鍋パーティ、湯気の向こうの質問
十二月に入り、研究室の恒例行事である鍋パーティが開かれることになった。会場は、学生居室の隣にある共有スペース。今年も幹事は大久保で、卓上コンロと土鍋がいくつも用意された。
準備の前日、大久保は珍しく真剣な顔で、買い出しのリストを見直していた。
「大久保さん、そんなに気合入れなくても」
「いや、BBQがうまくいったから、鍋でも決めたいんだよ」
「去年のBBQの実績を考えると、あんま信用できないっすけどね」桐山が横から茶々を入れる。
「今年のBBQは成功したろ。鍋は火加減シンプルだから大丈夫だって」
「大久保さんが火加減間違えて、片方焦がさなければいいですけどね」神崎がすかさず言うと、大久保は苦笑いしながら、買い出しのリストに「予備のガス缶」と書き足した。
翌日の夕方、具材を切り分け、白菜や豆腐を鍋に入れながら、研究室のメンバーが次々と席に着いていく。神崎、桐山、大久保、本多、秋山、蓮見。そして、少し遅れて、御堂も顔を出した。
「先生、今年もちゃんと来てくれましたね」神崎が声をかけると、御堂は小さく頷いた。
「毎年のことだ」
その一言に、淳は、五月のBBQでの光景を思い出した。あのときと同じ、律儀な参加の仕方だった。
「先生、鍋は好きな具材あります?」桐山が気軽に聞くと、御堂は少し考えてから答えた。
「白菜と豆腐が入っていれば、それでいい」
「シンプルっすね」
「若い頃から、そうだ」
その一言に、淳は思わず耳をそばだてた。「若い頃」という言葉の響きに、地下のノートの筆跡が、頭の片隅をかすめる。それ以上、御堂は何も続けなかった。ただ静かに、差し出された取り皿を受け取っただけだった。淳はその横顔を、少しだけ長く見つめてしまった。
鍋が煮え始めると、部屋は湯気と話し声でいっぱいになった。
しばらく歓談が続いたあと、秋山が、湯気の向こうから切り出した。
「そういえば淳、あの予定表の夜の枠、ずっと埋まってるよな」
淳の箸が、一瞬止まった。
「え、うん。条件出しで」
「試料合成室の炉のほう。深夜まで、ずっと動いてる」秋山は、真面目な顔で続けた。「正規のテーマの試料合成って、そんなに夜に冷却を入れる必要、あったっけ。神崎さんのやり方だと、冷却は炉を切って、そのまま放っておけばいいはずだけど」
「私も、そこは聞いてなかったな」神崎が、鍋から顔を上げた。
淳の背中に、冷たい汗が伝った。
「あ、いえ。新しい組成のやつで、冷却プロファイルをちょっと変えてて。時間がかかるんです、それが」
「そうなのか? 神崎さんの指導と違うやり方?」
「まあ、色々試行錯誤中っていうか……」
「ふうん」秋山は、箸を止めて、少し考え込むような顔をした。「でも、変じゃないか。冷却プロファイルを変えるにしても、毎回、そんな深夜までかかるもんなのか」
「冷却の条件を変えるなら、先に教えてね」神崎が言った。責める調子ではなかった。「安全のこともあるから」
「はい。近いうちに、ちゃんと報告します」淳はなんとか笑顔を保ちながら答えた。「本当に、そのつもりです」
「なら、いいけど」秋山はまだ少し腑に落ちない様子だったが、それ以上は追及の手を緩めた。「まあ、無理すんなよ。身体壊したら元も子もないし」
「ありがとう、気をつける」
淳は、なんとかその場を切り抜けた。もう少しで、致命的な質問が飛んでくるところだった。秋山は、手帳の升目に、何かを短く書き足していた。淳は、それが自分の夜のことではないと、信じることにした。
そのあと、本多が、湯呑みを片手に、淳の隣に来た。
「佐伯くん、来年の鍋は、自分はもういないんだよな」本多は、湯気の向こうで、照れくさそうに笑った。「修論、なんとか間に合いそうだけど。最後の追い込みで、また色々あるだろうな」
「本多さんなら、大丈夫ですよ」
「ありがとう。……佐伯くんは、なんか、いいな。目的があるやつの顔してる」
「そう、ですか」
「就活の面接でさ、『あなたの研究で、一番面白かったことは』って聞かれるんだ。ちゃんと答えられるやつは、強い」本多は、湯呑みを傾けた。「自分の言葉で言えることが、一つあれば、大丈夫」
その一言が、淳の胸に、静かに残った。自分の言葉で言えること。今の自分に、それはあるのだろうか。あるとしても、誰にも言えない。
「淳、鍋の取り皿、持ってきて」
取り皿を取りに、共有スペースの奥の流しへ向かうと、冷蔵庫のそばで、蓮見と御堂が、小声で話していた。
「先生、地下の私物の箱は、その後、どうされましたか。整理のリストに載っていたものですが」
「あれは、昔の学生の預かりものだ」御堂は、湯呑みを傾けながら、淡々と答えた。「私が引き取った。問題ない」
「そうですか。学科への報告は」
「不要だ」
淳は、皿を持つ手を、止めた。昔の学生。預かりもの。御堂の口調には、いつもと同じ、動揺の欠片もなかった。淳は足音を立てないように、その場を離れた。御堂は、あの箱のことを、はっきり知っている。そして、それを、誰にも詳しく話すつもりがない。
振り返ると、秋山はもう、別の話題で桐山と笑い合っていた。
鍋パーティは、和やかな雰囲気のまま、夜遅くまで続いた。御堂は例年通り、途中で少し顔を出しただけで、早めに退室していった。それでも、去り際に、全員に向けて、一言だけ声をかけていった。
「今年も、一年お疲れ様。良い年を」
短い挨拶だったが、その声には、いつもより柔らかな響きがあった。
片付けの最中、神崎が淳の隣で、鍋の道具を洗いながら、ふと口を開いた。
「今年一年、淳くんの成長、ちゃんと見てたよ。最初の頃の危なっかしさが、もう嘘みたい」
「先輩の指導のおかげです、本当に」
「まあ、半分はね」神崎は、少しいたずらっぽく笑った。「残り半分は、淳くん自身の頑張り。それは、ちゃんと誇っていいと思う。最近の淳くん、順番も、ちゃんと守れてるしね。驚くのは、最後」
淳は、泡のついた手を止めた。あの日、初めての測定のあとに聞いた言葉だった。
「はい」淳は答えた。「まだ、驚いてないです」
「それでいい。驚くのは、いつでもできるから」
何も話せていないのに、この人は、自分の頑張りを、ちゃんと見ていてくれる。その事実が、嬉しくて、同時に、少しだけ痛かった。
片付けが終わり、みんなが三々五々帰路につく中、淳は一人、最後まで居室に残っていた。鍋の匂いがまだ微かに漂う部屋の中で、椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。
原料の状態、混合、冷却。三つの条件は、どれも効いたように見える。ただ、夜間も空調もポンプも、一度に変えた。どれがどう効いたのかは、まだ切り分けられていない。それでも、まだ何かが足りない。年明けにもう一度、条件を洗い直そう。淳はそう決めて、ノートのコピーを鞄にしまった。
「今度こそ」
誰もいない部屋に、その一言だけが小さく響いた。淳は鞄を肩にかけ、明かりを消して、静まり返った研究室をあとにした。廊下の窓から見える夜空には、都会にしては珍しく、いくつかの星がかすかに瞬いていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




