混合の一時間
正規のテーマの作業中、淳は、さりげなく神崎に尋ねてみた。
「先輩、混合の時間って、長くすればするほど良くなるものなんですか」
「一概には言えないけど、粒が細かくて均一なほど、反応にムラが出にくいのは確か」神崎は乳鉢を見せながら答えた。「表面積が大きくなる分、反応が均等に進みやすくなるから。ただ、やりすぎても意味ないよ。ある程度細かくなったら、それ以上は変わらないし」
「どのくらいが目安なんですか」
「試料の系統にもよるけど、私たちがやってる標準的な組成だと、十五分もあれば十分。それ以上は、正直、気休め程度」神崎は肩をすくめた。「なんで、そんなこと気にしてるの」
「いえ、なんとなく気になって」
淳は当たり障りのない返事でその場をやり過ごしたが、内心では、標準的な組成と、あのノートに記された未知の系統とでは、必要な混合時間が、まるで違うのかもしれない、という仮説が、少しずつ形になっていった。
余白の走り書きには、混合の工程について、「均一になるまで、根気強く」とだけ書かれている。何度も目にしていた一行なのに、「根気強く」が十五分なのか一時間なのか、考えたことがなかった。自分がこれまで、この工程にかけてきたのは、教わった標準の時間だ。そこで、作業を終えていた。
「これじゃ、足りないのか……?」
その日の午後、淳は、大久保の席の前に立った。
「大久保さん、遊星ボールミルって、借りられますか。混合の条件を振りたくて。手でやると、どうしても時間が読めなくて」
「ボールミルか」大久保は、少し考える顔をした。「回してる間、放っておけるから楽なのは確かだけど、この系にはやめといたほうがいいと思うな」
「どうしてですか」
「玉と容器が削れて、そこから混ざりものが入る。あと、原料が空気に触れる。粒を細かくしたい気持ちは分かるけど、混ざりものを入れないほうが大事な系って、あるんだよ」大久保は缶コーヒーを飲んで、続けた。「地味だけど、乳鉢で、ボックスの中で、手でやるのが、案外一番きれいだったりする。腕は、確実に死ぬけど」
「腕が、死ぬ」
「一時間もやったら、翌日、コップも持てなくなる」大久保は、自分の右手首を回してみせた。「まあ、そこまでやる系じゃないから、ふつうは十五分でいいんだけど」
淳は、笑って礼を言った。ボールミルは、選択肢から消えた。残ったのは、手でやる、という一本の道だった。
同じ頃、淳は、神崎に、もう一つの提案をしていた。
「先輩、正規の試料の混合時間も、振ってみていいですか。十五分と、四十分で、臨界電流が変わるか」
「気休めだと思うよ」神崎は、少し眉を寄せた。「十五分で十分だって、これまでのデータで、ずっと言ってきたし」
「気休めかどうか、実測で見てみたくて」
その一言に、神崎は、ふっと吹き出した。「私の言葉を、そのまま返してきた。……分かった。実測で、黒白つけよう。ただし、同じロット、同じ炉、同じ日に焼いて。振るのは、混合時間だけ」
二週間後、二つの試料の臨界電流を、並べた。四十分混ぜた試料のほうが、わずかに、高かった。差は、ほんの数パーセント。
「……差は、数パーセント。この一組だけじゃ、何とも言えない」神崎は、グラフを睨んだ。「でも、誤差の範囲とも、言い切れない。認めるわ。気休めじゃなかったかもしれない。再現できるか、もう一回やろう」
「はい」
「淳くん、最近、条件の振り方が、うまくなったね」神崎は、少しだけ悔しそうに笑った。「意見が違っても、データで決着がつくのは、気持ちいい」
淳は頷いた。その一言が、嬉しくて、少しだけ、痛かった。
三度目の挑戦は、十月の半ばだった。深夜の試料合成室で、淳は、処理済みの原料を、四つ、量り終えた。三つは目標の許容の中、◇は、一粒ずつ落として、〇・〇一四。混ぜる工程は、グローブボックスの中で、乳鉢と乳棒を使う。
乳棒を動かし始めて、十五分が過ぎた。粉は、もう、十分に細かく見える。けれど、淳は手を止めなかった。三十分。腕が、だるくなり始める。四十分。厚いゴム手袋の中で、指先の感覚が、鈍くなっていく。五十分。手首が、じんじんと熱を持った。
円を描くように。押し付けず、縁から中心へ、粉を寄せながら。神崎の手つきを思い出しながら、乳棒を動かした。時計は、見なかった。時間を見ると、余計に長く感じるからだ。
一時間近く、淳は無言で、乳棒を動かし続けた。粉が細かくなるにつれて、乳鉢の中の手応えが、さらさらとした、滑らかなものに変わっていくのが分かった。神崎の言った「反応にムラが出る」という言葉の意味が、指先から、少しずつ理解できてくる。
焼く前の粉を、十五分混ぜたものと、一時間混ぜたものとで、顕微鏡で比べてみた。十五分のほうは、大小の粒が、まだらに混じっている。一時間のほうは、粒の大きさが、ほとんど揃っていた。目で見て分かる差だった。「反応にムラが出る」というのは、この、大小の粒のことなのかもしれない。
翌朝、淳は、コップを持つ手が、確かに、かすかに震えているのを見た。大久保の言った通りだった。
測定の夜、淳は、ほとんど祈るような気持ちで、モニターを見つめた。温度が下がり、抵抗値が落ちていく。落ち方は、以前よりも、明らかに急だった。転移の幅を、グラフの上で測ってみる。最初の一回目に比べて、幅が、およそ半分になっている。神崎の言った、「幅が広いのは、ムラのサイン」。その裏返しなら、ムラが減ったのかもしれない。焼いたあとの中身までは、まだ見ていない。
念のため、淳は、一時間のところで粉を半分取り分け、残りをさらに三十分混ぜて、九十分の試料にした。三度目と同じ合成から分けた条件の比較で、回数には数えない。焼いて、同じ夜の測定に並べた。転移の幅は、一時間のものと、ほとんど変わらなかった。神崎の言った、「ある程度細かくなったら、それ以上は変わらない」。この二つの試料では、その通りだった。一時間で、頭打ちに見えた。標準の十五分は、足りなかった。でも、三時間まで、続ける必要もなかった。
それでも、完全なゼロには、あと一歩、届かなかった。
「惜しい……」
グラフを見つめながら、淳は思わず声を漏らした。悔しさよりも、むしろ興奮の方が勝っていた。答えに近づいている、という確かな手応えがあった。まるで、少しずつピントが合っていく望遠鏡を覗いているような感覚だった。あと少し。あと一段階、何かを合わせれば、きっと像が結ぶ。
淳は、ノートの升目の、次の欄を見た。「条件C:冷却」。混合の一時間の成果を、丁寧に書き足してから、鉛筆の先を、その次の行に、動かした。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




