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第9話:自由な朝。初代翻訳官の手帳が示す絶景へ

本日2話目です

次話は明日投稿します

 ちゅん、ちゅちゅっ。

 名も知らぬ小鳥たちのさえずりが、静寂の森の朝を告げていた。

 分厚い木々の天蓋の隙間から、細い金糸のような朝陽が幾筋も差し込み、夜行性の発光苔たちの青い光をゆっくりと朝の空気に溶かしていく。

 森の朝は冷え込む。

 吐く息は真っ白に染まり、落ち葉に降りた朝露は薄氷へと変わっていた。

 普通の旅人が薄着で夜を明かせば、最悪の場合、命を落としていたかもしれない。

 しかし、エレインのまどろみは、これまでの人生で最も深く、絶対的な温もりに守られていた。

「……ん、んぅ……」

 目を閉じたまま、幸せそうに身をよじる。

 頬に触れるのは、最高級のシルクよりも滑らかで、ふんわりとした極上の手触り。

 その奥からはトクトクという命の鼓動と、じんわりとした温もりが伝わってくる。

 エレインの小柄な身体は、ギルの三本のふさふさとした尾に、繭のようにすっぽりと包み込まれていた。

 本来、氷の幻獣であるギルの体温は、人間が触れれば凍傷を起こすほどに低いはずだ。

 しかし彼は昨夜ポポのスープから得た温もりと自身の魔力を巧みにコントロールして、エレインが最も心地よく眠れる『絶妙な人肌の温度』を、一晩中保ち続けてくれていたのだ。

「……ギル、あったかい……ふふっ」

 無意識のうちに毛並みに顔を埋め、すりすりと頬ずりをすると、頭上から呆れたようなため息が降ってきた。

『……いつまで寝ているつもりだ、ニンゲン。すっかり陽が昇っているぞ』

 エレインがぱちりと目を開けると、すぐ目の前にギルの涼しげな青い瞳があった。

 彼はすっかり目を覚ましているようだが、エレインを起こさないように、じっと動かずにいてくれたらしい。

「おはよう、ギル。ごめんなさい、ギルの尻尾があんまり気持ちよくて、つい……」

『フン。俺は誇り高き幻獣だ。ニンゲンの小娘の毛布代わりになったなどと他の精霊に知られれば、末代までの恥だからな。……今日は特別だ』

 ぷいっとそっぽを向くギルだったが、耳はパタパタと照れくさそうに揺れているし、エレインを包み込む尻尾のホールドは全く緩む気配がない。

 その不器用な優しさがたまらなく愛おしくて、エレインはクスクスと喉の奥で笑った。



  ――コトッ、ふつふつふつ……。

 その時、すぐ近くから昨夜も聞いたあの音が朝の澄んだ空気を震わせた。

 ギルの尻尾の隙間から顔を出すと、少し離れた岩場でポポが鉄鍋の下で一生懸命に炎を揺らしていた。

 昨夜、最後の一滴まで平らげたスープの鍋。

 そこにポポが清らかな湧き水を足し、エレインが拾い集めていた野生のナッツを石で砕いて入れ、コトコトと煮込んでくれていたのだ。

『アッ! エレイン、オハヨウ! ギルモ、オハヨウ!』

「おはよう、ポポ。朝ご飯を作ってくれてたの?」

『ウンッ! エレイン、オナカスイテルカナッテ。キノミ、イッパイイレテ、アタタメテオイタヨ!』

 鍋からは、昨夜の肉の旨味が溶け込んだ残り汁をベースに、ナッツの香ばしく甘い匂いがふわりと立ち昇っていた。

 起き抜けの冷え切った身体に、誰かが自分のためだけに温かい食事を用意して待ってくれている。

 その事実だけで、エレインの胸の奥がじんわりと熱くなった。

「ありがとう、ポポ。とってもいい匂い」

『……俺の分もあるんだろうな、小さな火よ』

 ギルが尻尾を解いてのっそりと立ち上がり、期待に満ちた目で鍋を覗き込む。

『モチロンダヨ! ギルノブンモ、イッパイアルヨ!』

 エレインはトランクから木彫りの器を取り出し、温かいスープを注ぎ分けた。

 ナッツがたっぷり溶け込んだスープは、昨夜の澄んだ琥珀色から一転して、とろみのついた白濁色へと変わっていた。

 フーフーと息を吹きかけ、一口すする。

「んんっ……美味しいっ!」

 ナッツの優しい甘みとコクが口いっぱいに広がる。

 昨夜の塩気と肉のエキスが最高の隠し味となり、とろみのあるスープが寝起きの胃をやさしくコーティングしていく。

 ポポの火加減は、朝の目覚めにふさわしい「シャキッとする温度」に調整されていた。

 温かいものが食道を通るたびに、全身の細胞がパチパチと目を覚ます感覚がある。

『美味い。この木の実の歯ごたえが悪くないな。ニンゲン、もう少し寄越せ』

 ギルもあっという間に平らげ、器を鼻先でツンツンと押して催促してくる。

 朝の澄んだ空気の中、小鳥のさえずりをBGMにしながら囲む温かい朝食。

 王宮の地下室でどれだけ願っても手に入らなかった、ささやかで、けれど何よりも贅沢な時間だった。


  すっかりお腹を満たし、食後の白湯で一息ついた後。

 エレインは膝の上に、古ぼけた革表紙の手帳を開いた。

 『精霊翻訳官』という役職をこの国で初めて確立した、初代翻訳官の遺した手記。

 王城の書庫の奥で埃を被っていたものを、エレインがこっそり持ち出した唯一の「本」だ。

 王都の精霊との契約だけでなく、初代翻訳官が世界中を旅して出会った美しい景色や、珍しい精霊たちの記録がびっしりと書き残されていた。

「この静寂の森を北に抜けると……あ、あったわ」

 日に焼けた羊皮紙のページをなぞり、指先が一箇所で止まる。

「『琥珀の湖』」

 描かれていたのは、森を抜けた先に広がる巨大な湖のスケッチだった。

「水面が夕陽を反射して、まるで一面の琥珀のように輝く絶景の湖……。そして、ここには『発酵と熟成』を司る精霊が眠っている、って」

『ハッコウ? ジュクセイ? ソレハ、ナンダ?』

 ポポが不思議そうに炎の先端を傾けると、エレインは目をキラキラと輝かせた。

「ゆっくりと時間をかけて、食べ物を美味しくする魔法のことよ。絞りたての果汁を甘くて芳醇なお酒に変えたり。お肉をとろけるような柔らかさに熟成させたり。パンの生地をふわっふわに膨らませたり」

『フワッフワ! アマイオサケ! ソレハ、トッテモオイシソウダネ!』

『……美味い肉が食えるなら、行ってみてもいいぞ』

 王城の人間たちは、何日も何ヶ月もかけなければ効果を発揮しない「発酵の精霊」を、いつしか忘れ去っていた。役割を失った精霊は、深い眠りについてしまったのだという。

「起こしてあげましょう。ゆっくり時間をかけることが、どれだけ贅沢で素敵なことなのか――私たちが教えてあげるの」

 エレインは手帳をパタンと閉じ、立ち上がった。

 大きく両手を広げ、森の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。

「さあ、出発よ! 目指すは琥珀の湖。最高の果実酒と、ふわふわのパンケーキを求めて!」

『オォーッ!』

『……やれやれ、食い意地の張ったニンゲンだ』

 文句を言いながらも、ギルは頼もしげにエレインの隣に歩み出た。

 ポポはトランクの金具の上にちょこんと飛び乗る。

 太陽が高く昇り、静寂の森に光の道筋を落としている。

 王城での息苦しい日々に別れを告げた氷の令嬢は今、最高の仲間たちと共に、まだ見ぬ絶景と美食へ向かって、希望に満ちた足取りで歩き始めた。

 こうして、エレインの旅の「第一章」は、温かいスープの余韻と共に――静かに、晴れやかに幕を閉じた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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