失敗の読み方、秋山の予定表
翌日、淳は寝不足の頭で、いつもより早く研究室に着いた。始発で帰ってシャワーを浴びただけだったが、不思議と眠くはなかった。昨夜のグラフの、途中で下げ止まった線が、頭から離れなかった。
失敗には、二種類ある。何が悪かったのか分からない失敗と、分かる失敗。昨日のは、前者だった。淳はノートの新しいページを開いて、思いつく限りの原因を書き出してみた。原料の状態。混合の細かさ。焼成の温度。冷却の速さ。それと、ノートの走り書きにあった、「熱処理:二段階」。
書き終えて、淳は、鉛筆を止めた。五つ。どれから疑えばいいのか、まるで見当がつかない。
そのとき、隣のテーブルで、神崎が大久保に何かを説明している声が聞こえた。
「配合を変えたなら、焼き方は変えないで。焼き方を変えたなら、配合は変えない。一度に二つ変えたら、どっちが効いたのか、あとから分からなくなる」
「それ、俺が一番やらかすやつだ」
「知ってる。だから言ってる」
淳は、その会話を、聞かなかったふりをして聞いていた。それから、書き出した五つの行に、一つずつ、丸をつけた。一度に一つずつ。それが、五つの原因を切り分ける、唯一の方法だった。
「淳くん、朝早いね」
神崎がこちらを覗き込んだ。淳は、ノートを閉じる代わりに、ページの上に腕を置いた。
「あ、はい。卒論の条件出しを、ちょっと整理していて」
「いい心がけ」神崎は、それ以上は覗かなかった。
昼前に、淳は顕微鏡で、昨夜の試料の断面を確認した。表面の近くに、細かい粒が点在している。それが原料の混ざりものなのか、反応しきれなかった原料なのか、別の相なのかは、顕微鏡だけでは、まるで分からなかった。
ふと、コピーの余白の走り書きを思い出す。「原料:使用前に前処理」。実験ノートによくある注意書きだと思って、読み流していた一行だった。
「正規のテーマと同じ原料の使い方じゃ、足りないのか……」
淳は、原料の保管状況と、ロットの記録を見直した。正規のテーマなら、これで十分な品質だ。ただ、ノートの系統は、組成のわずかなずれにも敏感なのかもしれない。原料の表面についた酸化物や、吸着した水分が、そのまま組成のずれになる、という仮説を立てた。仮説だった。確かめるには、処理して、もう一度作ってみるしかない。
午後は、正規のテーマの、臨界電流の測定だった。神崎が、装置のパネルの前で、淳に手順を見せる。
「試料に電流を流して、電圧を見る。電流を、少しずつ上げていく。超伝導のうちは、電圧はゼロ。ある電流を超えると、電圧が立ち上がる」神崎は、画面の曲線を指さした。「どこからを『超えた』とするかが、大事。うちでは、試料の長さあたり、一マイクロボルト毎センチの電圧が出た電流を、臨界電流と決めてる。目で見て決めたら、人によってばらつくから」
「基準を、先に決めておくんですね」
「測る前に決めるの。データを見てから決めたら、都合のいい数字を選んじゃうから」神崎は、少し得意げに続けた。「これも、蓮見さんに最初に叩き込まれたこと」
淳は、曲線が立ち上がる様子を、じっと見ていた。抵抗がゼロのあいだは、平らな線。臨界電流を超えると、電圧が、急に生まれる。四月に御堂が言っていた、あの言葉。「突然、超伝導ではなくなる」。あの境目が、いま、目の前で、数字になっている。
もう一つ、淳の心に残ったのは、神崎の言葉だった。基準は、先に決める。もし、裏の実験の結果を、どう判断するかを、先に決めておくなら。「抵抗がゼロになる」だけを、成功の条件にするのは、危うい。淳は、ノートの隅に、書き足した。「成功の基準:測る前に決める」。
翌日の昼休み、淳は秋山の席の前に立った。
「秋山、ちょっと相談していい?」
「なに」秋山は手帳から顔を上げた。
「卒論の条件出しで、追加でいくつか試したい条件があって。装置の予約、どうやって取ったら、うまく回せるかなと思って」
「見せて」
秋山は、淳のノートの、書き出した五行を、じっと眺めた。淳は、自分の書いた五行が、卒論の条件出しに見えるように、心の中で祈った。
「……なるほど。原料、混合、温度、冷却、で、一つずつ振るのか」秋山は、鉛筆で四つの行に線を引いた。「悪くない。丁寧な組み方だ。神崎さんの指導?」
「うん。受け売り」
嘘ではなかった。一因子ずつ、という考え方は、確かに神崎から教わった。
「じゃあ、こうしよう」秋山は手帳を開いて、白紙のページに、升目を引いた。「炉、真空炉、測定室。それぞれの空き枠を、週ごとに見て、条件ごとに割り当てる。焼成は、前の日に炉に入れて、翌朝取り出す。測定は、その日のうちに。装置の予約は、一日のうちで、夜が一番空いてる」
「夜が」
「うん。夜の枠は、誰も取らないから、余ってる。だから、夜に仕込んで、朝に測る組み方が、一番効率がいい」秋山は、升目を埋めていった。「これで、九月の残りと十月が、大体回る。……はい」
手帳のページを破って、淳に差し出した。升目の中に、「条件A」「条件B」「条件C」と、秋山の几帳面な字が並んでいる。
「ありがとう。助かる」
「礼は、予定通りに終わったらでいい」秋山は、ほんの少しだけ笑った。それから、ふと、升目の一つを指さした。「これ、冷却が、夜の枠になってるけど。冷却の条件を振るのに、夜じゃなきゃいけないのか」
淳の心臓が、跳ねた。
「あ、えっと。冷却中に、人の出入りがあると、影響が出るんじゃないかと思って。振動、とか」
「振動? 珍しい変数を疑うな」
「念のため」
「ふうん」秋山は、手帳に何かを書き込んだ。「まあ、変数は多いほうが、あとで潰せるからな。頑張れよ」
秋山が書き込んだのは、たぶん、淳の予定と同じ、他愛のない一行だろう。そう自分に言い聞かせながら、淳は席に戻った。秋山の几帳面さは、淳の秘密を助けてもくれる。同時に、いつか、その几帳面さに、追いつかれるかもしれない。
ノートに戻って、淳は、五つの行を、今週の枠に合わせて並べ直した。一番上の行に、赤い丸をつける。「原料の前処理」。そして、いちばん下に、まだ手をつけられない一行が残った。「熱処理:二段階」。二回焼く、という意味だろうか。分からないまま、括弧をつけた。「後回し」。
秋山の升目の、今夜の欄には、まだ何も書かれていなかった。淳は、その空白に、鉛筆で小さく書き込んだ。「真空炉」。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




