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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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四度目の測定、あと少しの壁

十一月最初の測定予約が取れた日、淳はようやく、四度目の試料の結果を確認することができた。深夜の測定室、モニターに映るグラフを見つめながら、淳は息を詰めた。


温度が下がるにつれ、抵抗値は、前回よりもさらに急な角度で落ち込んでいった。ほとんどゼロに近い値まで下がり、そこで小さく揺らぎながら、横ばいになる。完全なゼロではない。それでも、これまでの四回の中で、間違いなく一番近い結果だった。


「あと、ちょっとなんだよな……」


グラフを何度も見返しながら、淳はつぶやいた。悔しさより、答えに指先が触れかけている手応えのほうが強かった。原料の状態、混合の細かさ、冷却時の振動。三つの条件を、それぞれ手当てしても、まだ足りない何かがある。


三つの失敗を経て、淳は、自分の中に、これまでにない集中力が育っているのを感じていた。正規のテーマと裏の実験を掛け持ちする生活は、確かに時間を圧迫している。それでも、疲労感よりも、謎を一つずつ解き明かしていく高揚感のほうが、はるかに勝っていた。三十年前の誰かが、おそらく同じように壁にぶつかりながら見つけ出した条件を、淳は今、自分の手で一から辿り直している。ノートの余白の一行一行が、失敗のあとで、ようやく意味を持って読めるようになっていた。


十一月の第一週は、大学の学祭だった。研究室では、毎年、工学部棟の一室を使って、一般向けの展示をする。今年の目玉は、超伝導の浮上実験だった。初日の午後、その説明係の一人に、淳は指名された。


「淳くん、去年の私と同じ顔してたのは、もう昔の話だからね」神崎は、液体窒素の魔法瓶と、黒い円盤と、小さな磁石を、机の上に並べた。「今度は、見せる側」


来場者は、親子連れが多かった。淳は白衣の袖をまくり、皿に液体窒素を注ぐ。じゅっと泡が立ち、静まる。ピンセットで円盤を沈め、磁石を、そっと置く。


磁石が、ふわりと浮いた。


「わあ」


小学校の低学年くらいの男の子が、目を丸くして、机の縁にしがみついた。


「なんで浮いてるの?」


「この円盤はね、すごく冷やすと、磁石を中に入れなくなるんだ。磁石が近づくと、押し返す。だから、浮く」


「ふうん。冷やさなくても、浮く?」


淳は、一瞬、言葉に詰まった。


「……まだ、誰も、見つけてないんだ」


「じゃあ、お兄さんが、見つけて」男の子は、真剣な顔で言った。


淳は、笑って頷いた。あの日、歓声を上げた自分が、いま、同じ机の反対側に立っている。隣で、神崎が、何も言わずに、ほんの少しだけ、口元を緩めていた。


その頃、淳の夜は、研究室の中でも、少しだけ人目に触れるようになっていた。


十一月の第一週。冷却プログラムを待つ間、淳が試料合成室で椅子に座っていると、ドアが開いた。


「うわ、やっぱり」


入ってきたのは、桐山だった。パーカーのフードを首元に垂らし、片手にマグカップを持っている。


「桐山さん、まだいたんですか」


「僕は、居室で徹夜してるからな。廊下の電気、毎晩ついてるのが見えるんだよ、ここ」桐山はドアにもたれた。「最近、夜中、ずっと籠ってるだろ。何やってんの」


淳の背中に、冷たいものが走った。


「冷却の条件出しです。夜のほうが、振動が少なくて」


「へえ、ガチだな」桐山はマグカップに口をつけて、にやりと笑った。「もしかして、室温超伝導でも作ってんじゃないの?」


淳の呼吸が、一瞬、止まった。


「……まさか。そんな話、真面目に言わないでくださいよ」


「冗談冗談。だってさ、夜中に一人で炉の前で座ってるって、そういう感じじゃん。ドラマだと」桐山は声を出して笑った。「ま、淳って、そういう夢のある後輩だよな。今度、ゲームの連中に、ネタにしてみようかな。うちの後輩が、夜な夜な室温超伝導を作ってますって」


「やめてくださいよ」


「はいはい、しないって」桐山は手をひらひらと振って、ドアを閉めた。足音が、居室の方向へ遠ざかっていく。


淳は、しばらく、動けなかった。桐山に、他意はない。ただの冗談だ。夜中に炉の前に座っている後輩に、「室温超伝導」という言葉を、ネタとして投げただけ。桐山は、その言葉が、淳にとって何を意味するのかを、知らないはずだ。少なくとも、淳には、ただの冗談にしか聞こえなかった。


それでも、心臓は、しばらく、大きく打ち続けていた。


数日後の進捗報告会で、淳は緊張しながらも、これまでのデータを、堂々と発表した。臨界電流の測定結果は、着実に改善を重ねている。質疑応答で、御堂から、測定条件の再現性について、鋭い質問が飛んできた。


「このデータのばらつきは、試料ごとの原料の状態の差か、それとも測定条件の違いか、どちらに起因すると考えている?」


淳は一瞬、心臓が跳ねた。まるで、裏の実験のことを見透かされているような気がしたからだ。それでも、質問自体は、正規のテーマのデータに関するものだった。淳は落ち着いて、自分の分析を答えた。


「主に試料側の、原料の状態の差だと考えています。測定条件は、できる限り毎回同じ手順で統一しているので」


「なるほど。その通りなら、次は、原料の前処理と保管を、もう一段厳しく管理すると、データの再現性が上がるはずだ」御堂はそう言うと、小さく頷いた。「良いペースだ」


淳は素直に嬉しかった。それと同時に、御堂の質問が、正規のテーマと裏の実験の両方に、奇妙な形で重なって聞こえたことに、内心で戸惑ってもいた。御堂は、まるで、その助言が、裏の実験にも効くことを、知っているかのようだった。もちろん、そんなはずはない。ただの偶然だ。


十一月の終わり、淳は、五度目、六度目の実験に挑んだ。四度目の手順を、これまで以上に丁寧に揃え、坩堝の中の試料の位置まで固定した。それでも、抵抗値は、ほぼゼロに近いところまで落ちるものの、完全な平坦線には届かない。秤量記録、混合時間、冷却プログラムのログ。すべてを見比べても、四度目との違いは、見当たらなかった。


六度目では、走り書きの「熱処理:二段階」を、二回焼くという意味に読んで、同じ試料を、もう一度炉に入れてみた。結果は、五度目とほとんど変わらなかった。二回焼くことに、意味はなかった。


条件を一つ潰すたびに、答えが少しずつ絞り込まれていく感覚はあった。全体の輪郭は、確実に見えてきている。それでも、自分がまだ気づいていない、もっと根本的な何かが足りないのかもしれない、という疑いが、頭の片隅に芽生え始めていた。


正規のテーマの合間、淳は、もう一度ノートのコピーを広げた。何度も読んだはずの余白の走り書きに、まだ意味を掴めていない一行が、残っている気がした。

お読みいただきありがとうございます。

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