幕間・正月帰省、年末の車窓
年末の在来線は、帰省客でいつもより混み合っていた。淳は満員に近い車内で、鞄を抱えるようにして立ち続けた。窓の外には、冬枯れの田んぼと、灰色の空が広がっている。
この一年の車窓を、淳は思い出した。四月の期待と不安、八月の夏の田んぼ、そして今、年の瀬の冬枯れた景色。同じ路線の同じ景色が、季節ごとに、まるで違う顔を見せていた。
実家に着くと、玄関先で母が出迎えてくれた。
「おかえり。今年は早めね」
「うん、年内に片付けたいこと、大体片付いたから」
嘘ではなかった。ただ、その「片付けたいこと」の中身の大部分は、母には決して言えないものだった。
大晦日の夜、家族揃って炬燵を囲み、紅白歌合戦を眺めながら、年越し蕎麦をすすった。祖母が「今年も一年、無事に過ごせて何よりだねえ」としみじみつぶやくと、父が「淳の研究も順調そうだしな」と相槌を打った。
「順調かどうかは、まだ分からないけど」淳は苦笑いしながら答えた。
「淳らしい謙遜だな」父はそう言って、みかんを一つ、淳に放った。
年越しの少し前、台所で、祖母が困った顔で、電気ポットを持て余していた。
「お湯が沸いても、切れなくてねえ。ずっと、ぐらぐらしてるんだよ」
「見せて」
淳は、プラグを抜いて、しっかり冷めているのを確かめてから、ポットの底のねじを外して、中を覗いた。温度で切り替わる、小さな金属の板の、接点が、黒く焼けている。熱で反り返って接点を切る仕組みのはずが、焼けた接点が、くっついてしまっていた。淳は、紙やすりで接点の表面を磨き、組み直した。
「これで、どう?」
お湯が沸いて、カチリと、ポットが自分で電源を切った。
「あらまあ」祖母は、目を丸くした。「あんたは、魔法使いみたいだねえ」
「魔法じゃないよ。ただ、温度で反る板が、スイッチの代わりをしてるだけ」
「それが、魔法だよ」祖母は、笑って、湯呑みにお湯を注いだ。淳は、その湯気を眺めながら、思った。温度で、性質が切り替わる。ある温度を境に、ふるまいが、がらりと変わる。子供の頃から、自分が惹かれてきたのは、こういうものだったのかもしれない。
食後、父と二人で台所の片付けをしていると、父が、皿を拭きながら、ぽつりと言った。
「淳。お父さんの仕事にはな、守秘義務ってのがある。家族にも、言えない話がある」
「うん」
「それは、悪いことじゃない。約束は、約束だ。ただな」父は、皿を棚に戻した。「一人で全部抱えるのだけは、やめとけ。誰か一人でいい。本当のことを話せる相手を、ちゃんと持っておけ。それが家族じゃなくても、友達でも、先輩でも」
淳の手が、止まった。
「……なんで、そんなこと」
「なんとなくだ。お前、去年より、話さないことが、増えたからな」父は、布巾を絞って、淳に手渡した。「話さなくていい。ただ、話せる人は、いるか」
淳は、少しだけ考えてから、頷いた。
「いる、と思う」
「そうか。ならいい」父は、それ以上は聞かず、洗い物に戻った。
食事が済んだあと、淳は、物置の奥に、古い段ボールがあるのを思い出した。子供の頃のものをしまってある箱だった。母に断って開けてみると、色褪せたアルバムや、賞状に混じって、一枚の薄いパンフレットが出てきた。
科学館の、展示案内だった。
表紙の隅に、鉛筆の拙い字で、名前が書いてある。「さえきじゅん」。ページをめくると、「ちょうでんどう」という展示の頁に、ボールペンで、大きく丸がついていた。その余白に、子供の字で、こう書き添えてあった。
——ぼくも、これを、つくるひとに、なりたい。
淳は、しばらく、その一行を見つめていた。覚えていなかった。あの日の歓声のことは覚えていた。理屈が分からなかったことも。けれど、自分が、こんな一行を、書き残していたことは、まるで記憶になかった。
大学受験のときも、研究室配属のときも、大きな決断らしい決断をした覚えはなかった。面白そうなものを追いかけて、ここまで来ただけだと思っていた。けれど、その道の入り口には、小さな、決断のようなものが、確かにあったのだ。
淳は、パンフレットをそっと元の箱に戻し、蓋を閉めた。
紅白が終わり、近所の神社まで初詣に出かける頃には、外はすっかり冷え込んでいた。吐く息が白く染まり、参道の提灯の明かりが、暗闇の中に温かく浮かび上がっている。
「今年こそ、良いことありますように」母が両手を合わせながらつぶやいた。
淳も賽銭を投げ入れ、目を閉じた。何を願うべきか、少しだけ迷った。正規のテーマの成功。それとも、もう一つの、誰にも言えない探求の成就。結局、淳はどちらとも言葉にせず、ただ、「今年も一年、悔いのないように」とだけ、心の中で唱えた。
その夜、淳は、実家の自分の部屋の机で、ノートに、これまでの六回の結果を、一つの表にまとめた。試行の番号、条件、転移の幅、下げ止まったときの抵抗の値。数字を並べて、グラフにしてみる。
原料の処理で、下げ止まりの抵抗が、ほぼ半分になった。混合の一時間で、さらに半分。夜の冷却で、もう一度、半分近く。三つの改善が、それぞれ、同じくらいの割合で、抵抗の残りを減らしている。
「……まだ、下がる」
淳は、鉛筆で、グラフの延長を、点線で描いた。このまま、あと一段階、同じように改善できれば、残りの抵抗は、測定の限界を下回る。そう読める。根拠は、たった四つの点だけだ。あてにならない外挿だと、分かっていた。それでも、点線の先には、確かな手応えがあった。
足りないのは、あと一段階。二回焼く、は、外れた。では、何か。窓の外の冬の星空を見上げながら、淳は、ノートの余白の四つの走り書きを、もう一度、頭の中で読み返した。
元日の朝、淳は一人で近所を散歩した。商店街の店は、ほとんどまだ閉まっていて、息を吐くたびに白い靄が、宙に消えていく。
「今年は、正念場だな」
誰に言うでもなく、淳は小さくつぶやいた。三つの条件を突き詰めても、まだ完全な成功には至っていない。それでも、答えはもうすぐそこにある、という確信だけは、揺るがなかった。
二日目の午後、親戚が集まる新年会があった。久しぶりに顔を合わせるいとこたちに、進路や近況を聞かれ、淳は当たり障りのない答えを繰り返した。
「淳くん、就職はどうするの? 院に進むの?」
「まだ決めてないんですけど、たぶん進学すると思います」
「大学院かあ、偉いね」年配の親戚が感心したように言った。「研究、面白い?」
「はい、面白いです」
その一言に、嘘はなかった。それでも、面白さの本当の理由の半分は、この場の誰にも話せないものだった。祖母がお雑煮を勧めてくれるたびに、淳は素直に手を伸ばしながら、こうした穏やかな時間の尊さを思った。
帰り際、駅まで見送りに来た母が、いつものように手を振った。
「無理しすぎないでね」
「分かってる」
電車が都会に近づくにつれ、景色は少しずつビル群に変わっていった。膝の上の鞄には、母が持たせてくれたおせちの残りと、あのノートのコピーが、並んで収まっている。三十年前の几帳面な筆跡と、子供の頃の拙い字。二つの「つくりたい」が、淳の胸の中で、並んで静かに揺れていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




