こっそり進める原料の前処理
その週末、淳は大学の図書館にこもり、原料の処理方法について調べた。表面の酸化物や、吸着した水分を除くには、真空中で加熱する方法がある。金属なら、真空中で溶かし直して、混ざりものを分ける方法もある。どれも、地道な手法だった。
月曜の朝、淳は、神崎に、思い切って切り出した。
「先輩、正規の試料の原料なんですが、使う前に真空中で加熱して、表面の水分や酸化物を飛ばしてみたいんです。臨界電流のばらつきの原因が、原料の状態の差かもしれないと思って」
「原料の前処理か」神崎は、腕を組んだ。「今のやり方でも、保管には気をつけてるけど。確かに、ロットによる差は、ゼロじゃない。……いいね。比べられないと意味がないから、処理なしの試料も、同じロットで作って」
「はい」
「真空炉の予約は、私の名前でも取れるから、必要なら言って。結果が出たら、中間のデータとして、御堂先生にも見せよう」
淳は、頭を下げながら、胸の奥が、二重に痛んだ。神崎の好意は、本物だった。正規のテーマを進めるための提案も、嘘ではない。ただ、その同じ炉で、同じ手順で、自分の秘密の原料も処理するつもりでいる。二つの目的が、一つの手順の上に、重なっていた。
処理がうまくいったかを、どう確かめるか。成分分析を学内の分析室に出せば、数字は出る。ただし、依頼書には、用途を書かなければならない。淳は、その欄に書く文言を、どうしても思いつけなかった。
「研究室にある設備で、できる範囲は限られてるよな……」
棚にある装置を思い浮かべながら、淳は手の届く方法を、一つに絞った。処理の前後で、粉の重さと色を記録する。それから、同じ原料を、処理する前と後で、それぞれ小さな錠剤に固めて、低温での電気抵抗の落ち方を比べる。金属は、混ざりものが少ないほど、室温と極低温での抵抗の比が大きくなる傾向がある。欠陥でも変わるから、混ざりものだけの指標ではない。それでも、処理の効き目を探る、代わりの目印にはなる。神崎に教わった知識が、こんなところで、道具になった。
翌週から、研究室の真空炉が空く時間を見つけては、こっそり自分の原料を入れた。使用記録には、正規のテーマの一環であるかのように、それらしい名目を書き添えた。嘘の記録を残すことに、最初は強い抵抗があった。それでも、回数を重ねるうちに、その抵抗も、少しずつ薄れていった。
処理には、手間がかかった。真空中で加熱し、冷まし、重さと色を記録する。条件を変えて、同じ工程を何度も繰り返す。夜、誰もいない部屋で、真空ポンプの低い唸りを聞きながら、淳は炉の窓を覗き込んだ。原料が、ほんのりと赤みを帯びていくのが見える。最初の処理は、失敗した。温度を欲張って、高くしすぎたのだ。取り出した粉は、一部が焼き固まって、小さな塊になっていた。乳鉢で砕いてみると、色も、まだらだった。「高いほうが、よく飛ぶだろう」という思い込みが、原料そのものを変質させていた。淳は、記録の頁に、大きな字で書いた。「温度、高すぎ。焼結。廃棄」。二度目からは、温度を下げ、時間を長くした。真空度と、温度と、時間。三つを記録して、処理前後の重さの変化を、小数点以下四桁まで、書き留めた。処理前が一・〇〇〇〇グラム。処理後が、〇・九九二一グラム。減った〇・〇〇七九グラムの中身は、おそらく、水分と、酸化物の一部だろう。ただし、重さだけでは、何が抜けたのかまでは、分からない。
四つ目の◇は、別の扱いが必要だった。真空中で加熱すると、量の少ない◇は、飛んでしまいそうだった。淳は、◇だけは加熱せず、開封したらすぐ、グローブボックスの中の封をした瓶に移す、という扱いに決めた。全部を同じやり方で処理すればいい、というわけではない。原料ごとに、確かめて、決める。
処理のたびに、粉の重さが、わずかに減った。一パーセントに満たない、ほんの少し。それでも、色は、確実に明るくなっていく。表面の水分や酸化物が、抜けているのかもしれない。重さと色から言えるのは、そこまでだ。
「淳くん、最近、真空炉、また予約してるの?」
ある日の午後、神崎が予約表を見ながら、そう聞いてきた。
「新しい組成の試料で、ちょっと手こずってて」
「そう。炉が取れない日は言って。私の枠、譲るから」
半分は本当のことだった。淳は、自分の答えに嘘がまざっていないと感じている自分に、少しだけ驚いた。
三日後、淳は、処理前と処理後の原料で固めた二つの錠剤を、測定室の夜の枠に差し込んだ。装置に配線をつなぎ、冷却を開始する。深夜の測定室、モニターの光だけが、部屋を照らしている。
処理前の錠剤は、室温から極低温まで、抵抗が六分の一ほどに落ちた。処理後の錠剤は、九分の一を超えた。
「……効いてる」
淳は、二本のグラフを、じっと見比べた。差は、小さくない。同じ装置、同じ配線、同じ温度計での比較だから、装置の癖は、条件が揃っている。神崎に教わった、比べられる実験の意味が、ここで、身体に落ちてきた。原料の処理は、抵抗の比に、確かに、差を出している。混ざりものが減ったせいなのか、別の理由なのかは、これから確かめることだ。
念のため、淳は、同じ錠剤を、三日間、ボックスの外に置いて、もう一度測ってみた。処理後の錠剤の抵抗比は、九分の一から、七分の一まで、落ちていた。表面が、また空気に触れて、変わったのかもしれない。理由はまだ断定できないが、処理は、処理したあとの保管まで含めて、初めて意味を持つ。淳は、処理済みの原料を、ボックスの中の封をした瓶に移して、日付を貼った。中間報告のとき、御堂が、原料の保管をどう管理しているかを聞いてきたのが、あとから、ずっしりと意味を持って戻ってきた。
その夜の測定を終えて、ノートに書き込みながら、淳は、ふと思った。「原料:使用前に前処理」。あの一行を、実験ノートによくある注意書きだと読み流していたのは、自分だった。ノートの筆者は、最初から、書いていたのに。
同じ週、正規のテーマの側でも、前処理ありとなしの試料の臨界電流を、比べることができた。処理ありのほうが、およそ一割、高かった。神崎は、グラフを覗き込んで、「面白い。データを増やそう」と言った。淳は、二つの結果が、同じ方向を向いていることに、静かな高揚を覚えた。表の顔と、裏の顔が、一本の道の上で、並んで歩いている。
二度目の挑戦は、九月の下旬だった。処理した原料を使い、再びノートの手順に従って試料を作る。慎重に量り、混ぜ、炉に入れる。今度こそ、という期待を胸に、淳は測定の結果を待った。
だが、結果は、前回とさほど変わらなかった。抵抗値は下がるものの、完全なゼロには至らない。淳は肩を落としながら、もう一度、ノートを読み返した。
「材料は良くなったはずなのに……」
原料は、確かに良くなった。それなのに、結果は動かない。ということは、別の何かが、まだ、足りない。淳は、秋山の升目の、次の欄を見た。「条件B」。混合の時間だった。
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