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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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幕間・お盆帰省、在来線の窓から

在来線の車窓を流れる景色が、都会のビル群から、少しずつ田んぼと畑の緑に変わっていく。淳は座席にもたれながら、三時間の道のりをぼんやりと過ごしていた。膝の上には、実家への土産の紙袋。鞄の奥には、あのコピー用紙が、まだひっそりとしまわれていた。


車窓の景色が変わるたびに、淳の頭の中の切り替えも、少しずつ進んでいくようだった。研究室での慌ただしい日々から、実家でのゆったりとした時間へ。電車に揺られるこの数時間が、その二つの世界を繋ぐ、静かな緩衝地帯になっていた。


実家の最寄り駅に降り立つと、蒸し暑い風と、蝉の合唱が淳を迎えた。駅前の商店街は、記憶の中とほとんど変わらない佇まいだった。八百屋の軒先には、色とりどりの夏野菜が並び、雑貨屋の店先では風鈴が涼しげな音を立てている。


「おかえり、淳」


改札を出ると、母がいつもの軽自動車の脇で手を振っていた。


「ただいま。暑いね、こっち」


「そっちも暑いでしょ、都会は」母は淳の荷物を後部座席に押し込みながら言った。「研究室の方はどう? ちゃんとやれてる?」


「うん、まあまあ順調」


車に乗り込むと、見慣れた田んぼの畦道が、窓の外を流れていった。稲穂はまだ青々としていて、遠くの山並みは夏の陽射しに白く霞んでいる。この景色を見るたびに、淳はいつも、同じ安堵感を覚えた。


実家に着くと、父が縁側で新聞を読んでいた。


「おう、帰ったか」


「ただいま」


「元気そうだな」父は新聞を畳みながら、淳の顔をまじまじと見た。「なんか、ちょっと痩せたか?」


「そんなことないと思うけど」


「研究、忙しいんだろ」


「うん、まあ、それなりに」


「無理すんなよ。大学の研究って、傍から見ると大変そうだもんな」父はそう言うと、麦茶を一口飲んだ。「まあ、お前が選んだ道だ。応援してるよ」


夕食の席では、祖母も交えて、近況報告が続いた。


「淳ちゃん、研究って何やってるんだっけ」祖母が箸を止めて聞いた。


「超伝導っていう現象の材料を作ってるんだ。冷やすと電気抵抗がゼロになる現象で、それをもっと便利に使えるように研究してる」


「難しくてよく分からないけど、すごいことなんだろうねえ」祖母は感心したように頷いた。


「核融合発電の話、よくテレビでやってるだろ。あれを実現するには、高温のプラズマを閉じ込める、すごく強い磁石が必要になるんだ。僕がやってるのは、その磁石の材料の研究」淳は、蓮見や御堂から聞いた話を、自分なりの言葉で噛み砕いて説明した。


「へえ、じゃあ、淳の研究が将来の電気代に関係してくるかもしれないってこと?」父が興味深そうに身を乗り出した。


「そこまで直結するかは分からないけど、そういう大きな話の、ほんの端っこではあるかな」


「端っこでも、大したもんじゃないか」父は満足げに頷いた。


淳はその会話を続けながら、頭の片隅で、別のことを考えていた。今、自分が話しているのは、あくまで正規のテーマの話だ。もう一つの、誰にも言えない探求のことは、この食卓には決して上がってこない。両親の穏やかな笑顔を見ながら、淳はその話題を、そっと胸の奥にしまい込んだ。


翌日、淳は仏壇に線香を上げてから、近所の商店街をぶらぶらと歩いた。子供の頃から通っていた駄菓子屋は今も変わらずそこにあって、年老いた店主が「おや、大きくなったねえ」と目を細めた。


商店街を抜け、田んぼのあぜ道を歩きながら、淳はふと立ち止まった。稲の緑が、風に合わせて波のように揺れている。蝉の声と、遠くの用水路のせせらぎだけが聞こえる、静かな午後だった。


こんな穏やかな景色の中にいても、淳の頭の中では、あの几帳面な筆跡が、時折ちらついていた。研究室に戻ったら、もう一度資料室を確認してみようか。あるいは、思い切って自分で材料を集めて、こっそり再現実験を試してみようか。そんな考えが、蝉の声に混じって、淳の中で少しずつ形をとり始めていた。


夜、縁側で線香花火をしながら、父がふと口を開いた。


「淳、研究って楽しいか」


「楽しいよ。まだ全部が分かってるわけじゃないけど」


「そうか」父は花火の火花を見つめながら、少し間を置いた。「俺なんか、会社の仕事、面白いと思ったことなんてほとんどなかったからな。淳が楽しいって言えるの、羨ましいよ」


「お父さんの仕事も、大変そうだもんね」


「まあな。でも、家族を養えたんだから、それはそれでよしとしてる」父はそう言うと、照れくさそうに笑った。


「そういやな」父は火の玉を見つめたまま言った。「うちの工場で昔、同じ図面、同じ材料なのに、A工場だとちゃんとできて、B工場だと不良が出る、ってことがあった」


「原因は?」


「調べてみたら、A工場のベテランが、炉の温度計を見る前に、音で炉の調子を判断してた。音が変わったら、扉を少しだけ開ける。図面にも手順書にも、そんなことは一行も書いてない」


「書いてないのに、ずっとやってたんだ」


「本人は、やってるって意識もなかったらしい。聞いてみるまで、誰も知らなかった」父は肩をすくめた。「図面に書いてあることより、書いてないことのほうが、本当は大事だったりする。だから、うちは今でも、新人には、人から教わって覚えさせる。書いてあるものだけじゃ、同じものは作れないんだよ」


淳は、手の中の線香花火が、ぱちぱちと弾けるのを見つめた。書いてないこと。地下のノートの余白の、四つの走り書きを思い浮かべる。「根気強く」。あれは、書いてある側の言葉だ。けれど、書かれていない何かが、その裏に、まだ残っているのかもしれない。


「どうした、難しい顔して」


「ううん。お父さんの話、面白いなと思って」


花火の火が消えると、父はもう一本、淳に手渡した。線香花火の小さな火花が、暗闇の中で静かに弾けている。淳はその光を見つめながら、自分が今抱えている秘密のことを、ほんの少しだけ、この場で打ち明けたい衝動に駆られた。けれど、その衝動はすぐに、言葉になる前に消えていった。


「昔は、家族でよく花火大会行ったよな」父がふと懐かしそうに言った。


「行ったね。屋台で買ったりんご飴、覚えてる」


「お前、あれ毎年食べたがってたもんな」父は笑いながら、また新しい花火に火をつけた。夜の静けさの中、小さな火花の音だけが、庭先に静かに響いていた。


お盆の三日間は、あっという間に過ぎていった。親戚が集まる法要、墓参り、縁側での花火。それでも淳は、穏やかな時間の中で、次第に落ち着かない気持ちが募っていくのを感じていた。


正規のテーマにもやるべきことは溜まっている。けれど、それ以上に淳の心を急かしていたのは、あの古いノートの続きを自分の手で確かめてみたいという衝動だった。材料の入手方法、こっそり作業できる時間帯、誰にも気づかれずに実験を進める段取り。


帰りの電車の窓に映る自分の顔を見て、淳はふと笑った。


電車が加速し、田園風景がビル群へと少しずつ変わっていく。淳は目を閉じて、これから始まる何かの予感に、静かに身を委ねていた。

お読みいただきありがとうございます。

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