決心、ノートを自分の手で再現する
夏休みが明け、大学に活気が戻り始めた頃、淳は一つの決心を固めていた。あの古いノートの手順を、自分の手で、実際に再現してみる。誰にも言わず、こっそりと。
久しぶりに顔を合わせた研究室のメンバーは、それぞれに日焼けした顔で、夏休みの話をしていた。淳もお盆の帰省の話を軽く披露しながら、心の中では、これから始めようとしていることの重さを、静かに噛みしめていた。
正規のテーマは、変わらず続いている。神崎の指導のもと、スズ系材料の合成と測定を、着実にこなす毎日。その合間を縫って、裏でもう一つの実験を進める。言葉にすると単純だが、実際にやってみると、思っていた以上に神経を使う作業だった。
まず必要なのは、材料だった。三つは棚にある。正規のテーマの原料と共通だから、使った分は、あとで補充の発注を出しておけば足りる。問題は、四つ目の◇だった。
淳は、蓮見に与えられた自由発注枠で、その原料を、ごく少量だけ発注した。用途の欄には、「添加物の探索的検討(卒論テーマ関連)」と書いた。嘘ではない、と自分に言い聞かせた。けれど、卒論のために買うのではなかった。送信のボタンを押す指先が、わずかに冷えた。
一週間後、小さな瓶が、研究室の受け取り棚に届いた。
「淳くん、その元素、何に使うの」
棚の前で瓶を手にしたところで、神崎に声をかけられた。
「添加物で、少量入れると特性が変わるかを見たくて。卒論の、おまけの検討です」
「ふうん、勉強熱心」神崎は瓶のラベルを眺めて、少しだけ首を傾げた。「この元素、うちで使ってる人いないよ。結果が出たら、共有してね」
「はい」
嘘をつくことに、淳は少しずつ慣れつつあった。その事実に、罪悪感よりも、奇妙な緊張感のほうが先に立っていた。
秋学期が始まると、輪講の担当や学会発表の準備で、スケジュールはさらに詰まった。学祭の準備で、研究室の外も賑やかになる。それでも、限られた隙間時間をやりくりして、裏の実験の時間を捻出する。日中は正規のテーマに集中し、みんなが帰り始める頃合いを見計らって、少しずつ準備を進める。そんな生活のリズムを、九月の頭から、少しずつ作っていった。
夜間に実験をするには、事前に、夜間作業の届けを出す決まりがあった。淳は、その用紙に、「卒論・条件出し(夜間の冷却実験)」と書いて、蓮見のところへ持っていった。
「夜間は、一人はあんまり勧めないんだけど」蓮見は、用紙に目を通して、印を押した。「届けを出してくれるなら、いい。装置の予約と、守衛室の記録だけは、忘れないでね」
「はい」
用紙は、一枚、事務室に回る。それは、今夜のことが、誰かの机の上に、正式に残るということでもあった。淳は、その事実を、少しだけ意識した。
最初の挑戦は、九月の初旬、夜遅くの試料合成室で行われた。
作業を始める前、淳は廊下の様子を確認した。学生居室の明かりは消えている。指導教員室も教授室も、ドアの隙間から光は漏れていない。それでも、誰かが忘れ物を取りに戻ってくる可能性は、ゼロではなかった。物音を立てないよう、いつもより慎重に道具を扱いながら、淳は自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえることに気づいた。
作業台の上には、薬さじが四本と、皿が四枚、並べてあった。原料ごとに、薬さじを分ける。皿は、そのつど拭く。四月に、神崎から教わった通りだ。あの日は、ただの注意だと思っていた。今夜は、その一つ一つが、実験の一部だった。
炉の使用記録簿の用途の欄には、「卒論・条件出し」と書いた。嘘ではない。ただ、それだけだった。ペンを置いてから、淳は、その一行を、しばらく眺めていた。
グローブボックスの中の湿度計の数字は、いつも通りだった。手袋の中で、指を握って、開く。この数か月、毎日のように繰り返してきた動作が、今夜は、初めて、秘密のために使われている。
グローブボックスの中で、四つの原料を、計算どおりに量っていく。三つは、四月に叱られた許容の中に、丁寧に収めた。◇だけは、桁が違った。目標は、〇・〇一四グラム。薬さじの先に、ほんの一粒すくうだけで、天秤の数字が跳ね上がる。淳は息を止めて、粒を一つずつ、皿に落とした。〇・〇一三、〇・〇一四。表示が止まった。〇・〇〇一の差で、あとの結果が変わるかもしれない。そう思うと、手が震えた。
焼成の温度は、コピーには書かれていない。淳は、正規のテーマで使う八百度を出発点に決めて、ノートの手順どおり、炉の中でゆっくり冷ますことにした。手順自体は、この数か月で身についた作業と、大きくは変わらない。むしろ、こんな形で役に立つとは思っていなかった。
炉が動き始めて、しばらく経った頃、廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。淳は思わず身を固くし、ノートのコピーを慌てて鞄に押し込んだ。ドアの向こうで足音が止まり、数秒の沈黙のあと、また遠ざかっていく。見回りの警備員が通りかかっただけらしい。淳は詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。心臓の鼓動は、しばらく収まらなかった。
数時間後、冷却を終えた試料を取り出し、淳は測定室へと向かった。誰もいない深夜の測定室で、装置の低い唸りだけが響いている。神崎に教わった手順を思い出しながら、慎重に金線をつけた試料をセットし、測定を開始した。
モニターに映る抵抗値の変化を、淳は息を詰めて見守った。温度が下がるにつれ、抵抗値は、わずかに下がる。だが、ノートで見たような急激な落ち込みは、どこにも現れなかった。抵抗値は下がり続けたまま、途中で下げ止まり、そのまま横ばいになった。
「……これだけ?」
淳は画面を見つめながら、しばらく呆然としていた。ノートに書かれていた劇的な変化とは、まるで違う結果だった。落胆と同時に、頭の片隅では、冷静な分析が始まっていた。抵抗がゼロにならなかった、ということは、少なくとも、完全な超伝導状態には至っていない。何かが足りない。
それでも、この失敗にはどこか清々しさがあった。誰の指導もなく、自分一人の判断だけで組み立てた実験。結果は思わしくなくとも、そのプロセス自体が、淳の中に静かな達成感を残していた。正規のテーマでは味わえない、この独立した充実が、淳をこの秘密の探求へと、さらに深く引き込んでいった。
始発の時間を待つ間、淳は、測定室の椅子に座ったまま、グラフの保存名を、日付と条件で丁寧に打ち込んだ。「第一回・八百度・炉冷・原料そのまま」。あとから、この名前が、何かの手がかりになる気がした。
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