学会の会場、三つの証拠
九月の最後の週、大久保が、学会で発表することになった。春に続く、二度目の学会だという。
「淳くん、一度、見ておいたほうがいいよ」神崎が、そう言って、淳に声をかけた。「発表は、資料で読むのと、生で聞くのとでは、まるで別物だから。蓮見さんに、見学の旅費を出してもらえるか聞いてみた。大丈夫だって」
「行きます」
淳は、即答していた。研究室の外の世界を、見たかった。それに、あの、決して口にできない問いを抱えたまま、日常の中にいる時間を、少しだけ離れてみたい気持ちもあった。
新幹線の指定席で、大久保は「どっこいしょ」と腰を下ろし、すぐにポスターの筒を、網棚に大事そうに載せた。
「緊張してます?」
「するに決まってんだろ。去年のBBQの着火より、緊張してる」
「それは、相当ですね」
「うるさいな、後輩のくせに」大久保は、窓の外の景色に目をやって、深呼吸をした。隣の席の神崎は、ノートパソコンを膝に開いて、自分の資料の最後の確認をしている。指先の動きに、少しの迷いもなかった。
会場は、地方都市の大学の、いくつもの建物に分かれていた。人が多かった。ロビーには、企業のブースと、ポスターの掲示板が並び、名札を下げた人たちが、それぞれの目的の教室へ、足早に歩いていく。
午後のポスター発表で、大久保は、自作の大きなポスターを、パネルに貼った。「焼結条件の最適化——冷却速度依存性」。淳は、少し離れたところから、その様子を見ていた。
最初の質問者は、白髪まじりの男性だった。ポスターの一枚のグラフを指さして、「この点、外れていませんか」と、いきなり問い詰める。大久保の肩が、ぴくりと動いた。
「あ、はい、その点は、測定の再現を取ったんですが、同じ位置に出まして」
「同じ位置に出たのなら、外れ値ではなく、何か別の理由がある、ということになりますね」
「……そう、思います。まだ、説明できていないんですが」
「では、もう一つ、条件を振ってみては」
「はい。次の実験で」
やり取りは、それで終わった。
二人目の来訪者は、作業服の上に上着を羽織った、四十代の男性だった。名刺を差し出す。焼結材料を扱う、メーカーの研究所の人だった。
「冷却速度の依存性、うちでも、ずっと悩んでいるところなんです。よかったら、今度、話を聞かせてもらえませんか」
「あ、はい、ぜひ」大久保は、両手で名刺を受け取って、深々と頭を下げた。男性が去ってから、名刺を見つめたまま、しばらく固まっていた。
「太一、名刺、逆さ」神崎が、小声で言った。
「え、あ、本当だ」
大久保は、名刺を持ち直してから、大きく息を吐いた。そして、ノートに、今の指摘を、必死に書き留めていた。淳は、その背中を見ながら、思っていた。批判をされても、逃げず、書き留める。あの人は、本当に、強いのかもしれない。
「どうだった?」神崎が、隣に立って、小声で聞いた。
「勉強になります。大久保さん、格好いいです」
「本人には、言わないでおいてあげて」神崎は、笑った。
夕方の招待講演の教室は、満席だった。壇上に立ったのは、七十歳を超えていそうな、小柄な教授だった。講演の題は、「超伝導の主張を、どう評価するか」。
「今日は、少し、意地悪な話をします」教授は、穏やかな口調で、切り出した。「新しい超伝導体が見つかった、という報告は、毎年のように、出ます。そして、そのうちの少なからぬ数が、消えていきます。私は、その消え方に、いくつかの型があることに、気づきました」
スライドが、切り替わった。三つの言葉が、大きく並んでいた。
『電気抵抗がゼロ』『磁場を追い出す』『比熱の飛び』
「超伝導を、本当に見たと言うためには、私は、この三つの証拠を、確かめたいと考えています。第一は、電気抵抗が、ゼロになること。これは、皆さんが、真っ先に測ります。けれど、抵抗のゼロは、細い一本の糸でも、出ます。第二は、磁場を追い出す性質。体積の、どのくらいが超伝導なのか、これで分かります。第三は、比熱。超伝導になる瞬間、電子の状態が変わって、熱を蓄える量が、飛びます。これは、試料の一部だけでなく、全体の性質が変わったかどうかの手がかりになります。ただし、どの測定も、信号の大きさと、装置の限界を、あわせて評価します」
淳は、ペンを握ったまま、動けなかった。神崎が、初日に、円盤を指さしながら言った言葉が、そのまま、大きなスクリーンに映っている。
「一つでは、足りません。二つでも、危うい。三つ揃えば、議論の入口には立てる。それが、私の基準です」教授は、続けた。「もう一つ。三つの証拠を、別の研究室が、別の装置で、確かめられること。作った本人が、自分の装置で見ただけでは、まだ、入口の手前です」
質疑の時間になると、後ろの席から、手が挙がった。
「先生は、抵抗のゼロだけの報告は、信じませんか」
「信じない、ではありません」教授は、微笑んだ。「まだ、判断を、保留するのです。保留は、否定とは違います。それは、調べるための、時間です」
淳の心臓が、静かに、大きく打った。保留は、否定ではない。調べるための、時間。
講演が終わり、教室を出る人波の中で、淳は、ノートに、三つの言葉を書き出した。電気抵抗——ノートの中には、あった。自分の試料では、まだ、急な降下と呼べる変化さえ出ていない。磁化——未測定。比熱——未測定。三つのうち、手がかりがあるのは、一つだけ。それも、他人の記録の中にだけだ。
「おや、神崎さん。それに、確か、御堂研の」
ロビーで、後ろから声をかけられた。振り向くと、五十代半ばの、人懐こい笑顔の男が立っていた。名札には、「稲葉」とある。
「稲葉先生、ご無沙汰しています」神崎が、頭を下げた。「三雲くんの、研究室の」
「そう、三雲の。君が、佐伯くんだね」稲葉は、淳の顔を見て、目を輝かせた。「三雲から聞いてるよ。超伝導の研究室にいる、同期がいるって。いやあ、いい研究室に入ったね。御堂先生のところは、堅実だから」
「ありがとうございます」
「うちの研究室はね、面白い話が、大好きでね」稲葉は、声を弾ませて続けた。「もし、実験で、面白そうな材料が出たら、教えてよ。構造から、計算するのは、うちの得意だ。三雲がやるから、遠慮なく持っておいで」
「はい、ありがとうございます」
稲葉は、手を振って、人波の向こうに消えていった。
「稲葉先生は、話が早い人だから」神崎が、小声で言った。「悪い人じゃないけど。面白いと思ったことは、すぐに、誰かに話したくなる人」
「気をつけます」
淳は、そう答えた。何に、気をつけるのか、自分でも、まだ、分からなかった。
帰りの新幹線で、大久保は、ポスターの筒を抱えたまま、ぐったりと眠っていた。神崎も、窓に頭を預けて、目を閉じている。淳は、暗くなった車窓に映る自分の顔を見ながら、ノートの三つの言葉を、もう一度、目で追った。
電気抵抗。磁化。比熱。
いつか、この三つを、全部、埋める。誰にも、一蹴されない形で。淳は、その日が来るのかどうか、まだ、分からなかった。それでも、ペンを持つ指が、静かに、熱を帯びていた。
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