山と、一本の矢印。ノートの端の書き足しの意味が、ようやく、一つの絵になった。
準備は、周到に進めた。原料は、真空炉で前処理を済ませたものが、十分に残っている。量る。長くすり潰す。坩堝に詰める。ここまでは、もう、身体が覚えている手順だった。
一月半ばの休日、淳は、午前のうちに正規のテーマの実験を片付けて、昼から、一人、試料合成室に入った。誰もいない部屋で、空調を最小限に絞る。炉の温度プログラムは、一段階目を、いつもの八百度に。焼き上がったら、炉から出して、一気に冷やす。急冷は厳禁と教わった手順を、あえて破る。飛び散ることも考えて、保護メガネと耐熱手袋は、いつもより厚いものに替えた。常温近くまで下げて、数時間、置く。それから、炉に戻して、今度は二段階目の温度まで、ゆっくり上げる。そのあと、振動のない深夜に、ゆっくりと冷ます。
急冷の温度も、再加熱の温度も、ノートには書かれていない。六度目は、二回目も八百度で焼いて、何も変わらなかった。同じ温度では動かないのなら、ナプキンの山のとおり、鍵は、一段階目よりずっと低い温度にあるのかもしれない。淳は、その仮説を頼りに、再加熱の温度を、一段階目より、ずっと低く決めた。針の穴を通すような条件。当たる保証は、どこにもなかった。
炉の前で待つ間、淳はスマートフォンのアラームを何重にも設定し、椅子に座ったまま、じっと制御パネルの表示を見つめた。誰もいない研究室の静けさが、いつも以上に心強く感じられた。
一段階目が終わって、炉の扉を開けると、熱気が顔を打った。耐熱手袋をはめ、トングで坩堝を出して、金属の板の上に置く。灰色の塊が、じわじわと赤みを失い、色を落としていく。これまでのゆっくりとした冷却とは、まるで違う、慌ただしい冷え方だった。割れないだろうか。指先が、ひやりとする。
しばらくして、塊は、手で触れる温度まで下がった。ひびは、入っていなかった。淳は息を吐いて、数時間、休ませてから、炉に戻した。
二段階目の冷却が終わったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。淳は慎重に試料を取り出し、いつもと同じように、測定室へ向かった。手のひらの上の小さな塊を、もう一度だけ光にかざした。見た目には、これまでの試料と、大きな違いはない。それでも、淳の胸の中では、これまでにない確信めいた予感が、膨らんでいた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




