冷却、深夜の振動
三度目の結果を受けて、淳は、さらに原因を探り続けた。原料の状態と、混合の細かさ。この二つを改善したことで、結果は着実に良くなっている。それでも、何かが決定的に足りない。
手がかりは、これも最初からノートの中にあった。ある夜、冷却の工程を見直していて、淳は余白の走り書きを読み返した。
「冷却:振動厳禁。夜間、静置」
これまでの実験では、炉が冷えていく数時間に、朝の人の出入りが重なることが多かった。廊下を歩く足音、隣の実験室のドアの開閉、空調の唸り。普段は気にも留めない、微細な振動。それが、冷却中の結晶の並び方に、影響しているのかもしれない。「静置」は、ただ置いておけ、ではなく、揺らすな、という意味だったのだ。
「本当に、そんなに揺れてるのか」
仮説を、仮説のまま信じるのは、危うい。淳は、四月に神崎から教わったことを、思い出した。驚くのは、最後。まず、測る。
念のため、淳は、正規のテーマの合間に、神崎にそれとなく聞いてみた。
「先輩、焼いたあとの冷却中に、炉の周りの振動って、試料に影響しますか」
「振動?」神崎は、少し考える顔をした。「この系だと、あんまり聞かないな。振動よりは、冷却の速さと、部屋の温度のゆらぎのほうが、効くことが多いよ。昼間は、空調が入ったり切れたりで、炉の周りの温度も、少し波打つから」
「……そうなんですね」
淳は、それをノートに書き留めた。振動は、あまり効かない、という一般論。けれど、あのノートの筆者は、「振動厳禁」と書いている。この系は、一般論の外にあるのかもしれない。淳は、そう考えて、仮説を、そのままにした。
翌朝と、その夜。淳は、自分のスマートフォンを、炉の脚の脇の棚に、そっと置いた。加速度を記録するアプリを起動して、画面を伏せる。三十分ごとの、揺れの大きさが、時系列で残る。実験室の中にいるだけで、記録は取れる。
朝の十時半。スマートフォンのグラフは、細かく、絶えず、ぎざぎざに揺れていた。ときおり、鋭く跳ね上がる。廊下を誰かが通った時刻と、ぴたりと合う。隣の部屋でポンプが動く音がすると、細い山が、しばらく続いた。空調の吹き出し口の方向からは、一定の、低い帯が、途切れずに流れていた。
壁の温湿度計は、朝よりも、湿度が少し低い数字を示していた。その夜、日付が変わる頃、淳は同じ棚に、スマートフォンを置いた。廊下の足音は、もうない。隣のポンプも、止まっている。それでも、低い帯が、消えない。空調だ。淳は、空調の設定を、最小限まで絞った。しばらくして、帯が、細くなった。やがて、ほとんど見えなくなった。
深夜のグラフは、ほとんど平らだった。朝のそれと並べると、山脈と、湖面くらいの違いがあった。
「……こんなに、違うんだ」
淳は、しばらく、二枚のグラフを見比べていた。廊下も、隣の部屋も、空調も。この建物は、昼のあいだ、絶えず、微かに揺れている。夜の間だけ、ほんのわずかな時間だけ、静かになる。あのノートの筆者は、これに気づいていたのかもしれない。だから、書いたのかもしれない。「夜間、静置」と。
そして、考えてみれば、こっそり実験をしている淳にとって、人通りの少ない深夜は、もともと都合のいい時間帯だった。誰にも見られたくないという理由で選んでいた時間が、実は実験の成功条件そのものでもあった。淳は、思わず笑いがこみ上げてきた。秘密裏に進めるための必要が、そのまま、科学的な理由と重なっているのかもしれない。パズルのピースが、思わぬところで、はまりかけたような感覚だった。
研究室のある工学部棟は、午後九時を過ぎると、正面の扉が施錠される。夜間に出入りする学生は、裏口の守衛室で、名前と入館の時刻を、帳簿に書く決まりだった。
その夜も、淳は、いつもより遅い時刻に、帳簿に名前を書いた。
「今夜も、遅いですね」守衛の山口さんが、眼鏡の奥で穏やかに笑った。定年を過ぎて再雇用された、と以前に聞いた。夜勤の人だ。
「実験が、夜のほうが、静かなので」
「熱心なのは、いいことです。私なんか、若い頃は、夜が怖くてね」山口さんは、帳簿を閉じた。「帰りの時刻も、忘れずに」山口さんは、魔法瓶の茶を紙コップに注いで、差し出してくれた。「夜は冷えますから」
「ありがとうございます」
淳は、温かい紙コップを両手で包んで、頭を下げた。この人は、名前と時刻を書かせる人であり、同時に、茶を差し出してくれる人でもあった。
帳簿の頁には、淳の名前が、この二か月のあいだ、何度も並んでいた。毎晩というほどではない。それでも、他の学生に比べれば、明らかに多い。書きながら、淳は、ふと、その頁の名前と時刻が、誰かの目に留まる日のことを、想像した。すぐに、想像するのをやめた。
冷却のプログラムは、昼でも夜でも、同じものを使う。速さは、これまでの三回と、変えない。変えるのは、冷やす時間帯だけ。淳は、そう決めた。一因子ずつ、という原則に、忠実なつもりだった。
四度目の挑戦の夜、淳は、日付が変わる頃まで研究室に残り、誰もいなくなったのを確認してから、作業を始めた。試料合成室の空調を最小限に絞り、炉の周りの振動源になりそうなものを、できる限り遠ざける。真空ポンプは、隣の部屋のものまで、止めた。冷却プログラムを開始してからは、椅子にじっと座り込み、炉の様子を、静かに見守った。
深夜二時を過ぎた頃、淳はふと睡魔に襲われ、椅子に座ったまま、少しだけうとうとしてしまった。ハッと目を覚まし、慌てて炉のモニターを確認する。温度プログラムは、幸い、問題なく進行していた。冷や汗をかきながら、淳は自分の頬を軽く叩いて、眠気を追い払った。
窓の外が白み始める頃、ようやく冷却プログラムが終了した。淳は慎重に炉を開け、試料を取り出した。手のひらの上の小さな塊を、蛍光灯の光にかざしてみる。これまでの三回とは、心なしか、表面の質感が違って見えた。気のせいかもしれない。それでも、淳の胸の中では、小さな期待が、静かに膨らんでいた。
明け方の測定室で、淳は、誰もいないのをいいことに、その場で簡易的な抵抗測定だけでも試してみようかと考えた。だが、本格的な測定には予約が必要で、装置も正規のテーマで埋まっている。今日のところは我慢するしかない、と淳は自分に言い聞かせ、試料を大切にケースにしまった。
ノートのページを開いて、その夜の記録を書き足した。「冷却:夜間。空調は最小限、隣室のポンプ停止。振動、スマホで確認(朝と比べ、ほぼ平ら)」。書いてから、淳は、ふと手を止めた。空調を止めたのは、揺れを消すためだった。けれど、空調は、部屋の空気を動かしてもいる。ペンを持ったまま、その二つの違いを、考えかけた。
しかし、眠気が、その先の思考を、そっと押し流していった。淳は、ノートを閉じて、始発電車に間に合うよう、研究室をあとにした。
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